65羽 始まり
話は少し戻って城の前庭…
「…あなた、またも熟女に目がくらみましたね!」
ラインヴァルトの妹マリーを踏みつけ、不敵に笑うギルバートに、エマは指を突き付けて叫ぶ。
ログはぽかんと口を開けた。
(熟女に目がくらんだって…)
ギルバートはほんのわずかにその頬に朱を乗せて、エマから目を逸らした。
どうやらここにきて熟女に堕ちるという悪い癖が出たらしい。
「よりにもよって蛇女に魅かれるなんて…この、アホギルバート! 馬鹿ギルバート!」
エマは熟女好きギルバートをこれでもかと罵り、シリアスなはずの場の空気がぐだぐだにしている。
ユリウスはギルバートがエマに気をとられている間に足元の小石を蹴り上げ、それを手にする。
「! 動くな!」
ギルバートがユリウスの動きに気が付いて叫んだ時にはすでに小石は投げられ、条件反射でギルバートはそれを避けた。
だが、そのせいで崩れたバランスは次の攻撃に耐えられず、ユリウスに鳩尾を蹴られ、そのまま後ろへと吹っ飛んだのだった。
「新入りが隊長格に勝つのは無理だと思うんだがな…ギルバート」
ログはげほげほと咳き込むギルバートの背後に回り、その首筋に手刀を打つ。ラインヴァルトもログもギルドで多くの経験をこなしている。それこそ報酬の高い依頼ではごくまれに仲間が寝返ることもあるので、これくらいでは慌てないようだ。
気を失ったギルバートを見下ろし、ログが顔を上げた。
「ユリウス隊長、ギルはどうしますか」
「転がしておけ。牢は今役に立たん。実力はあるが隊長やそれに近いものに比べたらなんということはない」
「わかりまし…」
その場に寝かせて返事をしつつ手を離した瞬間、数本のナイフが飛んできてギルバートの服と地面を縫い止める。
「うおぉっ」
ログは驚いて敵かと身構えたが、ナイフの飛んできた方向を見れば、やけに恐ろしい形相のエマが立っていた。
「弱いクセに…。チキ様が来たら二人でそのタマとってやる」
(こ、こえぇ!!)
ログが言われたわけでもないのにログは縮み上がり、だらだらと汗を流した。
さすがはあの主にしてこの侍女というべきだろうか。エマもチキに付き合ううちに怒ると恐ろしいことを口走るようである。
男性陣がわずかに引く中、エマはマリーに駆け寄った。
「マリー!、大丈夫ですか!?」
マリーの傍らに膝をつくエマに、男性陣は先程の言い様のないショックから我に返って二人に近づく。
ケガをしているのならば治療をせねばならない。
「…えぇ、大丈夫よエマ。これで一人目ね」
マリーはパチリと目を開け、エマにしがみ付くと、その首筋に牙を立てた。
エマの首筋に激痛が走り、エマの体がぐらりと傾ぐ。
「エマ!」
ログ、ユリウス、ラインヴァルトが大きく目を見開き、走ってくる。
マリーに見えた女は、エマの首筋を噛んだ後、その牙から血を滴らせながら立ち上がり、口元の血をグイッと袖で拭った。
ユリウスは剣を構えて女とエマの間に入る。
マリーはにやりと笑うと、ぐにゃりと溶けるように、テレジアによく似たギルバート好みの胸の大きな、それでいて堅物そうな美女に姿を変えた。
「何者だ?」
女は首を傾げて「さぁ?」と答える。
「何者であっても関係ないのじゃないかしら。あぁ、あえて言うなら7番よ」
「7番?」
何の数字かとユリウスは首を傾げるが、どうせ碌な数字ではない。首を横に振って悩むのをやめると、後ろでログが取り乱す声を耳にしながら尋ねた。
「毒か?」
「神経毒よ。ただ、私の毒はあの人と違って弱いから、殺すのに時間がかかっちゃうの。その分生きたまま死に向かう恐怖を味わうことになるのだけどね」
くすくす笑う女は「頑張ってね」と付け足すと、踵を返して走り去る。
ユリウスは懐から小さな笛を出すと、思い切りそれを吹いた。
ピィィィィ~!
甲高い笛の音が響き、それに応えるように城のあちこちから同じ音が返る。
騎士団の緊急用の笛だ。
長い笛の音は第一級戦闘配備を促すものだ。これで侵入者と敵が動き出したことが騎士団長ライルにも伝わるだろう。
ピッピッピィィィィ~!
別の笛の音が響き、ユリウスは跳ねるように顔を上げた。
(戦闘が始まっている!?)
「ログ! エマは?」
振り返らず耳を澄ましながらユリウスが問えば、ログは必死にその魔力を操って解毒と回復を施しながら答えた。
「わ、わかりませんっ。かなり強力な毒だと思います。俺の魔法は戦闘に特化しているので…」
「ラインヴァルト! お前は魅了されていない治療部隊を引っ張ってこい。解毒薬を大量に持たせるのを忘れるな!」
「はい!」
ユリウスはその場をログに任ると、踵を返して城内に戻った。
チキを助けに行きたいが、騎士が国を放っていくわけにいかない。
(チキ、無事でいてくれ!)
ユリウスは唇を噛み締めながら走った。
騎士達が呻きながら倒れる廊下を進んでいけば、そこはパーティーなどが開ける大ホールに繋がる。
ユリウスは大ホールに飛び込み、その光景に目を剥いた。
「まさか…これがテレジア?」
ぬらりと動く大ホールを埋め尽くしそうなほど巨大な白と黒の縞のある体、縦長の瞳孔を持つ爬虫類の瞳、威嚇して開いた口からは毒液を滴らす牙が見える。
そこでは、一か所に追い詰められたと見える騎士と王を、一匹の巨大な蛇が頭上から睥睨していた。




