File38 出生前診断の是非
またまた難しい問題である。最近は医療技術の進歩によって、出生前の胎児の病気まで調べることができるようになった。そこで重篤な先天性疾患や遺伝病などがあることがわかると、親は産むべきか産まざるべきかという悩ましい問題に直面する。
生命倫理にたずさわる人の多くは、当たり前のように出生前診断は命の選別につながると反対する。たとえ胎児といえども、受精して成長を始めたらそれはもう一個の命だというわけだ。それを親の身勝手によって胎児に断りもなく抹殺してしまっていいのか、これは殺人ではないのかということである。
ただ、生まれてくる側にしてみると、生まれると同時に重い障害を背負って生きてゆかなければならないし、何より親の負担も計り知れないものがある。赤の他人が安易に「生命倫理」という言葉を振りかざして、困っている人を追いつめていいものだろうか。
さて、前置きが長くなったが筆者は出生前診断には基本的には賛成である。生命倫理を振りかざす人に欠けている視点が一つある。それは、ミクロでみた場合とマクロでみた場合では、判断の結果がまったく違ってくる可能性があるということである。
現在、重篤な遺伝的疾患を持って生まれる子供の確率は千人、万人に1人ぐらいである。数が少ないがゆえに、1人くらい重度の障害者がいても、皆で頑張れば何とか支えてゆけるという前提がその背景にある。しかし、仮にそのような子供が10人に1人、いや3人に1人といった極端な確率で生まれるとしたら、それでもやはり産むべきだと自信を持って言い切れるかということである。恐らく、重度障害者がそのような確率で生まれたら、日本国は破綻してしまう。やはり出生前診断は必要だという判断に変わるであろう。ミクロとマクロで答えが違うと言ったのは、そういうことである。
そんな極端なありえない仮定を持ち出すのはおかしいと言われるかもしれないが、現実世界には既に似たような事例が存在している。アフリカ難民の子供たちの救済である。ユニセフがよくやせ衰えた子供の映像を流して義捐金を募っているが、あの1人を救うことで将来10人の子供が新たに死ぬとしたら、それは正しい判断をしたと言えるのだろうか。世界の人口はすでに70億を超え、近い将来100億に達すると言われている。われわれがどう頑張っても全てを支えきれるものではない。本当にやるべきことは産児制限である。これは過去何度となく言われながら、未だ確実に実行がなされていない。われわれは、涙して切り捨てるという過酷な選択も時としてしなければならないのである。
ましてや遺伝病の場合は、欠陥のある遺伝子が子孫に受け継がれてゆくというリスクも考慮しておかなくてはならない。現在わが国では毎年約2千人が緑内障という目の病気で失明している。緑内障の原因はまだはっきりとはしていないが、近親者に緑内障患者がいると高い確率で緑内障に罹患するというから、遺伝病である可能性が高い。今はまだごく一部の高齢者が失明に至っているに過ぎないためそれほど深刻には考えられていないが、将来進行の速い病気に突然変異しないとも限らない。そうなると何十万単位の人が毎年失明することになる。この場合、出生前診断で遺伝性緑内障の因子を持つ胎児を排除することを考えなくてはならなくなる。
もちろん、男の子が欲しいから女の子は中絶するなんていう使い方は論外のことであるが。
(このテーマをもっと詳しく知りたい方は、拙著「退化」を参照してください)
(追記1)
このテーマにつき多くの読者からご関心が寄せられていますので、筆者の考えを改めて明確にしたいと思います。ミクロとマクロで判断の結果が違ってくるという考え方の根拠は、経済学の専門用語で「合成の誤びゅう」と言われる現象です。つまりミクロ(個別事例)で見て正しいと思われる判断でも、それがマクロ(社会全体)で見ると好ましくない結果をもたらすという現象です。例えば、ミクロ経済学では消費者の行動として、全く同じ品質なら必ず価格の安い方を買うということになります。ところが、その結果社会全体では経済が委縮して景気が悪くなるという好ましくない結果をもたらします。こうした矛盾を合成の誤びゅうと言います。
人道、生命倫理という言葉には「正論」の響きがあるため人々から受け入れられやすい面があります。一個人からはミクロの局面しか見えないので、どうしてもこうした正論を述べる意見に同調しやすくなります。
本文では、アフリカ難民救済の話を書きましたが、日本国内においてすらすでに似たような話が存在しています。生活保護です。生活に困っている人を目の前にすれば、それを助けてあげるというのは人の道として正しいことと思われます。ところがその数が200万人にもなり、その予算が毎年3兆円ということになってくると社会全体の負担という観点から大きな問題となります。だからと言って、生活保護を打ち切れとは言いませんが、マクロの視点からどうするのか(例えば少ない予算を皆でどう分け合うのか等)を考えずに闇雲に援助、援助と騒ぐのはよくないということです。
出生前診断も、端から生命倫理を振りかざして一切認めないと主張する議論は、ミクロでは正しいように聞こえても、日本全体あるいはもっと大きく全人類のことを考えると、必ずしも正しいとは言えないかもしれないのです。
(追記2)
本件につき、批判的ご意見も頂戴しておりますので、筆者の思うところをさらに明確にしておきたいと思います。
筆者は男性不妊症患者です。いわゆる乏精子症というやつで、何年間か不妊治療も続けましたが、結局、子供はできませんでした。あの時、自分になぜ子供ができないのかをいろいろ考えました。神の思し召しとか、そういう宗教的・倫理的な理由ではなく、もっと科学的な納得のゆく理由です。いろいろ調べて得た自分なりの結論は、弱い遺伝子は子孫を残してはならないというものでした。
「File25 増える草食系男子の憂い」でも書いたとおり、動物界には「自然淘汰」という摂理が厳然として存在し、弱者は子孫を残すことができないようになっています。これは、別に差別でも何でもなく、弱い遺伝子が種の中に蔓延すると、種の絶滅という最悪の結果を生じる恐れがあるからです。
ところが、人間界では、博愛主義や人道主義のおかげで、弱い遺伝子の持ち主でも子孫を残すことができるようになりました。でも、これは神の摂理への挑戦でもあり、非常に大きなリスクを内包しています。不妊症の原因が何であるかをハッキリとさせないまま、安易に生殖医療を進めることは、遠い、遠い未来において人類滅亡へのリスクを高める可能性があります。
同様に、生命倫理を理由に出生前診断を否定する考えも、欠陥のある遺伝子を人間界に蔓延させることになり、人類全体をリスクにさらすことになります。個人個人の身勝手が積み重なり、やがて人類全体の運命を大きく左右しかねないということです。ミクロとマクロで答えが違うというのはそういうことなのです。
仮に、神が存在したとしたら(筆者は無神論者ですが)、恐らく神は欠陥のある遺伝子の持ち主が生まれてきたら、排除し淘汰しようとなされるでしょう。それが自然の摂理に適うからです。でも、生まれてしまったものを殺すわけにはゆきませんから、そうした欠陥遺伝子の持ち主を出生前に調べ出して排除することは、むしろ神の思し召しに適った行為であり、何ら恥ずべき行為ではないのです。
むしろ、生命倫理を盾に取り出生前診断を否定することの方が神の意向に逆らう行為になりえます。生命倫理派の人々の大きな誤解は、何事も自然に任せることがよくて、人の手が加わることは全てよくないと思い込んでいるところです。そんなことを言い出すと、不妊治療や病気治療も倫理違反になってしまいます
出生前診断は、別に命を選別するものではなく、弱い遺伝子の持ち主が生まれてしまうことによって起きる悲劇を回避しようとするためのものです。
酷なようですが、人間は一個人である前に、全人類の一員として未来の子孫(それは自身とは血のつながらない赤の他人かもしれません)に対する責任も背負っています。ゆえに、筆者は不妊治療をあきらめ、弱い遺伝子は自分限りとすることに決めました。
出生前診断により中絶を決意されたあなた、それはとても立派で勇気ある行為です。何ら恥ずべきものでありません。自信を持って立ち向かってください。




