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神隠しが起こる村  作者: 密室天使
第一章 【ブッキング】
6/42

第六話 四月二十五日 続

 気が付いたら俺は見知らぬ家の前に立っていた。

 隣にはなぜか鴇織姫(ときおりひめ)がいた。

 白を基調とした一軒家である。新築らしい漆喰。手入れのされた庭。

「行こう」

 鴇織姫は嬉々とした表情で俺の手を引いた。確かな喜びを噛みしめている風である。

「ちょ、ちょっと待て。いつの間に? なんで俺がこんなところにいるんだ?」 

 無意味と分かっている質問を今更ながらに問う。

 最後の記憶は屋上の夕焼けだった。

 それがなぜ。

 なぜ舞台が変わる?

 どう考えてもこの家。

 鴇織姫邸だよな?

 空を仰いだところ、さほど時間は経過していないようである。見積もって六時半。あれから三十分しか経っていない。

 鴇織姫はなんてことないように言う「どうかした? 顔色が悪いよ?」

「いつも通りだ」

「本当? クーちゃんなんか変だよ?」

 変なのはあんたの方だ。

 胸中でそう思った。しかしそれを表情に出すことはせず、鴇織姫から目を逸らした。窮地に追いやられた俺にしてみれば、武陵桃源のような自然。華美にそよぐ濃紫(こきむらさき)の菫。郷愁を誘う斜陽は純然と田舎風景を茜に染め上げていた。その奥では萌黄色の峻嶺が高々と連らなっていた。

 春ながら憂戚を画す緑である。 

 薬でも嗅がされたのか?

 まさかとは思う。

 しかし。

 ありえないことではない。ありえないということがありえない。

 何が正常で何が異常なのか?

 何が異常で何が正常なのか?

 分からない。

 ただ、確然たる事実として。

 この女は。

「外じゃ寒いでしょう? 早く中に入ろうよ」

 異常だ。

 俺はくるりと後ろを向いて。

 逃げ――れない。

「どこに行くの? クーちゃん?」

 鴇織姫は綺麗過ぎる笑みを浮かべながら、俺の手を掴む。

 当然だ。この思考回路がぶっ飛んでるこの女から逃げられるはずがない。いくら健脚な走者でも絶対無理だと断言できる。

 諦めるしかないのか。

 全てを終わらせるために。

 過去を清算させるために。

 俺は動いた。

 だが俺は傍観者。流転する全てを俯瞰するだけの存在。

 分析も解析もしないし、介入も介在もしないただの傍観者。

 梅雨利(つゆり)曰く、「流れるままの人生ってのもありかもよ? むしろ君に合ってる生き方かも分からないね」

 だとか。

 おいおい、冗談だろ?




          ○○○




 鴇織姫の自宅は割と普通だった。こぎれいに掃除されたフローリング。意匠を凝らしたマット。下駄箱の上には古びた黒電話。気になる点があるとすれば、靴が俺と鴇織姫の二人分しかないことだ。

 それはつまり。

「私のお母さんは東京に転勤してるし、お父さんは何年か前に他界してる」

 それはお気の毒に。

 俺は弔意を表した。

 と。

 多角的に考察してみると、この状況が非常に危ういことに気づく。いまさらながら、靴を脱いだことを後悔した。

「……って、それはマズイだろ。致命的にマズイ」俺は絶叫を上げた。靴をそろえる手が震えている。生存本能からくる恐怖だ。

 しかし、当の本人は快活に微笑んで、「大丈夫。むしろ好都合だよ」訳の分からないことを口走る。話の眼目が違うだろ。何より聞き捨てならないのが、《好都合》という言葉。

 何が好都合なんだ?

 ガチャリと間の抜けた音。見ると鴇織姫が満遍の笑みで鍵を施錠しているところだった。「えへへ」と抜け切った笑みを浮かべている。

「なんで鍵を閉める?」俺は詰問した。

「だってクーちゃん逃げるんだもん」口を尖らせて不満そうに言った「逃げようとしても時間稼ぎくらいにはなるよね」

「お、俺が逃げるわけないだろ?」

「嘘だ」

「本当だって」

「…………」

「本当本当。神に誓う。なっ?」

「…………」

 咎めるような鋭い視線。鴇織姫の気に呑まれて、俺は肩をすくめた。鴇織姫には何でもお見通しらしい。

 古色蒼然な黒電話が音を鳴らしたのは、そんな空気が流れた折だった。

 願ってもない機運。俺は嫌な風向きを切り返すつもりで問う。「出ないのか?」それでも鴇織姫は一向に電話機を取ろうとしない。表情を曇らせている風である。「出ないなら俺が出るぞ?」

 何も言わない鴇織姫を不審に思ったが、とりあえず出てみる。少なくともこの時だけは身の保全が図れる。そう画策した故だった。「もしもし」

 答えはない。息苦しい静寂が流れるだけである。 

 もしかして悪戯電話か?

 その線が濃厚となるが、返答らしきものが帰って来たのはその一分後だった。『()()()()()()()()()

 当惑気味に、「はあ?」ひょっとして鴇織姫の知り合いか? 鴇織姫の方に視線を向けるが、後ろめたそうに晦渋するだけである。「どちら様ですか?」

『私が誰であろうと、お前に関係のないことだ。早く織姫を出せ』

 酷い謂れようである。そもそもこの人は、電話に出た人間が鴇織姫でないのがどうして分かるのだろう? 鴇織姫の両親のうち一人は東京に転勤し、もう一人は死去していて、家には鴇織姫一人しかいないのになぜ? 

 何も言わずにそのままでいると、耳元で低い地鳴りがした。

『そもそもお前は何様だ? 他人の恋人になに手出しをしている? 織姫をたぶらかしたお前は万死に値する』

 甲高い声。頭のネジが吹っ飛んだような狂いようだった。

『織姫は私のものだ。私だけのもの私だけのもの私だけのもの』

 念仏のようにも聞こえるし、呪詛のようにも聞こえる。

『死ぬ。お前のようなクズは死ねばいい。鈍いバットで撲殺され、鋭利なナイフで刺殺され、強靭なロープで絞殺され、即効性の猛毒で毒殺され、大振りの刀で斬殺され、でかいライフルで射殺され、重いプレスで圧殺され、チェーンソーで虐殺され、家畜のように屠殺され、むごたらしく惨殺され、自分の罪を懺悔しながら天に召されるがいい』電話の主は何か含んだような口調で言った。『もっとも、お前のいく先は間違いなく地獄だろうがな』

 壊れてる。意味が分からない。この男は何を言っている?

『他人の妻を寝取るとは、唾棄すべき悪行だ。ただちに私が血の鉄槌を下してやる。下してやる下してやる下してやる』一転して猫なで声。『そして織姫。心配しなくていいよ。今すぐ自分の身の上すらわきまえないクズ男から救い出してあげるから。君は私の傍に要ればいい。大丈夫。大丈夫だよ――』

 電話を切った。

 俺は頭を抱え壁にもたれかかった。どうしようもなく気分が悪い。

 慌てて鴇織姫が俺に駆け寄る。しきりに「ごめんねごめんねごめんね」と謝ってくる。目には滂沱(ぼうだ)の涙を浮かべ、俺に縋りついてくる。

 俺は何となく事態が飲み込めた。


 これはストーカーだ。




          ○○○




 俺のストーカーをやっているかたわら自らもストーカー被害に遭っているという摩訶不思議な人間は、後にも先にも鴇織姫ただ一人であった。

 リビング。俺と鴇織姫はソファーに向かい合って座っていた。

「つまり、あんたもストーカーに悩まされている被害者の一人なんだな?」

 鴇織姫は沈んだ風に言う。「……うん。毎日変な電話は来るし、得体の知れないものが家に届くし、いつの間にか私物がなくなってる、なんてこともあったかな」

 それは。

 俺じゃないのか?

 とは思ったが、口を噤む。「それで?」話を促す。

「初めは無視してたんだけど、だんだん行為がエスカレートしてきて……最近は酷いよ。猫の死体が送られてきたもん。死骸だよ死骸? 狂ってるよ」

「……っていうあんたも、結構やばいことをしてきたような……」

「何?」

「いや」苦笑を浮かべる。「何でもない」

「クーちゃん。私怖いよ。ものすごく怖い」鴇織姫は身を震わせ、体を小さくした。「私おかしくなっちゃうよ」

「確かにストーカーは怖い」

 鴇織姫は怯えるような目つきで俺を見るだけだった。

 若干の皮肉を込めたつもりだが、特に気にも留められていないようだった。

「けどもう大丈夫。だって、クーちゃんがいるから。クーちゃんが私を守ってくれるよね?」小動物じみた仕草。猫のように伸びをして顔だけ俺に近づける。

「あ、ああ」

 ダメだ。了解してはいけない。この女はストーカーなんだぞ? ストーカーを助ける義理がどこにある? ないに決まってるだろ――  

「どうにかしてみせるさ」

 NOなんて。

 言えるわけがない。

 困ってる奴を見捨てるなんて。

 出来るわけがない。

 それがたとえ、常軌を逸脱したストーカーであっても。

 窮鳥(きゅうちょう)懐にいれば猟師も殺さず。

 どうせ俺は救いようのないバカなのだろう。

「本当? 嬉しいなあ。私だけのナイトだね」

 彼女は綺麗な笑みを漏らした。この笑顔がストーカー撃退の報酬だとしたら――悪くないかもしれない。

「そうだ、ちょっと早いけどお風呂にする? クーちゃんも体が冷えたでしょ?」




          ○○○




 俺はリビングでテレビを見ていた。著名な有名人がトークに花を咲かせていた。

 なぜこうなってしまったのか。

 再度考える必要があるように思えた。

 どこで間違った?

 どこからが異常でどこからが正常なのか。

 どこからが正常でどこからが異常なのか。 

 自問はただの禅問答で。

 答えなんかなくて。

 ふはははと笑いが起こる。勿論ブラウン管の中だ。

「お待たせ。お湯湧かせてきたよ」ひょっこりと顔だけ覗かせた鴇織姫は、天真爛漫と言った。俺の座っているソファーのすぐ横に座り、体を寄せた。「折角だから一緒に入ろうよ」

 絶句。俺は餌を求める金魚のように口をパクパクさせた。

「私本気だよ。もうクーちゃんから離れたくない。一秒たりとも離れたくないもん」俺の手を握り、「一緒に入ろ?」

「だっ、ダメダメダメ! そそ、そんなことこの私が許しません! 社会通念上ダメです。公序良俗に反します。よって、ダメです。ぜーたいダメ!」

「……周りの眼なんて興味なし関係ない。私にはクーちゃんさえいればいい」

 彼女はすました顔で。

 正常を異常で塗り替える。

 正常を異常で摺り替える。

 正常を異常で取り替える。

 心底から自分の考えが正しいと思っている。その論理がまかり通ると思っている。

「それに」彼女は悪戯っぽく笑って、「私の体。顔や胸もぜーんぶクーちゃんのものだよ? 好きにしていいんだよ? (もてあそ)んでいいんだよ? 手篭めにしていいんだよ? だって、この体はクーちゃんのものだから。髪の毛一本ありとあらゆる私はクーちゃんの所有物だから。何でもしていいよ。気のすむまで壊していいよ。それがクーちゃんの愛なら余すところなく受け止めるから」

「…………」

 鴇織姫は俺の手を取って、自らの胸に導く。「ほら、私の心臓が高鳴ってるでしょ? クーちゃんといるからだよ。クーちゃん以外の男の人だったらこんな風にならないもん。クーちゃんだからこんなに興奮してるんだよ」

 鴇織姫は暫時瞑目した。服越しの柔らかい人肌。深く沈む右手。理性や知性を悩殺する甘美な香り。全てがどうでもよくなるような感触。俺は振りほどくことすらできなかった。 

 彼女は耳元で怪しく囁く。「少しは私のこと欲しくなった? 手前味噌だけど、容姿には自信があるんだから。クーちゃんは知らないと思うけど、私ミスコンで一位に選ばれたんだから。体つきだって悪くないし、髪形が嫌なら好みに合わせる。私の体の味。知りたいでしょう?」

 だから。

 鴇織姫はそう換言し、魔女のように淫靡に言った。「一緒にお風呂、入りたいなあ」

「鴇」

「織姫だよ」

 妥協する。「……織姫。あんたは俺の――所有物なんだよな?」

 彼女は首肯した。「そうだよ」

「ということは、あんたは俺の言うことなら何でもきくってことだよな?」

 再度首肯。

「なら、俺は鴇織姫に命令する。一人で風呂に入れ」

 え?

 鴇織姫は戸惑ったような表情を露わにする。「そ、そんな……ずるい。そういう言い方ってあり?」

「ありだ。ほら、早くしないと冷えるぞ」

「も、もう。クーちゃんのバカっ!」

 逆捩じを食らった鴇織姫は、あきれ返った態度でその場を後にした。

 ふはははと笑いが起こる。勿論ブラウン管の中だ。




          ○○○




「あーん」 

 無気力に口を開き、パクリと野菜を咀嚼する。鴇織姫はそれを胸底から楽しそうに眺める。

 鴇織姫が作った夕食は、絢爛豪華であった。正直、これほどの夕餉の膳はお目にかかったことがない。何よりどれも手作りだというのだから、感嘆の息が出るのも道理である。

「今度はクーちゃんがあーんして」

 彼女は催促するように口を開ける。雛が親鳥から餌を貰うのを待ち焦がれているようで。その姿があまりにも無邪気で無防備で。俺があーんをすることを確信し切っているようで。健気でいじらしくて。 

「あ、あーん」

 情けないことに。

 俺は。

「うん、おいしい。ねえ、もっかいして?」

 俺は――

 俺は完全に鴇織姫に飼いならされていた。


 

 あの後、バスタオル姿の彼女が誘惑してきたり、それを手練手管とかわして入浴したはいいものの、風呂を上がってみると、さっき着ていた制服はどこかに消えていて、脱衣所にはなぜか俺のサイズぴったりの衣類が置かれてあって、違和感を覚えながらも仕方なくその服を着て、ここまま遁走しようと策略を巡らせて、けど家の鍵がないことに気づいて、紀一郎(きいちろう)おじさんが仕事で不在なことを思い出して、どうしようかと思索して携帯電話で紀一郎おじさんに連絡しようもののどこにもなくて、それが鴇織姫の手中にあることを悟って、あえなく鴇織姫に見つかって、強引に食卓に連れ出され――

 今に至る。

 鴇家では、あーんの応酬が展開されている。

「あ、あーん」

 恥ずかしくて顔から火が出るようなフレーズ。

「はうぅ、おいしい。これにはクーちゃんの唾液が混じってるんだよね。箸だけど間接キスだよ。ひゃんっ、あん」

 端?

 確かに俺とあんたは端の人間だろうよ。

 しかし。

 まさかここまで精神を疲弊させる力を持っているとは。

 あーん。

 恐るべし。

「今度は私がしてあげる」

 俺はやけになって開口する。ここまで来てしまったら、もう後には引けないような気がした。

 腹を括るしかないのか。

 焼き魚の一欠片が口の中に入る。どこか鉄っぽい。気のせいだろうか?

 箸を掴む指を見てみれば、なぜか包帯が巻かれてあった。

「その指」俺は食事の手を止めて言った。「怪我でもしたのか?」

「う、うん。まあね」彼女は曖昧に茶を濁した。「包丁で切っちゃって」

「そっか」自然と注意を促してしまう。「次からは気をつけろよ」

「分かった。次は気をつけるね」

 傾城傾国と笑う。

「そういえばそうそう。クーちゃんの制服、洗濯機で洗っておいたから。明日には乾くと思うよ」

「どうりでないと思った。盗まれたかと思って冷や冷やしたぜ」

「ドアにカギが掛かってるから、誰もここには入れないよ」水を嚥下する。「だーれも邪魔なんて入らない。二人っきりだよ」

 風向きが怪しくなったと思い、話を転換する「……この服はどうしたんだ? やけにぴったりだったぞ」

「ああ」彼女は空になったコップをテーブルの上に置いた。「こう言う時のために買っておいたの。サイズは合ってる?」

 こういう時のため?

 けたたましい警報が鳴り響き、嫌な疑問が浮上する。

 風呂に入ったばかりなのに、下着は汗を吸っていた。

「鴇。あんた――」

「織姫だよ、クーちゃん」彼女はクスリと笑い、やんわりと訂正した。「恋人はお互いのことを名前で呼び合うんだよ」

「そ、そうなのか?」

「そう」相槌を打つ。照れた表情で俺を一瞥し、顔を俯けた。「()()()()()()()

 荒唐無稽。

 何かがちぐはぐで、何かが取り繕われている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 なら現在は?

 なら未来は?

 俺はこの女の空想の中で生き続けるのか?

 妄想に囚われているこの女と。

 幻想に捕われているこの女と。

 俺は人生を共にするのか?

 ()()()()()

「……く、クーちゃん。そんなに……見ないで。恥ずかしいよぉ」

 俺は鴇織姫を凝視していたらしい。はうぅ、と訳の分からない喘ぎ声を上げている。語尾にハートマークがつきそうな勢いだ。

 さすがに俺も恥ずかしくなって、言葉をたくし上げる。「わ、悪い。すまん」

「いいよ。別に」

「なるほど」

 何が《なるほど》なんだよ。どこで納得する箇所があった? 俺もなんだか鈍くなっている。この女に感化されていることを看過している。

 不意に見つめ合ってしまう。それでも無為自然と食事は繰り返される。

 ――って。待て待て待て。

 なんだこの雰囲気は。

 そう。

 まるで。

「新婚生活みたいだね」

 ポツリと。

 鴇織姫は。

 喜色満面に呟いた。

 事実、鴇織姫の言う通りだった。

 これでは新婚ほやほやのあまあま夫婦生活である。

 かあっと顔が熱くなって、どうしようもなくなる。箸を持つ手が動かなくなる。

「もしかして、クーちゃんもそう思ってるのかなあ? 私のこと意識してるんだ。嬉しいな」

「う、うるさい! そもそもまだ高校生だろうが。結婚は早すぎるだろ!」

「十六歳の私は結婚できるよ」

「俺もまだ十六だ! 法律違反だろうが!」

「だったらクーちゃんが十八になったら、すぐに籍入れようね。これなら法律的に見て何の問題もないし」 

「問題ありありだ!」

 俺はその拍子で椅子から立ち上がった。はあはあと肩で呼吸を整える。「そ、そんなの親が許すはずないだろ」

「その点は大丈夫。私のお母さん。割とその辺は寛容だから」

 俺は意地になって反駁する。「俺のおじさんは大反対するだろうな」

 彼女はご飯を口に運んで、平然と言い放つ「認めてくれないなら、二人で駆け落ちする。ちょっと経済的に厳しいかもしれないけど、頑張って二人だけで生活しようね。私はクーちゃんさえいればいいから」

「…………」

 こうなってしまえば何も言えない。黙りこくるしかすべはない。

「大学に行けなくてもいいから、十八でクーちゃんの子供産んで、クーちゃんはどっかの企業に就職して。妻として家計を切り盛りしていかなきゃだね」彼女は妖艶に笑った。「いっそのこと世俗なんか綺麗さっぱり忘れて、動物みたいに愛し合うってのもありかも。深い山の中で社会も周囲も気にせず、二人だけで生きていく。えへっ、だったらどうしよう? 私壊れちゃうまで愛されるのかなあ? ねえ、クーちゃんはどっちがいい?」

 それはあくまで。

 仮定の話であって、家庭の話ではない。

 俺はテーブルから離れた。

「どこに行くの?」

「トイレ」

「トイレなら脱衣所の横だよ」




          ○○○




「……逃げよう、この家から逃げよう」

 そう確信したのはもう随分前の話だった。だが決心したはいいものの、何もできない。行動が伴わない。

 俺はトイレの個室で溜息をついていた。

 清掃された小部屋。かわいらしいマットが下に敷かれていて、スリッパもデフォルメされたクマのキャラクターがプリントされている。  

「しかしどうする? 家の鍵も携帯電話も鴇の手に渡ってる。仮に家に帰れても、鍵がなければ家には入れない。かといっておじさんに連絡しようにも、携帯電話がなければ話にならない。鴇家の電話を使うか? 無理に決まってるだろ。八方塞(はっぽうふさがり)だ。詰将棋だったら即投了ものだぞ」

 そう言ったところで、現状は何も変化してくれない。ちゃんと風呂の際に警戒していればよかったのだが、後の祭りである。

 それに。

「この調子だと――ここに泊るしかないじゃんかよ」

 ということだった。

 家に帰れないのなら、ここに泊るしかない。ともくれば脱走くらいしか手立てはないわけだが、鴇織姫がそれを許すはずがない。

 結局鴇の家に泊ざるを得ない。

 純潔の危機?

「洒落になんねーよ。未成年で? 俺を笑い殺すつもりか?」

 乾いた笑い声。俺は祈るポーズをして神に助言を乞うた。「俺はどうすればいいんだ?」

 静寂。

「神なんていないか。いても相当な性悪野郎だぜ」

 聖職者が聞いたらそれこそ憤怒されそうな発言だ。

「……これ以上、トイレに籠ってたら怪しまれるな」 

 俺はやむなく便器から立ち上がった。排泄行為はしていないが、一応水を流す。渦を巻く水。俺もこのまま流されたい。




          ○○○




 リビングに戻ると、鴇織姫はすでに食器を片付けていた。あれだけあった食材がほとんど空になっている。

 俺の気配に気づいたのか、彼女は一旦手を止めて言った。「今片づけるから、クーちゃんはテレビでも見てくつろいでていいよ」

 甲斐甲斐しい笑み。包丁で切ったらしい右手は不自由そうに映った。

 と。

 俺は不可解な点を見つけた。

 右手?

 箸を持っていた手は間違いなく右手。つまり彼女は右利き。ならおかしいぞ。普通包丁で切るなら食材に手を添える左手のはずだ。

 ならなぜ、右手を切る?

 考えてみれば俺が彼女と科学室で会った時もそうだ。彼女は指に白い包帯を巻いていた。あのときはさほど気にも留めてなかったが。

 ある可能性が萌芽する。

 俺はそれを無理やり押し殺し、彼女に声を掛けた。「鴇。手伝おうか? その手じゃ何かと大変だろ」

「え? い、いいよ。その気遣いは嬉しいけど……これくらい私一人でできるよ」

 織姫だと訂正しない。結構テンパってる証拠だ。

「一飯の恩だ。あんたにばかり負担はかけられない」

 借りはきっちり返す。

 それが俺なりの流儀だ。

 相手が例えストーカーな上に人格破綻者であっても、この信念は変えたくないし、曲げたくない。

 俺は鴇織姫から強引に食器を奪った。「言っておくが俺の特技は林檎(リンゴ)の皮むきとピッキングと家事洗濯だぜ? ほら、さっさと終わらせよう」

「う、うん。ありがとう」彼女は俺の目を見て、「頼れる旦那さんを持てて私幸せです」と瞳を眼光烱々(がんこうけいけい)と光らせた。

 そういうつもりは全くない。「俺はあんたの旦那じゃない」

「亭主」

「亭主でもない!」

「逢瀬を交わした仲なのに?」

「交わしてない!」

「なら」満を持した風に彼女は言う。「これからする?」

「…………」

 本日二度目の絶句だった。




          ○○○




 上弦の月は雲居がかかる朧であった。

 開けられた窓から見える光景は清風明月で、心地よい微風が頬を撫でるだけである。

 半場強制的に連行された先は、鴇織姫の自室だった。

 整頓された勉強机に羽毛のベット。窓の横には本棚があって、そこには『習得! 格闘術!』や『殺人拳法の極意』などなど、女子の部屋には明らかに不釣り合いな代物がちらほらと。少なくとも、『漢和対照妙法蓮華経かんわたいしょうみょうほうれんげきょう』の横に置くのはどうかと思う。

 俺はベットに、鴇織姫は机の椅子に座っていた。

 月夜に照らされた顔。改めてみると、鴇織姫はものすごく綺麗だ。大きく青い瞳に色素の薄い茶髪。体つきはスマートで、座っているだけで様になる。

 確かに、ストーカーくらいついていてもおかしくはない。

「どうかした?」

 俺の視線に気づいたらしい。目の焦点が俺に合う。「眠くなった? もう九時半だもんね。良い子は寝る時間だよ」

 備え付きの時計を見てみると、確かに鴇織姫の言う通りだった。

 窓の景色に人影は見当たらない。

「正直な。今日は色々なことがあり過ぎた」

「うん」鴇織姫は感慨深そうに、「そうだね」と呟いた。

「本当に一人暮しなんだな」俺は紀一郎おじさんのことを思い出しながら言った。「怖くないのか? ストーカーだって今に見張っているかもしれないんだぜ」

「その点は心配無用です。今まで心細かったけど、今の私にはパートナーがいるもん」俺を意味深に見て、「朝も昼も夜もずぅーと一緒だよ」椅子から立ち上がった。「そして――夜。仕方ないよね」

 鴇織姫は俺の肩に手を置いて。

 唇を淫猥に歪めて。

「一つになろう」

 と。

 俺を押し倒した。

 ベットの上。鴇織姫は馬乗りになって、俺を押え込んだ。足を動かそうにも足でロックされている。上体を起こそうにも金縛りにあったように動かない。鴇織姫の手が巧みに俺を押さえつけているからだ。

 仰臥した状態。視線の端に見えるのは、『習得! 格闘術!』の題目。

 ああ、そういうことか。

 俺は体から力を抜いた。これでは名伽(なとぎ)との組手はなんだったんだ? 自分が情けなくなる。

「あれ? もっと抵抗すると思ったのに。けどまあ、聞きわけがいいのは良いことだよね」俺の薄い胸板に頬をつけて、至福の表情を浮かべる。「大丈夫、恐くない怖くない。クーちゃんには私がついてるから」

 二十センチくらいの距離。鴇織姫は全身を俺に絡ませて、隙間なく密着する。顔は上気していて、何かが欠けたような笑みを漏らす。

「クーちゃんが悪いんだよ? 散々私を待たせるだけ待たせて何もしないなんて。焦らしプレイ? なら限界。これ以上の《待った》は体に悪いもん。我慢はいけないよね。我慢は」

 頬を舌でぺロリと舐められる。総毛立つような感触。

「そんな表情しないでよ。いじめたくなる。壊したくなる。いいよね? もうクーちゃんの体、好きにしていいよね? 顔も声も仕草も水晶みたいな目も全部私がめちゃくちゃにしていいよね? クーちゃんが悪いんだよ? 私をその気にさせといて、私を(もてあそ)んで。そんなの欲しくなるに決まってんじゃん。もっと愛が欲しくなる決まってんじゃん。……その唇。欲しくなるに決まってんじゃん!」

 仄かな月光に照らされて。

 鴇織姫は。

 俺に。

「……あふぅ」

 キスした。

 いや、これはキスなんていう生易しいものじゃない。接吻? 口吸い? 違うね。

 これは強奪だ。

 貪欲なまでに唇を突き出して、俺を食らう。獲物を捕食する猛禽類と同じだ。

 それだけでは満足できなかったのか、鴇織姫は強引に俺の頭を抱えた。首に手が回り、キスの度合いがでかくなる。

 唾液を吸う。

 唾液を出す。

 俺の口蓋(こうがい)では唾液のトレードが何度も行われていた。

 口の中をかき乱される。 

 口の中をかき回される。

 何が何だか分からない。

「……はうぅ、やだ。ちょっとやり過ぎちゃったかなあ? けど仕方ないよね。クーちゃんが悪いんだもん。私をこんなにした責任とってもらうから。……あんっ、もう一回。もう一回だけ……」

 口の中に空気が入ってきたと思ったら、再び塞がれた。

 時が止まったような錯覚を覚えた。時間にしてみれば五分程度なのだろうけど、人生で一番長い五分だった。

「気持ちいいよ。なんでこんなに気持ちいいんだろう? 何もかもどうでもいい。これ毒林檎だよ。かじったら二度と目覚めない魔性の林檎。私もう……ダメだよ。ここまま永遠に唇を合わせたい。もっとクーちゃんを味わいたい。しゃぶりつきたい。どうしようもないよ。私壊れちゃったから」

 

 昏々と眠り続ける白雪姫は、王子様のキスで目覚める。

 なんていう寓話があるが。

 あれは。

 嘘だ。

 目覚めるなんて。

 とんでもない。

 むしろ。

 深い眠りに。

 落ちる。

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