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「手術の日が決まった」
真っ白な、とても真っ白な部屋に、言葉は静かに反響する。音に色があるならば、部屋に黒い染みをつけてしまうような澱んだものかもしれない。
声の主は頬のこけている中年男性だった。張りのあるスーツの上によれよれの白衣を羽織っている。華奢なフレームの眼鏡は少し歪んでいた。
彼の視線の先には、彼よりも線の細い少女が座っていた。
ゆっくりと顔を上げて、少女は男を見上げる。
少女は部屋よりも白い白色で染められた長袖のワンピースを着ていた。そこから伸びる四肢もまた、透けるように白くて細い。対照的に髪の毛は鴉の濡れ羽色で、切り揃えられた前髪とは対照的に後ろ髪は床にさらさらと流れている。
彼女の持つ色は、面長のなかにある薄い唇と、右の瞳だけ。
――左の瞳は闇よりも濃い漆黒なのに、右は血よりも濃い紅色をしているのだ。
そんなオッドアイの少女は、部屋の中央で、分厚くて文字の小さな書物を読んでいるところだった。年端もいかない少女には似つかわしくない、経済学のものだった。男はそれを見て眉を顰める。
「瞳の移植手術だ」
少女はじっと男の唇を見ているようだった。
表情を変えることもなく、言葉を発することもなく、ただじっと男を見つめる。見つめるというよりは、観察しているという表現が正しいかもしれない。
……乾いた沈黙が空間を支配する。
親子ほど歳の差がありそうな二人なのに、屈したのは男のほうだった。
男は一歩後ずさると、白衣の右ポケットからチェック柄のハンカチを取り出して、頬に当てた。骨張った手は僅かに震えていた。
「い、1週間後の正午に執り行う。これは所長の私ではなく、国家の決定だ。わかったな!」
男は吐き捨てるように言い残して、もはや視線を合わせることもなく逃げるように退室する。
扉が無慈悲に音を立てて閉まる。
少女は、焦点の定まらないまま、扉に顔を向けた。唇が少しだけ動いて、かたく結ばれる。
それから読んでいた本をそっと閉じて立ちあがった。
真っ白な部屋には生活に必要だと考えられるすべてのものが揃っていた。
ベッドも、シャワーも、バスタブも、テーブルも、チェアーも。それらは一様に白く、少女の肌をさらに明るく際立たせていた。
さらには壁を覆い尽くすように、すべて、白いカバーをかけられた書物たち。
少女は本棚の隙間に丁寧に本を戻すと、バスタブへ、そろりそろりと歩いていく。
ワンピースを脱ぎ捨てて、凹凸の少ない痩せ細った体を露わにした。滑らかな肌には傷のひとつもない。
辺りを水浸しにしながらシャワーを全身に浴びる。ある程度バスタブに湯が溜まってくると、髪の毛は頭上でひとつにまとめて、口元までを湯に沈めた。
そのままぶくぶくと泡を立てる。前髪から雫が滴り落ちた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと睫毛からも水滴が零れる。
指先がふやけるほど長い時間、少女は湯に浸かっていた。
「失礼します」
しばらくして現れたのはメイド姿の少女だった。少女とは年が近そうで、瞳は蒼い。頭にはやわらかなフリルのカチューシャ。紺色の長袖ワンピースの上には白いロングエプロン。これにもフリルがたっぷりとあしらわれている。
メイドは少女を確認すると、掌を口元に当てて目を丸くした。
「あら大変。すぐにお体を拭かせていただきますね」
慣れた手つきで室内に薄い金色のワゴンを入れる。2段目にはふかふかのタオルときちんと畳まれたワンピースが載せられていた。メイドがてきぱきと少女の体を拭く。
「お召し物をまとったら、お食事の時間にいたしましょうね」
少女は無言のまま細かく瞬きを繰り返した。のそりとワンピースに手を伸ばして、頭から被る。袖を通すと、手を握ったり開いたりしてから、またのそのそとチェアーに腰かけた。
テーブルに、白い丸皿が置かれる。掌くらいのサイズの、白い立方体が載っている。
皿の両脇に白いフォークとナイフをセッティングすると、メイドは両手を体の前で組んだ。大きな瞳が蒼く輝き、少女を見つめている。
「どうぞお召し上がりください」
少女が立方体を切り分ける。小さくしてから、口に運び、もぐもぐと時間をかけて咀嚼した。
メイドの口角はずっと上がったまま笑顔が保たれている。
「ついに手術の日が決まったんですね。おめでとうございます」
メイドが小刻みに手を叩いた。
「近頃、歌姫さまはご体調の優れないことが多いのです。お歌の典礼以外は伏せっている日も増えました。姉君さまの瞳を移植するという案は以前よりございましたが、おふたりが17歳になるおめでたい日に合わせて、日取りを決めたようです」
姉君、という単語に、少女の肩が小さく揺れた。
「歌姫さまのお体に大事がありますと、いとも簡単にこの国は壊れてしまいます。ですが歌姫さまが両の瞳ともに『ルビー』を有すれば、歴代の歌姫さまと同じように完璧な存在となり、お力は安定するでしょう。我々『サファイア』も、研究所の先生方も、これで国家は安泰だと喜んでおります」
メイドは空になった食器をさげる。
「それでは、なにかございましたらお呼びくださいませ。失礼いたしました」
再び少女はひとりになった。
爪先立ちになって、しとやかに、くるくると回り出す。遠心力で白いワンピースは膨らみ広がった。まるで音楽に乗って踊っているようだった。
くるくる。
くるくると、回る。長い四肢をすっと伸ばして、跳ねる。重力を感じさせない。鳥のように優雅に羽ばたく。
口元は自然と綻んでいた。
軽やかなステップで窓辺へ辿り着くと、少女よりも大きな窓を左右に開け放った。身を乗り出してバルコニーへと降り立つ。
――世界は透明なガラスでできたドーム、『玻璃宮』で覆われている。
空中には何両も連なった黄緑色や水色の列車が、時に大きなカーブを描きながら走っていた。眼下には整然と区分けされた街並みが広がっていて、人々の行き交う姿が小さく見える。さながら模型のようだった。
そして、ドームの中心とおぼしき位置には、とんでもなく大きな女性像が立っている。両手を胸の前で合わせて祈りを捧げている像だ。しかし顔の位置には、横長の表示装置らしきものが設置されている。
ぶ……ん。