弟の過去
いじめが始まったのは、小学六年生になったとき。五年生になるまでは兄貴がずっと俺の傍に居たから、下手に手出しできなかったんだと思う。兄貴はなぜか下級生たちに恐れられていた。近所の子供たちを100人抜きしたとかいう阿呆らしい噂があったからかもしれない。
兄貴にいじめがばれてしまったのは、俺がもうすぐ小学校を卒業する時だった。
俺は校庭の花壇で花に水をあげていた。
「……っ!」
突然頭上から大量の水が降ってきた。俺は冷静に上を見上げると、教室の窓から同級生がバケツを持って嘲笑っている。俺の視線に気づいても笑うことをやめない。
「………」
俺は濡れたままの姿で立ち上がり、歩き出した。周りの奴らは俺を見てクスクス笑っているが、そんなことは気にせず、無心で昇降口にたどり着く。角を曲がったとき担任の先生にぶつかりそうになったが、無視してそのまま歩き続けた。背後で先生の心配する声が聞こえたが、そんなのは無視。俺がいじめられていることなんてとっくに知っているくせに、大人たちはそんなの知らなかったことにする。先生たちでさえ俺の存在なんて気づいていないかのように振舞う。大人なんて頼っても何の解決にもなりはしない。
教室に入るとまたクスクスという笑い声が聞こえる。窓際にいる児童を睨めつけて、ランドセルをロッカーから出して背負う。同級生たちの嘲笑う声を背中に受けながら教室を後にする。
濡れたまま家に着いた。ポケットから家の鍵を取り出して、鍵穴に差し込もうとしたとき異変に気づいた。鍵が開いている。可能性は二つ。朝、兄貴が鍵を締めるのを忘れたか、もう家の中に誰か居るかだ。後者は当たって欲しくない。そーっとドアを開け、中に入る。玄関には見慣れたスニーカーが、礼儀正しく並べて置いてある。
「…ただいま…」
消え入りそうな声で呟き、リビングに向かう。多分奴はそこに居るんだろう。
「あ、おかえり春人」
「…なんでもう居るの…兄貴」
ソファに座って昼食を食べていたのは兄貴だった。
「あれ、今日テストあるから帰り早いって言わなかったっけ」
「…言ってない」
「…!?春人、どうしたんだその格好!」
ようやく俺がずぶ濡れだということに気づいた兄貴は慌てて立ち上がる。
「…傘忘れた」
「え、傘?でも今日雨降ってな…」
兄貴の言葉を最後まで聞かずに身を翻した。階段を上がり、自分の部屋に閉じこもる。
「おーい春人!早く着替えないと風邪引くぞ!」
ドアの向こうからくぐもった声が聞こえたが、返事もせずにそのままベッドに寝転がる。濡れたままの服が気持ち悪かったが我慢した。
「春人!出てこいよ、何があったんだ?」
「うるさい!」
俺は普段大声を上げて怒ったりしない。その俺が大声を張り上げて怒ったのだから嘸かし兄貴は驚いただろう。しばらくドアの向こうが静かになった。
「…もし俺に言える時が来たら構わず相談してくれな。…服、ここに置いてくから。着替えとけよ」
返事はしなかった。声が震えているのがばれそうで返事が出来なかった。それからしばらく俺は泣いた。布団に潜って泣き声を押し殺しながら泣いた。隠していたつもりだったけど、兄貴には多分わかっていたと思う。
泣き疲れてそのまま寝てしまったのだろう。目が覚めたときはもう夕方だった。窓から差し込む夕日が眩しかった。
「春人、入るぞ?」
控えめなノックの後、兄貴の声が聞こえた。
「…ああ」
「…春人、腹減ってないか。昼飯食ってないだろ?」
「…」
「春人、服脱ぎな。濡れてて気持ち悪いだろう」
俺は素直に兄貴の言葉に従った。濡れていた衣服を脱ぎ、乾いた服に腕を通す。
「じゃあ、これ洗っておくな。…飯は机に置いてあるから食べに来な」
「…わかった…」
「もう泣くなよ?」
兄貴は柔らかく微笑むと俺の額に軽く口付けた。そのまま微笑みながら部屋を後にした。兄貴の優しい微笑みに胸が痛くなる。瞳に涙が滲んできたが、俺は慌ててそれを拭い、部屋を出た。
兄貴はそれ以上なにも聞いてこなかった。ずぶ濡れの俺の姿を見てすぐに悟ったんだと思う。
兄貴はああ見えてとても頭が良い。学校の定期テストだっていつもトップだったと聞いている。勉強面だけでなく、ほかのこともすぐに頭が回る。俺と違ってとても出来がいい。幼い頃から兄貴と俺はすぐに比べられ、頭のいい兄貴は誰からも褒められ、叔母の愛情も兄貴だけに向けられた。兄貴と違って出来の悪い俺は、誰からも認められず、とても疎まれた。その頃から俺にある感情が芽生えた。
俺は要らない存在。誰からも必要とされてない存在。生きているだけ無駄。
自殺を考えたことだって一度や二度じゃない。でも、その度に兄貴に励まされ、慰められ、未遂に終わった。自殺をしても後の処理に困るのは兄貴なのだ。迷惑はかけたくない。
俺を必要としてるのは兄貴だけ。兄貴だけは俺を認めてくれる。
兄貴を追うように同じ高校へ進学したが、兄貴が卒業した今は学校に行ってもまたいじめられるだけなのだ。だから俺はずっと家にいる。俺を必要としている兄貴の傍にずっといる。兄貴がいない昼間はずっと寝ている。要らない人間の俺が何をしたって無駄なのだ。兄貴がもし死んだら俺は生きている意味を失う。俺は兄貴を追って死ぬだろう。兄貴以外の人間に絶望した俺は、兄貴の傍にいることだけが生きる希望なのだ。
「…なんでお前泣いてんの」
一通り語り終わった俺は隣で泣きじゃくっているキリに目を向けた。キリは俺を見上げながら大粒の涙をぼろぼろと溢れさせている。
「ハル…ご、ごめんねぇ…、変なこと…聞いてごめんねぇ…」
キリはひたすら俺に向かって謝っている。
「いや、別にそんなこと気にしてないから…おい、泣くなよ…」
「ハルは…生きることが…ツライの…?」
「はぁ?なにその質問」
「答えてよ…」
「…まーな。俺は要らない人間だからな。兄貴が死んだら俺も死ぬな…」
「ハルは…要らなく…なんか、ない」
「は?」
「ハルは要らない存在じゃない!」
「な、なに怒ってんの…」
「ハルは要らなくない!…少なくても今は、僕がハルをヒツヨウとしてる!」
「…」
「だ、から…死ぬなんて言わないで…。ハルをヒツヨウとしてるひとは世界中にいっぱいいるんだよ…」
その根拠はどこから来るんだと思いながら俺は答える。
「…わーったよ…死なないよ、俺は。兄貴がいなくなっても死なないよ」
「それで、いいんだよ…。これからは僕がハルをヒツヨウとする。ずーっとだよ」
「なんで…お前が俺を…」
気付くとキリはスヤスヤと寝息を立てている。さっきまでの勢いはどうしたんだと呆れつつも、キリの頭にそっと手を載せ、そーっと撫でる。サラサラとしたキリの髪の毛はとても心地よかった。
「俺は…これから、どうしたら…」
電車に揺られながら独りごちた。涙が頬を伝ったような気がした。