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神隠しが起こる村  作者: 密室天使
第四章 【ラブソング】
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第四十一話 七月二十八日

 私、転校するの。

 目の前の少女はそう言った。

 川面がキラキラと映える河川敷でのこと。

 防波堤で向かい合う少女と少年。

 十歳にも満たない少年はきょとんとした瞳を向けた。

 少女は何も言わなかった。

 その表情は深い悲しみをたたえていた。


 ありがとうって伝えたくて。


 一滴の雫が落ちる。

 透明の液体は地面に吸い込まれていく。

 その様子を少年は見る。


 帰ってくるから。


 傾く夕陽。

 斜陽が射す。


 絶対に戻ってくるから。


 光る水面。

 川魚が跳ねる。


 その時まで待っててね。


 ぽろぽろと涙を溢す少女。それでもその表情は笑顔で。

 少年は戸惑いながらも笑い返した。

 杜若(かきつばた)が揺らぐ。

 どこかでぬえが鳴いた。

 少年はなぜ少女が泣くのか分からなかった。そしてなぜ感謝されるのかも。

 少年にとってみればそれは当たり前のことだった。信念と義憤。それに従っただけ。

 勿論少女の名前も知らない。少年の行いは突発的で衝撃的なものだった。

 気が付いたら言葉を紡いでいて、少女の前にいた。

 ただそれだけ。

 それだけなのに。


 ごめんね。痛かったよね。辛かったよね。


 少女は絆創膏の貼られた腕を見た。悲痛な面持ちで。

 全身傷だらけの少年は苦笑を浮かべた。それは尾を引く痛みのせいか、やや引き攣っていた。

 それでも少年はへらへらと笑って見せた。痛くないよって平気な振りをした。

 それを知っている少女はなおのこと目の前の少年を愛おしく思った。

 だから。


 また明日。


 なんて言って、少女は背を向けた。

 少年との明日なんてないのに。

 少年とは離れ離れになるのに。

 明日なんていう言葉を使う自分がいた。

 それは弱い自分への裏返しでもあり、敢然たる決意の表れだった。

 苦難から逃げないための誓い。

 再び少年と出逢うための誓い。

 少年と別れたくないと思う自分がいて、それを諦めきれない自分がいて、少年との再会を望む自分がいて。

 強くなりたいって思っていた。誰にも負けない強い女になりたい。何でもできるカッコイイ女になりたい。少年をメロメロにするほど美しい女になりたい。

 それは少女の人生の目標となって、生きるための指針になっていて、明日への希望となっていた。


 ああ、と嘆息する。

 こんなにも楽しい。

 世界はこんなにも楽しい。

 そんな当たり前のことを確認する自分は耐えてばっかりだった。ひたすらに耐えて、ひたむきに耐えて――

 結局のところ、何も出来なかった自分。

 相手を糾弾することも、反抗することも、助けを求めることもしない。ただ無気力に時間を使う日々。

 日に日に痣は増えていって、心の傷はどんどん深くなっていく。

 癒えない傷跡はいまだぽっかりと胸に刻まれていて。

 けど決めたから。

 自分の足で生きていくって決めたから。

 まっすぐな少年に見合うくらいの女になるって決めたから。

 だからそれ以上言わない。弱音なんてはかない。

 これはせめてもの譲歩。少年への礼儀。この辺で弱音を吐くのを止める。

 強くなる。

 自分は泣き虫のダメな子だけど。

 私にはあの人がいるから。




     ○○○




 目を開けば鮮麗な天井が見えた。

 先ほどまで真っ暗だった視界はたちまち光を取り戻す。モノクロ写真のように味気なかった世界は、漸を追って色を知覚できるようになった。

 ずっと仰臥の体勢でいたらしい体は不調を訴えている。全身の筋肉が強張って動けない。

 けれど故障気味の肉体とは違い、心持ちは軽かった。

 悪い夢から覚めたみたいだった。

 左手から暖かい熱が伝わってきた。

 ぎこちなく顔を左に向ける。

 そこには俺の手を強く握る鴇織姫がいた。

 安価なパイプ椅子に座り、ベットに顔をうずめている。頬には液体が伝った跡があって、シーツが濡れているのが分かった。

 綺麗な放物線を描く髪。肩には茶色の毛布がかかっていて、すうすうと寝入っていた。

 白い蒲団をはねのけ、体を起き上がらせる。膂力(りょりょく)の失せた体が悲鳴を上げた。

 記憶が一気によみがえる。

 思い出したように青ざめる顔。わなわなと震える双肩を抱きしめた。その際、自身の肩に回された腕に鎖が付いていないことを理解する。

 手首には何かに圧迫されたような跡があって、思わず自分の手首を掴んだ。

 不安を押し殺す息。俺の体は空気の抜けたポンプみたいに弛緩した。

 俺は喜びと罪悪を知覚する。

 室内で天を仰いだところで、やはり鮮麗な天井しか見えなかった。

 静謐な部屋。開け放たれた窓からは清風が吹き込む。ひどく新鮮な気分だ。

 鬱屈が晴れるような風だった。

「おっはよー、やっと目が覚めたか、このヘタレ男!」

 扉の開閉音と共に梅雨利空子が入室してきた。ご丁寧に見舞いの林檎まで持参してきている。

 備え付けの机に果物の入ったパケットを置き、パイプ椅子を取り出す。そのまま鴇織姫の横に腰を下ろした。

 先刻の罵倒は一旦置いておくとして、「ここはどこだ」と質問することにする。

「病院に決まってるでしょ、この内装からして」

 梅雨利は呆れたように言った。

 見渡してみれば確かにここは病室だった。

 点々と空のベットが目立ち、横には点滴らしきものまである。

「でしょうー」と確認するように言う梅雨利。

「らしいな」

「そういうことだよ」

 梅雨利は静かに笑った。

 突っ伏している鴇織姫の髪を撫でる。梅雨利は愛おしそうに鴇織姫の茶髪を梳いた。

 ズレ落ちそうになる毛布をかけ直す梅雨利の姿は甲斐甲斐しく見えた。

 俺は朦朧とする頭を押さえた。「やけに頭が重い」

「それもそうでしょう、このバーカ。言っておくけど君。三日三晩寝込んでたんだからね」

「……へ?」と情けない声を出す。

 どうりで体がぎこちないわけだ。

 三日間もの間同じ姿勢を取っていたのだから当たり前だ。

「そしてこの子も三日三晩、君の傍についてたんだからね。それこそ寝る間も惜しんで」梅雨利はなぜか不憫そうに鴇織姫を見た。「ずっと、ずっと、看病してたんだからね」

「そっか……」

 何も言えなかった。

 梅雨利の言は今の鴇織姫が証明している。きっとそうなのだろう。

「本当に大変だったんだよ。この子、気絶寸前の君を見て半狂乱になって、泣きじゃくって、君にしがみついて、病院に輸送する間も君の手をずっと握ってて、必死に祈って……。とにかく大変だったんだから」

 そのときの様子を回想したのか、難しい顔で虚空を見る梅雨利。焦点の合わない双眸は雑然と宙に浮いていた。

「クーちゃんが死んじゃうって、何度も何度も叫んで、お医者様を困らせてたっけ。一向に家に帰ろうとしない織姫を看護士さんが引きずって、乱闘まがいなこともあってさ……。それで結局ここに居残るんだからすごい執念だよね。そして食べ物を食べない、水も飲まないからさあ大変。飲食を進める看護士さんに、恋人が苦しんでいるのに食べ物が喉に通るわけありませんって――そんな風に断って、ひたすら君の手を握ってた。お願いだから起きてって、ただそれだけを祈って、君の手を握っていた。想いを届けって、そんなことも言ってた」

 切々と綴られる言葉の前に俺は物言わぬ彫像になるしかなかった。

「寝ようともしないからさすがに疲れが溜まったんだろうね。ぐっすりと寝ちゃって……。それでも手を離さないあたり、さすがってところかな」

「……そんなことがあったのか」

「その様子が目に浮かぶようでしょう? 当然だけど全部実話だから。凍鶴君のために人生の全てを使うって、やっぱり本気だったんだ。もし君が死んでたら多分この子――自殺するのかな」

 ありえそうで怖いなあ。

 なんて言って、儚げに笑んだ。

 時計の針がやけにうるさかった。

 視線を梅雨利から鴇織姫に移す。

 そこには規則正しく寝息を立てている女がいた。

 窓から涼風が吹いて、鴇織姫の髪を揺らす。翩翻(へんほん)する髪は金糸のように滑らかだった。

 花の香りがすると思ったら、机に花が活けてあった。

「……名伽はどうなった」

「なっちゃんなら飛び降りちゃったよ」という梅雨利の口調は何かを憐れんでいた。「君を奪われ返されたからね。崖から真っ逆さま。海の藻屑に消えたって表現が適切だね。ちょうど今なっちゃんの死体が見つかったところ」

「…………」

 鬱々としたものがせり上がる。

 何だかやるせなかった。

 同時に独房から聞こえる波濤(はとう)が再生される。波が岩にぶつかる音が脳内で木霊した。

「もう分かっていると思うけど――全部君のせいだからね。君のせいで歯車が狂った。二人の人生を狂わせたのは間違いなく君だから。それは理解してるよね?」

 俺に言える言葉なんてなくて、バカの一つ覚えで沈黙し続けた。

 睥睨する瞳を黙って受け入れるしかない俺は、救いようのないバカだ。

「なっちゃんはただ君が好きなだけだった。ずっと君だけを見てた。君よりもはるかにいい男なんて目をくれずに、ひたすら盲目的に狂信的に。年がら年中、君の傍であり続けた」

 それは罪状を読み上げる裁判官みたいな口ぶりだった。

 俺の背中には罪の十字架があるのだろうか。

 梅雨利の独白は懺悔の代弁なのだろうか。

「それは織姫も一緒。熱狂的に君に恋して、愛して、全てを捧げた。正直言ってバカバカしいくらいに君に尽くした。そしてだんだん君も織姫のことを好きになっていた。それは無意識なものだったけど、着々と織姫に傾倒し始めた。君はどうしようもないくらい弱いからね。心に闇を持つ織姫と相性抜群なんだよ。お互いがいないと生きていけない共存関係。相手のことが死ぬほど好きで好きで好きで、理由も行動も全部相手のため。相手のためだけに動いて、相手のためだけに尽くす。異常だよ、そんな人間。普通なはずがない。常人は他の人間関係を寸断してまで、社会的地位を捨ててまでここまでしないよ。絶対何かが歯止めをかける。それは社会の目だとか、虚栄心や損得勘定、そして保身。そんな打算や計算がストッパーになる。けど君たちは違う。何の迷いも疑いもなく、実直に純朴に、全てを破棄して相手のためだけに動く。百を捨てて一を救う。ある意味これを上回る純情は他に存在しない」

 事務的に分析する表情に感情の色はなかった。

「なっちゃんの行動も愛情表現の一つなんだよ? 押さえきれない感情が爆発してああなっただけ。究極的な愛は束縛だからね。君を自分の支配下に置くことで、なっちゃんは至極の愉悦を覚えた。これで凍鶴楔は私のものだって、なっちゃんはそう感じてたと思う。不安だったのかな。織姫に心奪われていく君を見て焦ってたんだ。だからこうした。君を誘拐して、監禁して、飼育した。きっと私たちが助けに入らなかったら君一生檻の中。なっちゃんに飼われてた。本当によかった――のかどうか分からないけど、私のピッキング技術がなかったらどうなっていたことやら。――まあ、私にしてみれば君なんてどうでもいいけどね。けどさすがに親友に泣きつかれたら、それは些事でなくなる。探偵まがいのことをして、懸命に賢明に君の痕跡を探して――。そして君との逢瀬で気が緩んでいたなっちゃんに一太刀浴びせたってところ。もう諦めたのだと思う。どっちみち警察に通報されたらおしまいだし。私たちを追うんじゃなくて海に身を投げるとは、やっぱりなっちゃんは武士の鑑だね。変なところで潔い」

「……助かった。ありがとう」

「ん? ああ、どういたしまして」

 けど、お礼を言う相手を間違ってるよ。

 そう付け加えて椅子から立ち上がる梅雨利。

「もう行くのか」というと、「私、用なしっぽいから」と意味不明なことを言って背を向ける。そのまま出て行ってしまった。

 はてと首を傾げていると、不意に呻き声がした。

 抜け切った表情は徐々に熱を帯びる。最後には泣きそうな一声を上げた。

「クーちゃん!」

 猫みたいに鴇織姫が抱きついてきて、頬をすりすりとすりつけられる。

「しし、心配したんだよぉ! しっ、死んじゃうかと思ったんだよぉ! もう、バカバカバカぁ! こんなに心配させてもう、あぁ、クーちゃん好きだよぉ! それしか言えないよぉ!」

 盛大に俺をなじる鴇織姫は泣いていた。

 黙って受け止めれば叫びは一入に大きくなった。

「ぐすん、クーちゃんっ、クーちゃんっ……。やっと、やっと帰って来てくれたね。もうこんなに嫌だよぉ! 私から離れるなんて嫌だよぉ! ……もう二度と私から離れないでね。じゃないと、私、私……。クーちゃんがいなくなったら私、どうすればいいのぉ! クーちゃんが死んじゃったら私なんて生きてる意味ないよぉ! こんなの嫌だよぉ! もういなくならないよね? クーちゃんはずっと私の傍にいてくれるよね?」

「大丈夫だから。もういなくなんかならないから。約束する」

 鴇織姫の頭を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らした。 

 ほら、やっぱり猫みたいだ。

 頭をくしゃくしゃにしてやっても、文句一つ言わない。

 風呂に入っていなかったのか汗のにおいがした。

 それは鴇織姫も同じようで、互いの体液がこすれた。

「あんなひどいことされて大丈夫だったの? 怪我ないよね? 変なことされてないよね?」

「……安心していいよ。大したことは……されてない」

「そうなんだ! すっごく安心した」

 鴇織姫も笑う。

 凍鶴楔も笑う。

「よかった……。本当によかった、クーちゃんが無事で。私、もう何もいらない。クーちゃんさえいればいいの……」

 本心からの声。

 本気でそう思っているのだろうか。

 けどまあ。

 そんなことを考えても無駄なことなのだろう。

 梅雨利空子は俺と鴇織姫を決定的な異常者だと、そう断じた。

 ああ、異常者。

 常識とは一線を画した何か。致命的な乖離。

 存在自体が埒外。あるいは例外中の例外。

 けれまあ、あれだ。

 個性。

 一種の個性だと捉えればなんてことない。個性なんて十人十色だ。ただ凍鶴楔と鴇織姫の場合、ちょっとだけ異彩を放っているというだけ。

 まさに異色。

 それだけの話だ。

 それ以上もそれ以下もない。

 鴇織姫も、名伽意味奈も、右梨祐介も、梅雨利空子も、名伽花魁も、梅雨利東子も、凍鶴楔も。

 ほんの僅かに他とずれているだけ。


 真っ白な壁紙に包まれた世界。

 意味も目的もなく生きる俺達。


 ――その対比!

  


「――綺麗だね」

 視線の先には鮮やかな蒼穹。綿雲がひらひらと漂流している。

「そうだね」と肯定してやると、彼女はにこやかに笑った。



 それはどこか、見覚えのある笑顔で。

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