第八話 四月二十八日
麗らかな朝は小鳥の囀りから始まる。
月曜日。
起床した俺を迎えたのは、何も雲雀や雉の詩吟だけではなかった。障子から透ける朝日がまぶしくて、思わず手をかざす。
時刻を確認するに、八時。あと三十分で学校が始まる時間である。
仰臥したままの体勢から転寝をかます。そのまま時間は緩慢に過ぎていく。
そうなると人とはおかしな生き物で、布団に包まったままぼんやりと思索を張り巡らせるのが定石である。
紀一郎おじさんはいない。何でも村の定例議会に出席するのだとか。そして夜になるまで帰ってこない。
つまり一人。
そういうことである。
馬酔木の咲く庭を目だけで一瞥し、再び天井の木目を数え上げる。春日遅々な朝は人の心を穏やかにする。俺自身が波のたたない湖にでもなった気分だ。
「……もうひと眠りするか?」
誰となく問いかけ、自然と瞑目する。春眠暁を覚えずとは、まさにこのことである。
玄関のチャイムが鳴ったのは、覚醒未満で惰眠を満喫していたその時だった。
「凍鶴」
と。
怜悧に響く声。
それが襖越しに臥床を震わせ、俺の鼓膜に届く。
「何だ、返事がないな」靴を脱ぐ音がする。「それにおじさんはいないのか?」
異変を感じ取ったらしい名伽意味奈は、当惑気味に尋ねる。「凍鶴。いるなら返事をしろ」
同時に寝室へと襖が開かれる。檜垣を模した襖からは、名伽の全身が見える。
「もうすぐ学校が始まるぞ」
そう言って名伽は俺の枕元で端座をついた。「寝ている場合ではなかろう」
「ああ」俺は蒲団から起き上がった。「学校だな」
「きっ、君……」名伽は赤面して、顔を背ける。「まっ、まだ襦袢姿ではないか! ささ、寒くないのか?」
「……ああ、そうだった」
俺は頭を掻いた。毎日下着に一枚着る姿で寝るのがいつもの癖で、その事実をすっかり忘れていた。
名伽は金時の火事見舞いであるかのように耳の端まで真っ赤にして、俺に蒲団を押し付ける。
「いっ、今すぐ服を着るんだ!」
叱咤交じりに言明されるが、そんなむやみやたらに押し付けられたら、息ができないだろ。
そう釈明したのは山々だが、口が開かない。ものすごい怪力で押し潰されているからだ。
「……しっ、死ぬ。なな、名伽ー!」
俺が解放されたのはその五分後だった。
「あんたは俺を殺すつもりか?」
襦袢姿から直垂に着替えた俺は、開口一番そう言った。蒲団の羽毛を吸ったのか、さっきからしきりに咳が出る。
「す、すまない……」
しゅんと頭を垂れる名伽。「いらぬ狼籍だった。無礼をお詫びする」
書院造の家屋を照らすのは、東の空に昇りつつある日輪の光だけであった。
蒲団は俺が着衣する間に、名伽の手によって片付けられていた。
「それにしても」名伽は眉をひそめ、訝しげに口を開いた。「何で私服なのだ? 今日は学校だろうに」
そう来ると思ったので、俺は「いや、俺な。昨日から熱があるんだ」と言った。嘘だ。
名伽は一転、居た堪れない表情を作る。
「だから、今日は休むことにする」
「そ、そうか……。なら、なおさら悪いことをした。それでは病状が悪化しただろうに。名伽意味奈一生の不覚といわざるを得ない」
名伽は切腹ですらも甘んじるといった態度で、俺に謝罪する。「本当に申し訳ないことをした」
「低血圧がきっかけで微熱が出ただけだ。名伽は全然関係ない」
「けれど、私は君を苦しめるようなことをしてしまった。これは私の死を持って償うしか……」
「あのなあ……」俺は諫言する。「名伽はどうも極端だよな。俺は別にあんたのせいで発熱したわけじゃないんだぜ? もとはといえば俺の体調管理が杜撰だったってだけの話さ」
「だが、私がそれを助長させたかもしれないのだ。これを不覚と言わずしてなんと呼ぶ?」
俺はかたくなに自分の罪を悔いる名伽に向かって、たしなめるように言う。「だから、あんたのせいじゃないって言ってるだろ?」
それに。
と続けて、「学校が始まるんじゃないのか?」と言った。
名伽は曖昧に首肯し、躊躇うような素振りを見せながらも端座を崩す。そして、明朗と表情を綻ばせた。
「ははは、相変わらず君は飄々としているな」中腰になった名伽は快活そうに言った。「しかしせめての罪滅ぼしと、蒲団を片付けたのはまずかったようだな。押し入りから敷いておくことにする」
名伽は剪定された木々を顧みて、ふっと頬を緩める。「学校が終わり次第、すぐさま見舞いに来る。大輪の薔薇を抱えて推参しよう」
「冗談が過ぎるぜ」
「冗談などではないさ。私はいつだって真剣だ」
「そっか」今度は俺が頬を緩める番だった。「そうだよな。あんたはいまだかつて冗談を言ったことのない人格者だもんな」
「君も梅雨利空子と同じことを言うのだな。……しかし、得てして妙だな。その通りかもしれぬ」艶やかな白髪を煌々と日に輝かせ、「もっとも、私は人格者などという高貴な人間ではない。ただの未熟者さ」
俺は間髪いれずに明言する。「未熟者なんかじゃない。あんたはものすごく、その……クールな人間だと思うぜ。そうクールさ。あんたは《水》みたいな人間なんだ。コップに注げばコップの形に、ケルトに注げばケルトの形に、状況に合わせていかなる姿にも変わる《水》。《水》はあらゆるものを映し、あらゆるものを飲み込む。されど常にその本質が変わることはない。まさにあんただ。どんな状況に置かれようとも自分を見失わず、冷静な判断を下せる。けどそれが逆に、あんたを苦しめているのかもしれない。その性格が原因で、自分が嫌になった頃があったんじゃないのか? 自己嫌悪に陥った時があったんじゃないのか? けど、俺はそういう名伽が好きだよ。あんたは周りに感化されず、本当の自由を手にすることのできる人間だと俺は思っている。……って、くさかったか? 悪いな、俺の与太話だ。気に留める必要なんてないぜ」
「いや、礼を言う。なるほど、《水》とは。それこそ得てして妙だな。また君に教わったよ」少し寂しそうな声色で言う。「やはり、本当の私を見てくれるのは君だけなのかもしれない」
そう言った名伽の双眸は、おぼろげに虚空を見つめていた。
名伽意味奈。
不殺生戒。
不偸盗戒。
不邪淫戒。
不妄話戒。
不飲酒戒。
在家信者が遵奉すべき戒めの権化たる淑女。気真面目を体現したような間人間である。
かといって融通が利かぬわけでもなく、洒落も解すし冗談も通じる。
ただ、本人は冗談を冗談と認めない節があるが。
「別に見舞いなんていらないさ。熱って言っても所詮低血圧からくる反動みたいなもんだ。寝てれば治る」
「寝てれば治る……か。君らしい見解だ。全く、君は会うには退屈しない人間だよ」
体がくすぐったくなって、「……俺は寝るぞ。蒲団を敷いてくれ」
「しょうがないなあ。今すぐ敷く」
渋々といった様子で押し入りの襖を開ける。しかし、その表情はしきりに緩んでいた。
かくなる俺も、おかしくて笑いを噛み殺していたが。
「では凍鶴。体には気をつけるのだぞ」
名伽の整った口唇は丸い弧を描いていた。襖に手を掛け、いつでも退室できる風である。
「しかし、変だな」
と。
名伽は何でもないように問いかける。
それが俺の心を揺さぶる。
「風邪を引いているのになぜ下着姿なのだ? 普通風邪を引いたら何枚も着こむものだろう?」
○○○
午前十時。
動きやすい私服に着替えた俺は、自宅で待機していた。名伽が敷いてくれた蒲団で横になるか、小説を読むかしていた。
時折外を覗いてみたが人影はない。学生は学校に登校しているし、社会人は会社に通勤している時間帯だからだ。
本来なら学生である俺がこんな所にいること自体がイレギュラーなのだが、止むを得ない。事態は急をようする。そして、事態究明はこの時間帯でしかなし得ないのだから。
蒲団の横に置いておいた携帯が振動する。俺はそれを取り出し、ボタンをプッシュする。
「もしもし。鴇か?」
『鴇じゃなくて織姫って呼んでよ。昨日約束したばっかりだよ?』
「そうだっけか?」
『そうだよ。昨日の夜に約束したじゃん。散々私を弄んだ後に』
「弄んでねーよ。あんたが帰ろうとする俺を強引に襲ったんだろ?」
『あれは不可抗力だよ。私はクーちゃんとのあっまーい生活が欲しくてやっただけなのに』
「いい加減に一人にしてくれよ。あんたに束縛されるのはもうこりごりだって言ってるだろ?」
『独占欲も愛の証だよ。私の場合、他の人より少しだけ大きいだけだもん。そもそも何でクーちゃんは私の愛を拒むの? もしかして私のこと嫌い? やだやだやだぁ! そんなの嫌だよぉ! 折角手に入れたと思ったのにもう私から離れないで!』
「……わ、分かった。とりあえず落ち着け。なっ!」
俺は早くも感情を爆発させる鴇織姫を諫める。しかしそれでも、鴇織姫は止まりそうもない。鴇織姫という人間は俺のこととなると、とたんに感情的で感傷的になる。
所詮俺とて俗物だ。嬉しいことは嬉しい。しかし、俺の中の何かが歯止めをかける。近付いてはいけないような気がする。
これも愛のなせる業? ふざけるのも大概にしてほしいぜ。
『落ち着けるわけないじゃん! ふざけるのも大概にしてよ。さっきからクーちゃんの声聞いて心臓バクバクだよ。もうなに話していいのか分かんないよ。頭が真っ白になって、どうしていいのか分からなくて、クーちゃんの声が聞きたくて、クーちゃんと会話したくて、けどクーちゃんは遠回しに私を避けて、すごく嫌な気分になって、クーちゃんが私のこと嫌いになったって思って、ものすごく落ち込んで、けどやっぱりクーちゃんが欲しくて! 名前くらいちゃんと呼んでよぉ! 何度訂正したと思ってるの? 私もう限界。今すぐ学校抜けてクーちゃんの家に行くからね! もう二度と私のこと名字で呼ばせないから。《織姫》ってクーちゃんの口から言わせてやるもん。そして、また愛し合おうよ。私決めた。学校サボるから。声聞いちゃったら直接逢いたくなるもん。電話越しにクーちゃんがどんな表情してるか気になるもん。笑ってるのかな? 楽しいって思ってるのかな? クーちゃんのことなら何でも知りたいもん。私って病気なのかな? クーちゃんのことになると理性が飛んで、どうしようもなくなっちゃうよぉ! だってクーちゃんが好きな人だから恋人だから私を受け止めてくれる人だから私を拒絶しない人だから私の全てだから!』
絶叫に近い声。こうなってしまっては、誰も鴇織姫を止めることはできない。禁断症状の出た鴇織姫は、完全に麻薬常用者と遜色ない。
だが俺は、鴇織姫を一瞬にして鎮める魔法の言葉を知っている。
その効果は絶大で、たった一言で全てを終わらせることができる。
しかし。
それにはでかい副作用がある。
「織姫。俺が織姫を嫌いになるわけないだろ?」
『くっ、クーちゃん……? そそ、それ――本当?』
「俺が織姫に嘘を言うと思うか?」
『そっ、そうだよね……。クーちゃんが私のこと嫌いになるわけないよね。ふふふふふふ、やっぱりクーちゃんは私のもの私のもの私のもの』
鴇織姫が俺にどっぷり嵌まるという。
恐ろしくマズイ副作用が。
一時的な危険を回避するにはおそらく最善の手だが、長い目で見れば最悪の一手。
諸刃の剣であることは分かってる。
しかし。
こうすることでしか鴇織姫を止められそうもない。
『聞いちゃった聞いちゃった聞いちゃった! クーちゃんは私を嫌いじゃない。――嫌いじゃない! 嬉しい嬉しい嬉しい! 私ものすごく嬉しい。それに《織姫》って呼んでくれた! もう逃げない。私のクーちゃんはどこにも行かない!』
「……どこにも行かないから、冷静になれよ」
『私もとから冷静だよ? 心臓バクバクだけど』
「さいですか。――それで、あの写真の持ち主。誰だった?」
『ああ、そうだった。そういう用件で電話したんだっけ。作戦通り、高松先生から訊いたんだけどね、あの写真の持ち主は――』
鴇織姫は言った。
「ありがとう。よくやった」俺は労をねぎらった。少し予想外の人間だったが、なるほど確かにそういえばそうである。思い当たる節はいくらかあった。
「もうそろそろ休み時間が終わる頃だな。後は俺に任せろ」
『でっ、電話切っちゃうの?』
「ああ。そうだけど」
『だっ、ダメぇー! もうちょっとだけ。もうちょっとだけお話ししようよ。もっとクーちゃんの声が聞きたいよぉ!』
「……そういわれてもなあ」
『そこを何とかお願い』
「お、お願いって……そんな大仰な」
『なっ、何でもいいから言って! 私がうまく合わせるから!』
「そんなむちゃくちゃだろ」
『やっ、やだ。こうしてる間にチャイム鳴っちゃった……もう、クーちゃんのバカぁ! バカバカバカぁ――』
やかましいので電話を切ることにした。
○○○
俺は畦道の泥土を踏んでいた。
手にはおじさんの書斎からかすめ取った住民基本台帳から転写したメモ。そこにはある人物の住所が記載されてある。
紀一郎おじさんに少なからずの罪悪感を覚えながらも、その思いを黙殺することにする。
目の前にはベージュの漆喰。こじんまりした一軒家である。
俺は辺りの様子を窺いながら、前もって用意していた手袋をはめる。そして、一気に塀を乗り越える。音が立たぬように着地。
とりあえず庭に侵入することに成功した。
「問題は施錠されているかどうかだな」
俺は玄関口に出向き、ドアノブをガチャガチャと捻る。しかし開かない。
仕方なく俺はポケットから針金を取り出す。
ピッキングというやつだ。
まさか梅雨利から冗談半分に伝授された特技が、ここにきて生きてくるとは。
本当世の中は分からない。
ピッキングを得意とする女子高生がいることも。
ストーカーが社会に紛れて平然と暮らしていることも。
曲げた針金を錠前に突っ込み、数分をようして錠を破壊。足音を立てずに家の中に。
同じく前もって用意しておいたビニール袋で足を覆う。足にも指同様、指紋のようなものがあると聞く。滑稽な絵だが、用心に越したことはない。
「とりあえず二階から行くか。バカと煙は高い所に上るって言うしな」
微妙にずれていることを口にしながら、階段を上った。
そして後悔する。
二階に足を踏み入れたことに。
○○○
「なっ……!」
絶句。
俺は目を見張った。
二階の一番奥にあった部屋。「試しにその部屋から行くか」と意気込んでドアを開けてみたまではいい。
が。
蓋を開けてみれば、そこは恐るべき深淵だった。そこは覗いてはいけない《何か》が跋扈する狂った空間だったのだ。
なぜなら。
部屋中に鴇織姫の写真が貼られていたのだから。
制服姿で怒る鴇織姫。
私服姿で憂う鴇織姫。
水着姿で笑う鴇織姫。
下着姿で悩む鴇織姫。
どれもこれもが鴇織姫で、何もかもが鴇織姫で、全部が鴇織姫で、あらゆるものが鴇織姫で満たされていた。
机も壁も天井も、余すところなく鴇織姫の色彩豊かな表情で埋め尽くされていたのである。
そして机の上には、引き千切れた俺や見知らぬ女子の写真。後者は鴇織姫の友人だろう。無残にもカッターナイフで切り裂かれた痕跡がある。目玉は抉りだされ、服はズタボロ。俺に限っては、首は掻っ切られ胴体は真っ二つだ。解体ショーのつもりなのだろうか? だとしたらこれほど憎悪に満ちた冗談はない。
確信する。
「間違いない。こいつがストーカーだ」
予想は確証へと変わり、仮説は真実となる。
すさまじい悪寒。いつの間にか背中は汗で濡れていて、それが恐怖からくる冷汗だと気づくのは随分と後だった。
劣情と呼ばれるもの。
色情と呼ばれるもの。
慕情と呼ばれるもの。
恋情と呼ばれるもの。
その全てがおかしい。人間の心を構成する《何か》が根本的に間違っている。
これは行き過ぎた愛情だ。思いのベクトルがまじ曲がって、致命的に破綻してしまった愛の残骸なのだ。
俺は机の横にあった日記を手に取る。
ページを開くことを躊躇ったが、どうしようもなかった。
それがパンドラの箱とは知らずに。