第三話 ―その2―
マレルが城のダイニングルームに入ると、意外な客が茶を飲んでいた。
黒曜石のように艶のある長い髪に、黒真珠のように輝く、意志の強そうな瞳。落ち着いた雰囲気の中にある透明感は、触れてはならないような錯覚を覚えさせる。清廉とした魂に魔性を秘め、自身にその自覚のない危うさが、見るものの心をさらに惹きこむ。
そんな白さを持った、黒い美女―――今、マレルが最も視界に入れたくない存在……。
マレルは彼女に一瞬眉を顰め、挨拶もせずに真向かいの席に着く。
この古城は無駄に広いが、マレルの従者は指折るほどの最低限の人数に制限されている。この人のために。
「…久しぶりね、マレル」
「『お母様』もご機嫌麗しくいらっしゃいますようで」
「そんな言い方は止めて。私は――」
「私は、何です?」
「…………………」
それから会話はない。空になったカップが下げられても、日が傾いて沈みかけても、特にどうすることもない。
このままずっと正面で座してやろうかとも思ったが、それも我慢の限界だった。自分より長生きのこの人の方が時間に耐える術をもっているし、なにより自分の性に合わない。
「……いい加減、何の御用でいらっしゃったのかくらい話してくださいませんか? 私は今、忙しいんです」
「忙しい? 何をしているの?」
「別に……一人、『娘』を迎えようかと考えているだけです」
「何ですって……! あなた、また―――」
「心配ご無用です、自棄を起こしたわけではありませんから。ただ、私が惚れてしまったわけで、一週間でどうやって口説き落とそうかといろいろ思案しているんです。鼻っ柱の強そうなコですが、だからこそ燃えるのかしらね」
わざわざ鼻にかけたような物言いをするマレル。言葉にあまり険は含ませないが、二人の「関係」からすれば、ケンカを売ってるのと同義だ。
「止めなさい。そんな短い付き合いで悠久の刻に引き込むというの? あまりに強引すぎるわ……」
「あなたが……それを言うの……!」
マレルの指がテーブルに鋭い爪痕をつける。ガタリと椅子を跳ね飛ばし、長いテーブルの脇をツカツカと進み、女の細腕を引っ張って立たせた。
「エデア……」
黒髪の女の名を、呪うように搾り出す。
生まれつきの不死者であるというのに、元々人間だった自分よりも澄んだ眼差し。外見年齢もほとんど変わらないのに、絶対的に違う純粋さ。
エデアはマレルの重く鋭い眼差しを受けて、哀しむ表情を見せる。それが自分への哀れみだとわかった時、マレルの怒りは爆発した。
「エデア=グランスダイト―――私はあなたを、許せない!」
両手で細い首を絞め……られなかった。指先はカタカタと震え、痛みすら感じる。
どんなに歯を食いしばっても超えられない壁―――――。
「この『血脈』のために、私はあなたを引っぱたくこともできない! 私の苦しみも辛さも、あなたには伝わらない! 私のなかで暴れる感情がどんなものか、あなたは知る由もないのよ!」
「そんなことはないわ! 私はあなたのことを――!」
「それがわかってないっていうのよ!!」
体当たりするようにテーブルに押し倒し、マレルはエデアの唇を奪った。
「んっ……ん、ン…………!」
震える華奢な肩を、震えた指先で押さえつける―――。
触れ、絡めて、冒し続け……………離れた時は、赤い夕陽が沈みきっていた。
「―――はっ、はぁ、はぁ………こんなに激しいキスを交わしても、エデアの唇を噛み切ることすらできない………」
バチン―――ッ
叩かれた頬を押さえて、テーブルに横たわったままのエデアを見下ろす。
こちらを真っ直ぐ見詰めながら涙を流すエデア………マレルは歯軋りする!
「く…あああぁぁぁぁ!!」
エデアの横に拳を落としてテーブルを叩き割り、マレルは窓から城を飛び出して森に消えた。
歩むのを止めて木にもたれかかると、マレルの目元が涙で滲んできた。
「バカ………泣きたいのはこっちなのよ……」
涙が流れ落ちるのをぐっと堪えていると―――
「なんだ……痴話ゲンカか?」
「!? 何者…!」
涙を拭って声が落ちてきた頭上を見上げると、そこに張り付いたような愉悦があった。
星明りからも陰になる枝葉の暗がりの中で、さらに黒い人影。覚えのある声に息を呑み、マレルの血は逆流しそうになった。
「クックック……不死者がそう顔を真っ赤にするなよ」
「アロン……どうしてお前がここにいるの!」
アロン=グランスダイトが父親である王を滅した後に行方不明になったのは、不死者なら誰もが知っていることだ。
「ま、俺がお前の領内にいることに気付かなくても当然だわな。取り込み中だったようだし」
「聞いていたの…!?」
「聞こえたんだよ。おかげで目が覚めちまったじゃねぇか」
アロンが物理的なものだけでなく、呪いや幽体の声まで感知する能力があることをマレルは知っている。それはまさに地獄耳だ。
「全く、どうして女ってのはこうもかしましく、醜いのかねぇ」
「………降りてきなさい。すぐに王の後を追わせてやるわ」
「そう目くじら立てんなよ。お前と姉貴の蜜な関係に水を差したりはしねぇって」
アロンは音も立てずにするりと降りてくる。
さんざん火に油を注いでおいて堂々と目の前に降り立つ―――少年? しかし、確かにアロンだ。なぜ幼い姿になっているのかはわからない。が、思いもかけず見下ろせる格好になって、マレルは幾分余裕を取り戻した。
「その貧相な身体、王に呪いでも受けたの? 笑えるわ」
「お前にとっちゃヤなことを思い出すだろうが、勘弁しろよ」
「口先までガキの頃ってわけね。今なら気兼ねなく殺せそうだわ」
「おいおい、今のは『お返し』だろ? カリカリするな……俺は用があって来たんだよ」
「用?」
「『王の欠片』だ」
「………なるほど」
マレルはようやく笑みを漏らした。アロンの狙いが見えたからだ。
「『欠片』を集めて消耗した分、もしくはそれ以上の力を得ようというわけね」
「まぁ間違いじゃねぇよ。で?」
「で――? フフフ………お前が探りも入れずに話を切り出すということは、問答無用でよこせということでしょ?」
「わかってんじゃねぇか。で? 持ってるのか?」
「一つあるわ…………でも、『問答無用』じゃ渡せない。条件が二つある」
「…言ってみろ。それから考える」
自分から目を離さないアロンを、マレルも注意深く観察する。
アロンは頭も能力も悪くない。むしろ冴えているし、強い。唯一の弱点らしいところと言えば無謀だというところだが、決して無策ではない。恐ろしく狡猾ですらある。
半面、意外に義理堅く、約束を反故にしない一面もある。アロンには契約を順守する姿勢が在るのだ。もちろんそれがアロンにとって都合よく、無理難題でなければ、の話になるが。
その辺りを計算に入れてもおそらく問題ないだろう。王の欠片に秤は傾く。
「条件は、エデアの足止めよ。私は今、ある娘が欲しいの」
「アシェルとかいう女のことか」
「なぜ知っているの!?」
「なに……最近は眠っていても声が聞こえてくるんでね。あの女、頭を抱えてたぜ。お前みたいな中途半端な不死者を前にして迷っているようだな」
「中途半端…?」
「欲しいなら奪えばいいだけだろ。それ以前にお前、通りすがりの人間に何を理解してもらおうとしてるんだ? アシェルに与える猶予の裏返しはそういうことだろ」
「………………」
そんなつもりはなかったが、言い返す言葉が見つからなかった。
「フン、どうにしろ止めておけ。どうせ姉貴へのあてつけだろ。それにあの女………何かを持ってるぜ。軽く考えていると痛い目を見るぞ」
「言霊呪法のこと? あれは大した力ではないわ」
「さて、それだけか……」
「どういうこと…?」
アロンは自信家だが現実主義者でもある。もったいぶった言い回しを甘く見てはいけない。それに覗き見ることのできたアシェルの記憶は表層の部分でしかない。実際のところ、彼女の目的以外は何も知らないに等しく、情報は欲しい。
「俺が知っている限りでは、あの女は獣人を何匹も倒している。苦戦はしたようだが、そもそも人間の女が剣で、人狼相手に一対三で勝てるか? 強いにもほどがある」
「それは……確かに理解しがたいわね」
「そうだろ。だが裏返しに見ると、それほどの力を持つ人間なら相当な力を持つ不死者になるだろうなぁ。そしてそれが娘になる………案外、悪い話でもないわな」
「………どうかしらね」
相槌を打ちながらも、マレルは思考を巡らせていた。あの娘が不死者に強い憎しみを抱いていること、復讐のために不死者を狙っていることは、自身の持つ『欠片』によってわかっている。しかしそれほどの力があるのなら、昼に会った時にもっと具体的な抵抗をしてきてもよかったはず……。
(……いや、あのコ裸だったし……)
ならば装備しているものに秘密があるのだろうか? 剣……もっと強力な隠し武器を持っているのかも―――。
確かにこれはおいしいのかもしれない………自らの眷族とするならば。
「あの女をどうするかなんてのは俺にとっちゃどうでもいいがな。だがまあ……いいぜ。俺ができる限りなら、手を貸してやる」
「ひっかかる言い方ね」
「こっちにも都合があるんでな。四六時中自由の身じゃねぇんだよ」
「?」
「それでもう一つの条件は………いや待て」
マレルを手で制して、アロンは耳を済ませる…。
「コイツは……姉貴の執事のバロックだな」
バロックは、マレルが不死者になる以前からエデアの従者である。当然、その後に生まれたアロンは幼少時から知っている。
「あの大男、居たの!? さっきまで姿を見せなかったのに……!」
「お前の城の方からじゃねぇな。別のことで出張ってたんじゃねぇか? ちょうどいい、先手を打っておこうぜ」
「何をするつもり?」
「何もしねぇよ。でもアイツが俺とお前の密会現場を姉貴に報告すれば、それだけで少し気を逸らせるだろ」
「…お前は本当に小賢しい頭を持っている」
「羨ましいだろ? アイツが俺たちに気付くまで黙ってろ」
静寂―――いや、風が流れて、枝がざわめきだす………。
(犬は鼻が利く分、敏感すぎて強い臭いに耐えられないという。だけどアロンの耳は違うのかしら)
類い稀な「生まれついての不死者」という化け物の感覚など、元々人間だったマレルには想像できないし、考えるのも馬鹿馬鹿しかった。
しばらく薄目を開けて立ち尽くしていたアロンが、不意に指を鳴らした。合図だ。
「―――しかしお前も懲りねぇよな。姉貴とどんなにケンカしたって、結局またすぐにイチャつくくせに」
「え……!?」
「ダテに長い間くっついてねぇよな。姉貴は変わらずお前にゾッコンなんだろ? 全く、どっちが魔性の女なんだか……」
ここでマレルは、アロンの視線が口の動きとは別であることに気付く。これは演技、怪しまれない話ということなのだ。
しかしコイツ、好き勝手なことを……!
「人間のお姫様が不死者のお姫様を誑かしましたなんて、前代未聞というか歴史に残るというか、伝説もんだぞ。いくら歳をとらねぇとはいえ、二百五十年も女同士で関係を続けているってのは………よっぽど肌が合うんだろうなぁ?」
瞬間、マレルはアロンを本気で引っ叩いていた。
「このくそガキ! あまり調子に乗ると本気で始末するわよ!!」
叩かれたアロンはケロリとしていて、あまつさえ嘲笑してみせる。
「クックックック! いいんじゃねぇの、背徳に塗れた青春を永遠に謳歌するってのも! 誰も邪魔なんかできねぇしな!」
「アロン…っ!」
「何だ? まだ言いたいことでもあるのか…?」
アロンの目を見てハッと我に返る―――二つ目の条件!
「……はっきり言っておくわ。お前がどうしてここに来たんだか知らないけれど―――用が済んだら二度と私の目の前に現れないで!」
「クッ……アッハッハッハッハ!!」
高笑いしながら跳びあがり、そのまま闇に消えるアロン。
バロックは………アロンを追ったのか、微かに気配を感じた。
計らいは上手くいったのだろうが、苛立ちは治まらない。
「くそっ、あのピエロめ…!」