第四十話 七月二十五日 続続続続
西日が窓から落ちる。
鮮やかな金色に染まる音楽室。その一角に私はいた。
背中から流れる風が春の訪れを報せている。
薫然たる香り。
私はこの香りが好きだった。
それは彼との馴れ初めに起因する。
彼との距離が縮まったのは私が十三歳の春。ちょうど現在の村長が就任した頃と重なる。
あの日以来、春が来訪するたびに春を、風をねぎらいたくなる。
同時に彼との思い出が想起され、心にポカポカとしたものが流れ込む。それは温かくて、淡くて、かけがえのない思い出。代えのきかない大切な記憶。私の宝物。
しかしそれには暗澹たるものも含まれている。
鴇織姫である。
鴇織姫の介入によって、私と彼との距離は劇的に遠退いていった。それはもう死にそうになるくらい壊滅的かつ破壊的に。
知らず知らずのうちに私は歯軋りをしていて、虚空を睨んでいた。
私と彼との間に溝ができるのが嫌だった。
だから。
変わろうって思った。
このままでは一生彼は私のところに帰って来てくれない。そんなの絶対に嫌だった。
五年前に敬愛していた長姉も逝去し、今年の五月には花魁お姉様も帰らぬ人となった。
私が頼れるのは彼しかいない。縋れるのは彼しかいない。
私に寄ってくる男は無数にいるが、下心丸出しの男子など信用ならぬ。その点彼にはそういうものが一切ない。純粋に私のことを心配してくれるし、気にかけてくれる。そこにやらしい心があるとは思えぬ。
……それはそれで悲しい気もするが。
とにかく私には彼しかいない。一応ある程度の人脈こそあれど、私が全幅の信頼を置いているのは亡き姉上たちを除けば彼だけだ。
「――な、さん」
誰かの声――
「――とぎ、ん」
「……ん?」
「ああよかった。やっと気付いてくれた」
そう言うと目の前の男子生徒はにっこりと笑った。整った顔立ちの男は二メートルだった距離を一メートルに縮める。
どうやら私が沈思している間に入室してきたらしい。いつの間にか私のすぐ近くにいる。
名札から判断するに私と同じ二年生。眉目秀麗といった様相である。背も高く程よく華奢だ。
「全然反応がないから無視されたかと思ったよ」と言って、大げさに身を竦める。
それは洗練された動きだった。無駄がないというより様になっている。
私はこの男がなぜここにいるのか分からなかった。
男が私の待ち人かと問われれば、答えは《いいえ》となる。私の待ち人は別にいる。そもそも待ち人は女だ。
とりあえず、私に用があるのかどうか尋ねる。すると一転して男は神妙な面持ちになった。
鵜の目鷹の目で私を見据える。
そして信じられないことを言った。
「僕と付き合ってくれませんか?」
と。
呆気にとられる私。
あまりに予想外のことだったので、どういう言葉を返すべきか戸惑ってしまう。
そして薄々とこの男が私を好いていることが分かった。
不思議と高揚しなかった。
男はあくまで真剣な表情を崩さない。
私が押し黙っていると沈黙に耐えきれなくなったのか、男が口を開いた。「返事を……くだ、さい」
「……返事? どういった?」
「僕と付き合うかどうか、です」
「断る」と一言だけ言った。
クシャリと歪む顔。男は激しく狼狽した。
「……なっ、なぜ? なぜなぜなぜ?」
1+1の答えは?
男の問いは算数のそれと類似していた。
その答えは極めて単純で、実に明瞭である。
しかし、そのことを言ったらこの男が傷付くのだろう。
私はそれからややずれた返答を返す。「私は君のことを知らぬ」
「付き合ってから知ればいいじゃないですか」
なるほどなというと、男の顔に喜色が浮かぶ。「じゃあ――」
「だが断る。そもそも私と君が付き合う理由がない」
「……僕があなたのことを好きというのは、付き合う理由になりませんか?」
なるだろうというと、男の顔に安堵が浮かぶ。「じゃあ――」
「残念だが君に毛ほどの興味も湧かぬ。他を当たれ」といって視線を外す。
男は死刑宣告を食らったようにうな垂れた。何か言いたそうに口をパクパクさせるが、やがてとぼとぼと音楽室を出て行った。
遠くで、凍鶴の奴、後で殺す――という言葉が木霊したような気がした。
吹き抜ける風があまりにも長閑だったので欠伸が出てしまう。
「あーあ、やっちゃった」
と。
凛々とした声。
梅雨利空子である。
深紅のリボンを揺らし私に肉薄する梅雨利空子に気配はなかった。彼女もまた相当の武芸者であることが窺える。
……知らず知らずのうちに対峙する相手の能力を分析する癖。
前にも彼に注意されたばかりなのに……
ふっと苦笑してしまう。
窓にもたれかかっていた私の前の机に梅雨利が座る。そして透徹とした瞳を私に向けた。
「これで何回目だっけ?」と彼女は意味不明なことを訊く。
「……何が何回目なのだ?」
「告白された回数。今年で何回目だっけ?」
「ああ、なるほど」と小さく頷いた後、「先ほどの男を含めれば六人目だ」と言った。
彼女は頬を釣り上げる。それは悪戯好きな妖精のようであった。
「ふーん、確か今日は六月だっけ。すごいねえ、六か月で六人かあ……。一カ月に一人の計算だねー」
「戯れを。それがどうかしたのか」
「いやさ、なっちゃんってすっごくもてるんだなあって思ってさ。同じ女として妬けるっていうか嫉妬するっていうか……はははは、さすがはなっちゃん」
梅雨利は軽口ともつかぬ戯言を口にしている。そんなこと露にも思ってないくせに。
どこか掴みどころのない梅雨利は軽妙に言葉を紡ぐ。「うふふふ、羨ましいなあ。っていうか憧憬を通り越して恐怖すら湧き上がるなあ。いくらなんでも茂木君を振るなんてさあ」
「……茂木?」と聞き慣れない固有名詞が出たのでそう尋ねる。
すると彼女は腹をよじって哄笑した。世にも奇妙な珍獣を見たといった風である。
「あはははは、それって本気? まさか茂木君を知らない女子がいるとは思わなかったなあ」
「梅雨利の前にいる女がそうではないのか」
「……そうだね。茂木君なんて眼中にないのかな。新聞部のイケメンアンケートで一位を取るほどのイケメンなのに」
「……お姉さまはそんなことをやっておったのか」
「反応するところが違うって。普通茂木君に目を奪われるところだから」と笑いながら指摘する。
そんなことどうでもいい。
確かに先ほどの男の容姿は男子の間で群を抜いていた。きっと女子からの人気は相当なものなのだろう。
はっきりいえば彼よりも容貌は優れていた。
けれど。
「私は凍鶴の方がいい」
それは何も茂木とかいう男に限った話ではない。
私にはアレにまったくといっていいほど魅力を感じなかった。
私がそう言うと彼女の雰囲気は急激に沸騰していった。「うへへへへー、なにそれ? もしかして大好き宣言? 凍鶴君に大好き宣言しちゃうの? 茂木君を振った後なのに? 学園一のイケメン振った後にそんなこと言っちゃうの? うわぁ、なっちゃん過激ー」
「過激とは何だ。私はただ本心を言ったまでで――」
「ひゃっほう、好き好きぃ、なっちゃんは凍鶴君のことが好きで好きで堪らないんだぁー。えへへ、恋の予感」
「恋か……。そうか、やっぱりこれは恋なのだろうか」
「……なっちゃん」
そう言った後、彼女は私に抱き着いてきた。「うわあ、かわいい。完全に恋する乙女じゃん。もしかしてキャラがえ? まさかのキャラがえ?」
違う違うと言って、彼女を引き離す。やれやれと溜息を落とす私。
「乙女パワー補強完了っと。いやはや、凍鶴君も幸せ者だねえ。うーん、愛されてる」とむずがゆいことを言う。
いつもの私ならば血相を変えて否定するところだけど。
「そうだ。私は好きだ」諦観交じりの声がその先を綴る。「凍鶴のことが本当に好きなのだ」
ポカンと虚を突かれた梅雨利。
「……いつものなっちゃんじゃない」と彼女。「ついに。――ついに認めたのか!」
「異論でもあるのか?」
「いや、ないけど……。そのなんだろうね。やっぱりそういうこと?」
私は彼女が何を言いたいかを理解した。「そういうことだ」
「ふーん」と唇をすぼめる。「やっぱりかあ。……言いづらいけどそれ。――本気だったりするの?」
当然と答えた。
彼への想いは本気だ。
「それと私が呼び出されたことって関係あるの?」
「うむ。折り入って頼みが合ってな」
風でそよぐ髪。彼が綺麗だと言ってくれた銀髪。そういえばあれ以来髪を切っていない気がする。
私の人生は彼中心に回っているのだろうか。
それも悪くない。
私はあらん限り頭を下げて、「私に化粧を教えてくれ」と懇願した。
○○○
汗がポトリと落ちる。
全身汗でびっしょりだった。
体液同士が接触する音。水のはねる音が生々しい。
唾液まみれになった指で頭をかく。髪の毛も名伽の体液で濡れていた。
寂寞とした檻の中、着物を整えている名伽と目が合う。「なんだ、もう一回か」と悪戯っぽく笑う。
時間の経過すら度外視した牢の構造は密閉空間。
粘膜に触れた体はえも知れぬ快感に溺れている。そして倦怠感。
やけに殺風景で、やけに情欲的で、やけに無味乾燥している。
ある程度服装を戻した名伽は身を屈めて濃密なキスをした。唇を押しつけて粘液をフリーフォール。唾液で満杯になる俺の体。
名残惜しそうに口唇を離した名伽は手の甲で唾液を拭った。そして手の甲を俺に向けて、「舐めろ」と命令する。
俺は舌を這わせた。
悶える名伽。くすぐったそうに俺を見る。
対する俺はバカみたいに口を開けて、唾液を掬っていた。
「よしよしその調子だ。君は私だけの愛欲人形だ。私の言うことなら何でもきくお人形。常に私に依存していなければ存在理由すらない人間なのだ。いつしか私とのセックスも疑問に感じなくなる時が来るだろう」
俺の頭を撫でてにっこりとほほ笑む。その後踵を返した。
名伽は背中越しに言葉を投げ掛ける。「また来る。食事の時になったら配膳、それまで私のことを恋い焦がれて待っておれ」
俺は飼い主に従順な犬みたいに頷いた。まるでそれが当たり前みたいに。そんなはずないのに。
間違っているのに。
この状況は極めて異質だ。
しかし、それをどこかで受け入れている俺がいた。
拒むことを諦める凍鶴楔がいた。
俺の中にいる僕や私が死んでいくのを感じた。名伽の瘴気に当てられた凍鶴楔という人間は紛れもなく死滅寸前だ。
俺の個性や性格が破綻していく。
名伽意味奈に染まる。
それは恣意的で、独善的で、壊滅的に、とても恐ろしいことだと思う。自分自身の論理で無理やり俺を押し図っている。当て嵌めようとしている。適合させようとしている。
ただ。
名伽にそんな罪悪感や背徳感なんてなくて、ひたすらに自分が正しいと思ってる。自分は間違ってないって錯覚している。
無自覚の歪み。
無作為の軋み。
やはり名伽意味奈もS極側の人間なのだろう。
名伽は千鳥足で扉に進んでいく。
と。
そこで異変は起きる。
「……っ、こ、これは――」
不定形のガスが室内に充満する。カラカラと音を立てて転がるのは――瓶らしきもの。それが弩級の勢いでガスを噴出していた。
口元を押さえもがく名伽。憤然とした様子で目を見開く。
だんだんと曖昧になっていく頭。濃霧が脳髄に広がって視界が狭くなる。
灰色のガスが広がるにつれ、開け放たれた扉から空気が吹き荒れていた。
音が消滅していく。
そんな中、妙にクリアになった頭がとある言葉を拾った。
――クーちゃん!
そこで世界は暗転する。