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File100 仏教と物理学の奇妙な関係(その2)

般若心経のもう一つの重要な思想の一つが「無眼耳鼻舌身意」という部分である。これは人間の五感と意識のすべてが無だという考え方である。「色即是空」から導かれる定理のようなものである。

その意味するところは、人間の五感と意識のすべてが物理現象の結果であり、実際に人がモノを見たり聞いたりしているわけではないということである。

これは、具体的に人がモノを「見る」という動作がどういう過程を経て行なわれるかを考えるとすぐにわかる。まず、見る対象物に当たった光が散乱されて、人の目の奥にある網膜に到達する。網膜で電気信号に変えられた映像は視神経を通って脳の視覚野に送られ、脳ではその電気信号を再現して脳内に像を結ぶ。この一連の過程を経て人はモノを見ているのである。

般若心経では、この一連の過程を「色受想行識」という「五蘊ごうん」で説明している。すなわち…

①「色」…物質あるいは物理的刺激

②「受」…外部からの物理的刺激を受けること。

③「想」…感覚野においてその刺激を想い描くこと。

④「行」…その刺激か何であるかを突き止めようと行動すること。

⑤「識」…刺激が何であるか認識すること。

ところが、人はこの一連の物理現象を客観的に観察できるわけではない。だから、自らの意思で自らがモノを見ていると錯覚してしまっている。実際には、脳内で起こっている物理現象を体感しているだけに過ぎない、別の言い方をすれば、バーチャルリアリティーなのである。よって、般若心経では「五蘊」は「皆空」だと説明する。

同じように、聞く、嗅ぐ、触る…等々、すべてが同じように脳内で起きる物理現象を体感しているに過ぎないことになる。大げさな言い方をすれば、五感のすべては人の身体という壮大なスクリーンの上に投影された幻影を実感しているだけだということになる。

では、意識はどうか。喜怒哀楽といった感情は、五感とは異なり物理現象では説明できないような気もする。しかし、人の感情はすべて脳内で分泌される化学物質に対する反応ということで説明できる。人の脳内では、ドーパミンやセロトニンといった脳内物質が数多く分泌されており、その組み合わせにより人は微妙な感情を抱くことができる。人は、やはりこうした化学物質を客観的に観察できるわけではないので、怒りや悲しみといった煩悩が自らの心より生じているように錯覚してしまうことになる。

お釈迦様は、こうした五感や意識が、人の身体というバーチャルスクリーンの上に投影された物理現象や化学現象の結果であると見抜いておられた。だから、身体を捨てて魂になれば、すべての煩悩は消え去ると教えられた。

物理学では、この魂のことをエネルギーと称している。アインシュタインはかの有名な方程式E=MC^2で、物質がエネルギーに変換しうることを証明して見せた。人が死んで魂になれば、当然のことながら眼耳鼻舌身意のすべてが「つまりエネルギー」になる。そして、物理学によると、エネルギーは永遠不滅であり輪廻転生することになる(エネルギー保存の法則)。

科学が進んだ今だからこそ、筆者のような凡人でもこのようなことが言えるのだが、物理学や化学、生物学が発達していなかった大昔に、お釈迦様はどうやってこんなことを悟られたのか不思議である。やはりお釈迦様は宇宙人だったのであろうか。

ただ、残念なのは、人間が魂になってしまうと、肉体も意識も何もかもが文字通り「無」になる。よって、極楽浄土とか死後の世界なんていうものは存在しない。こういう世俗的な考えは、恐らくお釈迦様の死後、後世の凡弟子たちが付け足したものなのであろう。

だから、皆さん命は大切にしましょう。物理学に合掌…。


(関連するFile)

File6 心頭滅却もすれば火も涼しいか

File21 なぜ生き物を殺してはいけないか

File29 臨死体験と死後の世界



(追記)

読者の方より、仏教が最先端の素粒子物理学である「超ひも理論」に密接に関係している証拠があるという興味深いご指摘がありましたので、紹介したいと思います。

それが密教の総本山である高野山に伝わる「両界曼荼羅」(その中でも特に金剛界曼荼羅)です。この曼荼羅は、この世界を「九会」で表現していますが、超ひも理論ではこれを9次元空間として説明します(我々の住む3次元空間に加えて後6つの余剰次元があり、それに時間軸を加えて10次元とする考え方)。もう少し詳しく知りたい方は、「File88 この世界は何次元か」を参照してください。

我々は、この現実世界においては、前後・左右・上下の3方向にしか進めません。そのことを我々は3次元空間に住んでいると表現します。ところが、「超ひも理論」では重力エネルギーだけは、次元の壁を超えて余剰次元の方向にも伝わるとされており、実際、そうした余剰次元からの重力の漏れ出しを検出しようとする実験も行われています。

本文でも書きましたが、我々が肉体を捨てエネルギーになれば、余剰次元へ旅することも可能になることになります。おそらく仏教で言うところの「極楽浄土」というのは、この「余剰次元(異世界)」のことを言っているのかもしれません。

ただ、エネルギーに感覚や意識があるわけではありませんから、仮にそれが可能としても、我々が極楽浄土を体感することはあり得ないでしょう。「両界曼荼羅」は、その体感できない世界をこの世に表したいとして描かれたものと言えます。


(追記2)

いまテレビでは真田幸村を題材にした「真田丸」が人気ですが、真田の家紋である「六文銭」のいわれは、死人が三途の川を渡る際の渡し賃だと言われています。

これを宇宙物理学的に説明すると、六文銭は死人の魂つまりエネルギーがワームホールという時空の穴(これを世俗的に「三途の川」と呼んでいると思われます)を通過する際に必要となる「エキゾチック物質」ではないかと推測する物理学者もいます。

ワームホールは、時空に開いた穴のことでで、この穴を通ればはるか何億光年先の極楽浄土あるいは異次元への旅も可能になると言われています。ただし、このワームホールの存在は極めて不安定で「対生成・対消滅」と同じく現れ出てはすぐに消えてしまいます。これを消えないように補強するのがエキゾチック物質と言われる未知の物質です。さらに詳しく知りたい方は「エキゾチック物質」で検索してみてください。

さて、では仮にエキゾチック物質(六文銭)なるものが実在するとして、それがどうして6枚も必要なのでしょうか。この点については「File88 この世界は何次元か」でも書いた通り、現代素粒子物理学の再先端の理論である「超ひも理論」で言われているとおり、余剰次元が6次元あるからです。超ひも理論によれば、我々の住む3次元空間と時間を除いて、あと6つの次元があるとされています。もちろんそうした余剰次元はわれわれの目には見えませんし、どのような観測機械を使っても観測することさえできません。

ただ、物理学者によれば重力だけは次元の壁を越えて異次元に伝わるとされており、仮にワームホールを通過中にホールが余剰次元の方向に開いてしまうと、魂は我々の世界とは異なる異次元に堕ちてしまいます。これを世俗的に地獄に堕ちると言っているのでしょう。そこで「エキゾチック物質(六文銭)」を使ってこれらの穴をふさいで、無事にワームホールを通過しようというわけです。

あまりに話が都合よく出来すぎていて、すべてこじつけの作り話ではないかと思われる読者もおられるかもしれません。そういう方は、一度「ワームホール」「余剰次元」「エキゾチック物質」などの宇宙物理学用語をご自身で調べてみてください。

信じるか信じないかはあなた次第です。


このお話につき、さらに詳しく知りたい方は、拙著「エクストラ・ディメンション(余剰次元)」の最終章をご参照ください。


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