第九話 四月二十八日 続
四月二十二日。火曜日。
私はほうけるようにずっと鴇織姫の写真を眺めた。鴇織姫の姿を見るだけで、私はこの醜い世界から抜け出すことができる。
そして、私と鴇織姫しかいない世界――つまり、二人だけの楽園の感傷に浸ることができる。
この世界の嫌なこと。
この世界の辛いこと。
その全てを忘れることができた。
いつも君のこと見てます。
私は――見る。観察する。
鴇織姫。今日は私に何を見せてくれるのかな?
四月二十三日。水曜日。
「……財布がない」
と。
変わらない事実を口にしたところで、なにも変わるわけもなく、ただの現状確認になってしまう。
財布内にある金やカード類の紛失はさほど問題ではない。
が。
私お気に入りの鴇織姫の写真が、第三者の手に渡る。
ということが許せない。
そして、鴇織姫は異性の間でかなり人気がある。財布を拾った人間は、ここぞとばかりに鴇織姫との接触を図るだろう。劣情や思慕で鴇織姫に近付くのはやめてほしい。
――せめて、鴇織姫本人の手に渡ってほしい。
そうすれば、少なくとも鴇織姫の節操は守ることができる。
そう願うしか、ない。
四月二十四日。木曜日。
物事に必ずしも意味が付随するという考えは、極めて愚鈍だと思うが、それでも私はこの真実に運命じみたものを感じられずにはいられなかった。
――まさか私の落とした財布を、鴇織姫が拾っていたとは。
祈りは届く。
間違いなく私の思いは、鴇織姫に届いている。
唯一の気がかりは、鴇織姫の写真があらかじめ抜き取られていたことだ。
少し気になるが、私の指紋や体液やらが付着したものが、鴇織姫の手にあると考えると。
ものすごく。
その。
興奮する。
四月二十五日。金曜日。
肝臓一個売ってでもいい。
鴇織姫と言葉を交わし合いたい。
電話や携帯電話という媒体はもう必要ない。私はじかに鴇織姫と逢いたい。
今日決行しよう。
私は自らに課せた業を解き放つ。
私は。
鴇織姫と逢う。
克明に綴られた日記。これから先はバラバラに破り捨ててあった。ちょうど鴇織姫が俺と接触した日を境にしてだ。
金曜日の狂ったような電話。あれも日記同様、ストーカーの愛の形なのだろうか? ストーカーにしてみれば堪ったもんじゃないだろう。歪んだ妄想とはいえ、自分の恋人が違う男に言いよっていたのだから。日記に《これから》がないのは、激しい憤りと、裏切られたという悲愴がないまぜになった結果なのだ。
鴇織姫のストーカーのことだ。鴇織姫が俺をストーキングしていることを知らないわけがない。俺に関する詳しい供述は日記にはない。つまり、このストーカーは真実を見て見ぬふりをして、自分を騙し続けていたということだ。こいつもまた、自分の世界に陶酔していた。自分の世界に《鴇織姫》というパーツを組み込み、自分好みのパズルを完成させていたのだ。
ストーカーの無意識な悪意。
否。
好意になり替わった悪意だ。
俺は人間の根幹をなす感情の奈落を垣間見た気がした。
「……四の五の言ってる場合じゃねーよな。ヤバイ。こいつは圧倒的にヤバイ。これじゃあ、鴇だけでなく周りの人間まで巻き添えを食らっちまうぜ。……そんなこと俺がさせるかよ。みんなを傷付けさせる真似はこの俺がさせねーぞ!」
俺はポケットから黒いゴミ袋を取り出し、猛然と作業に打ちこんだ。
俺は鴇織姫に関する全てのデータを回収しにかかったのだ。
○○○
夜の帳が鬱々と落ちる夜であった。今様色の堅香子が木下闇に消え、街路灯が不気味に光るだけである。
鴇織姫邸。
俺は鴇織姫に事の顛末を話した。
すると鴇織姫は無言で俺の手を握り、小刻みに体を震わせた。
そして言う。
怖いと。
俺の脳裏に血で書かれた一文がかすめるが、封殺することにする。
男の俺だって怖い。
愛は形骸を留め、ただの執着に変わり、恐るべき恐怖へと変貌する。
鴇織姫の時だって似たようなことを体験したが、鴇織姫だってやはり女の子だ。俺以上に怖いに決まってる。
「大丈夫だから、大丈夫だから、大丈夫だから……」
俺は鴇織姫の手を握り返して、そう繰り返すしかなかった。
これほど自分の非力さを呪ったことはない。
何が大丈夫だ。俺は女の子一人助けることの出来やしない、ただの道化だ。
鴇織姫の策には、一抹の不安がある。それが不安材料になって、どうしても落ち着かない。実は一番冷静でないのは俺なのかもしれない。
ただこれだけは言える。
俺はこのストーカーのことが一発で嫌いになった。こんな奴を野放しにしてはいけない。
なんとかしたい。
「もうそろそろ時間だ。行くぞ」
「……うん。私から絶対に離れないでね」
「ああ」俺は自らを鼓舞して言った。「安心しろ。俺がどうにかしてやるさ」
時刻は九時。
鴇織姫は自宅の庭で携帯電話をプッシュした。
そいつはワンコールで食い付いてきた。よほど鴇織姫のことが恋しかったのだろう。なんせ必死に集めた《鴇織姫コレクション》が全部なくなっているのだから。そいつは今頃、山のどこかに埋まっているだろう。あれだけの量を誰にも怪しまれずに山に持ち込むのは骨が折れたが、名伽との稽古に比べればなんてことない。ただの単純労働だ。
切ろうにも切らせてくれないストーカーに業を煮やしたのか、鴇織姫は強引にガチャ切りした。ストーカーの聞くに堪えない悲鳴が電話口から聞こえた。
「……話はつけたよ。午後十時。私のストーカーに日和見神社に来ることを約束させた」
「そっか。よくやった。怖かっただろ? もう大丈夫だ。後始末は俺がつける。心配なんて杞憂に終わるぜ」
「……クーちゃんは優しいね。惚れ直した。好きぃー」
「はいはい」
俺は抱きつこうとする鴇織姫の頭を押さえて、溜息をついた。「隙がないったらありゃしない」
「やんやんッ、私はクーちゃんの温もりが欲しいのっ! 寒いよう、クーちゃん。冷え切った私を温めてよぉ!」
「ああもう、ひっつくな! 何枚も着こんでるだろうが!」
「そういう問題じゃないの。うわぁ、クーちゃんの体、めちゃくちゃ温かいね」
「服の隙間から手を入れるな! ひゃぁ、手を這わすなぁ!」
「私の体も温かくて――甘いよ? 試してみる?」
「……ってバカか! こんな路上でするわけねーだろ!」
「じゃあ、ストーカーの件が片付いたら、私の家で温め合いっこしよう? 勿論お蒲団の中で」
「すっ、するかぁー!」
と。
村を漆黒に染め上げる月は、煌々と光を発していた。
○○○
春日造の本殿の後ろで、俺は息を潜めていた。ポケットには念のためナイフが二本ほど仕込んである。不本意だが止むを得ない。刃傷沙汰はできる限り回避したいが、それは相手の出方次第だ。なるべく平和的にいきたいところである。
鴇織姫は長い階段へと続く鳥井の真下にいた。砂利の敷かれた賽銭箱の前で、所在なさげに佇立している。時折俺の方を不安げに一瞥するが、俺は黙って頷くことくらいしかできない。それでも若干不安は和らぐのか、にっこりと莞爾を浮かべ虚空を睨む。
携帯を確認すると、午後九時五十五分。あと少しで約束の時間だ。
息苦しい沈黙。俺は静寂に押し潰されそうになる。けれどそれは鴇織姫も同じで、俺よりはるかに心細いはずだ。
俺は気合を入れて、雌伏する狼のように辺りを窺う。
月光が風雅に闇夜を照らす。屋根から続く庇が設けられた本殿は、暗黒に溶け込んでいるようだった。
奴は定刻通りに姿を現した。
不気味に伸びた影を引き連れ、ゆっくりと階段を上がる。
「織姫。やっぱり君は私のことを愛してくれてるのだね」
閑寂を切り裂いたのは低い声。普段とは明らかに違う粘着質な声色である。
「よく来てくれましたね。右梨先生」
右梨祐介は何かが壊れたような笑みをこぼした。
「よく私の素性が分かったね。これも愛の力かな?」
「戯言はいい加減にしてください。私は先生のなくした赤い財布を拾っただけです」
根本的な話だが、なぜ俺と鴇織姫が右梨祐介を突きとめることができたのか。その種は極めて単純で、五日前にまでさかのぼる。
水曜日の学園集会のことを覚えているだろうか? その時俺は、俺の写真が入った鴇織姫の財布を拾い、高松先生に渡した。そして先生はその財布を集会に持ち上げた。鴇織姫の写真が入っていた右梨祐介の財布と共に。
財布の忘れものは二つあって、一つは鴇織姫のもの。もうひとつが右梨祐介のものだったというわけだ。
次いで、今日鴇織姫が俺に連絡してきたのも、高松先生から赤い財布の持ち主を聞き出すためだった。
それが――右梨祐介。
「私迷惑してるんです。ストーカー行為をやめてください」
「……迷惑? そんなわけがない。織姫は私を困らせるような悪い子じゃなかったよね?」
「先生は勘違いしています。私は先生を愛してなどいません。私が愛しているのはクーちゃんだけです」
「クーちゃん? ああ、あの気狂い下種野郎か。私の織姫にあろうことか手を出した、救いようのないクズ。考えただけで虫唾が走る」右梨祐介は唇を不快げに曲げ、吐き捨てるように言った。「私だけの織姫を穢した愚か者が……。純粋無垢の織姫をたぶらかしたとみえる。後で破壊してやる。こっぱみじんに炭塵も灰塵も残さず、徹底的に人体を解剖してやる。私の織姫に手を出したことを悔悛させて、悔悟させて、理不尽に不条理に殺してやる」
右梨祐介は狂ったように呪詛の言葉を吐き始めた。ぶつぶつと、「殺してやる殺してやる殺してやる」と陰鬱に漏らすだけである。
俺は右梨祐介から耐えようもない狂気性と偏執性を感じた。
鴇織姫の方を見てみると、感情が欠落したような表情で右梨祐介を見ていた。それが逆に嵐の前の静けさといった風で、喜怒哀楽を浮かべぬまま人を殺せそうな雰囲気である。
「先生。前言を撤回してください。これ以上の侮辱は私が許しません。私の恋人に汚らわしい言葉を吐かないでください。愛しい彼の心が穢れます」
「穢れる? そうだ、織姫は奴に穢されたんだ! 下種の分際で天真爛漫な織姫を姦淫して、姦通して、織姫はかわいそうにも奴に精神を崩壊されてしまったんだ! くそがっ! 許すまじあのクズ男がっ!」
「いくつか訂正します。まず、クーちゃんはクズでも何でもありません。クズは先生の方です。次いで、クーちゃんは私を強姦してはいませんし、別にクーちゃんになら何をされてもかまいません。そして最後。私の精神はすこぶる正常です。異常なのは先生の方です」
淡々と右梨祐介を翻弄する鴇織姫。だが、言外に爆発しそうな憤怒を蓄えているのが分かる。
「そっ、そんな……。ねえ、嘘だろ? わわ、私だけの織姫が、そそ、そんなこと言うはずが……ない。――ないに決まってる!」
「それは幻想です。もう一度言います。私は先生を愛していません。クズは先生の方です」
俺は鴇織姫の冷淡な態度に恐怖を通り越して、ある種の畏怖すら感じた。
右梨祐介と俺に対する態度の相違。
あのアンバランスさが危うい。
「やや、や……やめろ。それ以上、わ、私を壊すな。私の世界を……壊すなぁ! 織姫が私を愛していないだと? そんなのありえない! 私の世界では絶対にありえないぃ! 私はクズなんかじゃない。断じてクズではない。――これはすれ違いに過ぎない。そうだただのすれ違いだ! 私と織姫は互いを愛するあまり、相手との距離が測れなくなり、その結果自分を見失っただけなのだぁ! 私はクズではない。クズはその程度で恋人を見捨てたりはしない。私はクズではない。クズではないから、例え世界が壊れようとも――私は織姫を愛するぞぉ!」
「そうですか」
と。
不意に鴇織姫は。
慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
そして。
言う。
「じゃあ、私のために死んでください」
「しっ、死ぬ?」
「はい、私を愛しているんでしょう? なら、私の言うことは何でもききますよね?」
「もっ、勿論だ! 私はクズではないのだから、恋人のためなら何だってする!」
「それは良かった」鴇織姫はポケットからビニール袋に包まれた紙とペンを取り出し、砂利の上に転がした。「では、これに遺書を書いて階段から飛び降りてください。内容はそうですね……仕事に疲れた、対人関係に悩みがあった、くらいのありふれたものでいいですから、とりあえず書いてください」
俺は自分の耳を疑った。
遺書を書いて死ね?
そんなのバカげてる。いくらなんでも、そんな無茶苦茶な命令を甘んじるはずがない。
それにそれは鴇織姫の計画とは違う。《鴇織姫コレクション》を回収し、ストーカーを心理的に追い詰め、本人の説諭で警察に自首させるというシナリオだったはずだ。ストーカーの罪状を立証するのは大変難儀だと聞くが、なんだかんだでやはり国家権力に頼るしか手段はない。またその方法も危険だが、苦肉の策として俺は渋々同意した。
その場所として日和見神社を選んだのも、一種のセーフティネットだった。右梨祐介は今年来たばかりの新人教師だから、複雑に入り組んだ神社の内部構造を知らないし、近くには交番もある。
万が一説得に失敗してストーカーが逆上した場合、俺が介入してストーカーを止め、その隙に鴇織姫が交番に駆け込むという算段だった。
なのになぜ?
なぜ自殺させる?
警察に任せても意味がないと達観して、こんな飛躍した論理を突き付けているだけじゃないのか?
ひょっとして俺に《鴇織姫コレクション》を回収させたのも、このためか? ストーカーと自分との関係性を寸断するために、《鴇織姫コレクション》を抹消させたのか?
「先生は私達の世界に必要ない人間なんです。私とクーちゃんだけの世界を邪魔しないでください。先生も本望でしょう? こんな綺麗な月の下で、好きな人の顔を冥土の土産に持って行けるなんて。先生ついてますね」
常識ではまかり通らないような言動。普通ならば無条件で断る提案だ。
しかし。
事態は俺の予想をはるかに超えていたのだ。
「……分かった。君がそう望むのなら、私は君のために死のう」
右梨祐介は砂利の上に転がっている紙とペンを取り、すらすらと遺書を書き上げた。
「後、携帯電話は前もって遺書の横に置いておいてください。履歴を消さないといけませんからね」
「そうか。それもそうだな。出ないと君が冷徹な殺人鬼になってしまうからね。それでは織姫が困るはめになってしまう。それは私の望むところではない」
右梨祐介は愉快そうに笑った。
「――できたぞ。我ながらなかなかの出来だ。できることなら、自宅の書斎で推敲に推敲を重ねておきたいものだ。――携帯電話はここに置いておく。自由に履歴でも何でも消してくれ。これで気兼ねなくあの世に逝ける」
「思い残すことはありませんか?」
「そうだな……君に言いたい言葉は山ほどあるが――やはりこれだけは言っておきたい」右梨祐介は暗夜に映えるような微笑を浮かべた。
「私は君を愛している」
その笑みは右梨祐介のデスマスクとなった。
後々思い浮かべると、その笑みは歪んでいなかったと思う。
むしろ。
恋人に最後までつくした満足感で一杯。
そんな。
穏やかな笑みだった。
そして。
右梨先生は。
逝った。