第三十八話 七月二十五日 続続
春光が花屋敷に照りつける中、辺りは粛然としていた。
書院造のとある客間。
そこで私たちは正座していた。
音はない。
寂々たる雰囲気である。
厳正たる様相。それに呼応するかのように、長姉は泰然とした様子で瞑想していた。その横では程よく肩の力の抜けた次女が端座をついていた。透徹とした眸は庭先の松柏を見つめている。
そして――三女の私ははしたなくそわそわとしていた。恋々とした想いが惹起する。これでは修業が足りぬと鞭撻されても仕方あるまい。それでも私は、湧き上がる恋慕を押さえることが出来なかった。私の中では悶々とした追慕が燻っていたのだから。
部屋には名伽の娘三人しかいない。父上は渦中の人物である新村長を出迎えており、女中たちは酒宴の設営。吉事の祝宴は決まって奥のお屋敷で行われるのが慣例である。私たちがいる場所は、あくまで客間。初めの接待は名伽家の娘の役割なのだ。
緩慢な時間が流れる。
狭霧お姉様と花魁お姉様はやはり悠々と構えている。私だけが這裏の静けさを壊しているような気がする。
気を鎮めよう。
と。
屋敷がにわかに騒がしくなったのは、そう決め込んだ折のことである。
「……どうやらいらっしゃったようだな」と狭霧お姉様が独白する。
花魁お姉さまはそれに反応せず、物思いに耽っているようだった。次いで、なぜ故か私に流し目を垂れるのだ。切れ目から漏れる暉々とした光が私を絡め取る。その逃れがたい視線をどうにか紛らわせて、前方の襖に向き合う。
それと同時に、誰かの話し声が聞こえた。それは柔らかいで物腰でいて、風格を感じさせるものであった。
私は一発で父上のものだと分かった。
父上は楽しそうな笑い声を上げながら、私たちのいる襖を開けた。
まず眼窩に入ったのが老いてなお偉丈夫の感のある男――名伽高嵐であった。名伽家の魁にして、まがうことなき厳父である。
「では、雛道殿。さびれた茅屋ですが、どうぞ、おくつろぎ下さい」とへりくだった態度でそう促す。
それを聞いたご老体は柔和に目をすがめた。
「そうご謙遜なさらなくとも、ご立派なお屋敷に思慮深い主ではありませんか。招聘を承った私としても幸甚の限り」
父上の言葉を丁寧に返す。髪に白いものの混じった好々爺は、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「いやはや、光栄で御座いますな。迂生にはいささか身に余るお言葉。ならば、不出来ながらも受け取らせていただくのがせめてもの礼儀でしょうに」
父上は畳の上で深々とぬかずいた。同調するように私たちも低頭する。重なるように老翁も頭を下げた。
父上に促された老翁の名は、雛道紀一郎。住民から厚い支持で村長になったこの老人の立場は、日和見村を総括する首魁である。姿勢は慎み深いが、口吻から一角の人物であることが窺える。
なるほど。
このご老体あってこその彼なのか。
私は納得した。
「今日は安居楽業の節目。喜ばしい吉日で御座います。尊公にはぜひ裃を脱いでいただき、村の弥栄を祈りましょうぞ」
ご老体は朗らかな表情を浮かべた。「そうでしょう。我が村奕世からの吉例で御座いますからな。かくいう私もこの日を楽しみにしておりました。不肖ながらご相伴を預からせていだだく」
「粗酒粗肴ですが、雛道殿のお口に合うかどうか不安ですな」と父上は冗談交じりに言う。「なんせ家内は魚の捌き方すらおぼつきませぬ」
「なるほど。噂通りですな」
両名は声を揃えて笑った。
母上の料理ベタを知っている女中たちも、口を忍ばせていた。
「おい、狭霧、花魁。雛道殿を大広間へ案内して差し上げろ」
静かに首肯した二人は無音の動作で立ち上がった。それは洗練された武家のものであった。
「それでは我が娘たちが広間までご案内致しますので」
「助かりますな」
落ち着いた挙動でご老体は立ち上がった。
「では、雛道様。こちらで御座います」
狭霧お姉様は清廉とかしずく。春色の紅梅に身を包んだ姉上はとても綺麗だった。
その横で花魁お姉様がご老体の背に軽く手を添えていた。
対するご老体はにこにこと終始笑みを浮かべながら、姉上たちに従った。部屋を退出し、襖の閉まる音。木目の渡殿を歩く足音がだんだんと遠ざかった。
「意味奈」
父上にそう呼びかけられる。視線を巡らせてみれば、穏やかだった父上の顔つきが鋭角的になっているのに気付く。すると条件反射的に筋肉が緊張し、背筋が伸びた。瀑布に身を打たれたように身が引き締まる。
「お前に頼みたいことがある」
「……何でしょう?」
私は父上の頑健な体を視界に収める。はて、何のことやら、と脳内に疑問符が飛んだ。
それは。
吉報だった。
「お前はこれからいらっしゃる雛道殿のご子息をお出迎えしろ。いいな?」
父上の言葉が脳髄に浸透していく。
須臾して私はその意味を咀嚼していく。表裏をなして彼の凛冽とした顔が思い浮かぶ。
願ってもない。
私は心の中で喝采を上げていた。
「……御意のままに」
「本来ならばその御子息も雛道殿と一緒にいらっしゃる予定だったのだが、生憎病み上がりだと聞く。事実、ご子息は昨日まで病臥に臥しておられた。ご子息の健康のこともある。無理にとは言わなかったのだが、健気なことに今、小康状態のご子息がここに出張っておいでだ。確認するまでもないが、丁重にもてなすのだぞ」
「分かっております」
父上は満足そうに頷いた。「うむ、良い返事だ。――確かご子息はお前と同じ年頃らしいのでな、気の合うところも多々あるだろう。ご交誼を賜っておいて損はなかろう」
私もそうするつもりだったので、特に異存はなかった。
これをきっかけに彼と仲良くなりたい。
彼とたくさん話したい。
二人だけの時間を共有したい。
そんな甘い想いで高鳴る。
私は胸に秘めた想いを糊塗しながら、「父上の致す通りに」と抑揚のない口調で言った。
心臓が激しく脈打っているのを勘付かれないように表情を隠す。つとめていつも通りの所作になるよう心がけた。
それが功を奏したのか、父上に変わった様子はなかった。
「それでは、意味奈。私もそろそろ行くぞ」と言って、腰を上げる父上。齢傾いてなお動きに無駄はない。
父上も退出し、部屋には私一人だけ。遠くから物音や人の話し声がするが、どこか別次元の出来事のように思えた。
ぼんやりと夢想に耽る。同時に彼との甘美な妄想に囚われた。頭の中の彼は私だけを見てくれて、私だけと話してくれて、私だけを感じてくれて、私だけを愛してくれる。
そう思うだけで体中に淫靡な電流が流れた。頬が真っ赤になって、どうしようもなくなる。
私は口から漏れる笑みを殺しながら、そそくさと立ち上がった。
○○○
なあ、凍鶴。私のことを恨んでいるか? こんなひどいことをする私を軽蔑するか? 私は軽蔑されても仕方のないことだと思う。なんせ、君を無理やり監禁しておいて関係を迫ろうとしているのだから。君の自由を奪っておいて、選択肢を奪っておいて、逃げ場を奪っておいて、こんな卑劣なことをするのだからな。けど仕方ないんだ。こうするしか方法はなかったんだ。私は憶病な人間なんだ。君に拒絶されるのが怖いんだ。君に嫌われたらどうしようって、いつもそんなことばかり考えてるバカな女なんだ。いつも君のことばかり想ってるしょうもない勘違い女だったんだ。――けど。けど君への想いは誰にも負けない。あんな女よりもずっと君のことを愛している。こんな犯罪まがいのことをしてでも君が欲しかったんだ。欲しくて欲しくて堪らなかった。君となら愉快な人生を送れるって、楽しい日々が過ごせるって、私の心を深く満たしてくれるって、そう思ってた。だからこうした。私は怖いんだ。このまま君がどこかに消えてしまうのが怖いんだ。君を失うのがどんなことよりも怖い。高校に入学してから私はずっと君の傍にいた。傍に居続けた。だって好きだったから。本気だったから。君のことを考えて、君のために第一に行動した。けどあの女が君を横から掻っ攫っていった。正直言って泣きそうになったよ。あの女が私の目の前で私のしたかったことを君にするんだ。私だって君に抱きしめてほしかった。手をつないで欲しかった。キスしてほしかった。愛してほしかった。けどそんなこと出来るはずなくて、現実から目を逸らすだけだった。君とあの女が本格的に付き合っていくのを見て、生きる気力を無くしたよ。学校なんて行く気になれなかった。前までは君と逢えるから本当に楽しかった。けど君の隣にいるのは私じゃないんだ。これでは意味がないんだ。君の隣には私がいないとダメなんだ。
きっと私は壊れているのだろうな。こんな一方的な愛部でもすごく興奮する。君の服を脱がしたい、君の指を舐めたい、君に触れてもらいたい、私を感じてもらいたい。
君とセックスがしたい。
名伽意味奈はほっぺにキスして、とろんとした瞳を俺に向けた。
薄暗い室内。
互いの荒い呼吸。噴き出る汗。体を伝う唾液。こすれる布。触れ合う肌。溢れる情欲。
「あの女のことなどすぐに忘れさせてやる。そして私だけしか愛せない体にしてやる。私のためだけに生きて、私のためだけに呼吸して、私以外の女が見えないくらいに君を私の虜にする。宣言しよう。君は私に酔いしれる」
名伽は俺の首筋を舐めた。
全身の震えが止まらなかった。激しい倒錯感と快楽に身が悶えそうだった。体が名伽に反応して、制御が利かなくなっている。
情けない息。喘ぎ声にも似た響きは名伽を悦ばせるだけ。名伽の愛部がより激しくなるだけだった。 熱のこもった息が頭に当たる。芳しい香り。それは女の匂いだった。
全身が熱い。驚くほど感覚がない。
好きって、耳元で言われる。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き、って何度も言われる。
「小学校のころから君のことが好きだった。その想いはだんだんと強くなっていて、殺したくなるくらい君に夢中になっていた。ずっと君を犯す夢ばかり見てた」
名伽は俺の手を引き、自分の首の辺りに持っていった。そして和服の隙間から俺の手を差し込ませ、自分の胸を揉ませた。着服しているのに胸を揉み下すという背徳感にも似た愉悦。抵抗する気はとっくに失せていて、されるがまま。
乖離していく意識。ただ胸を触れる右手が火照っていくのを感じた。服から差し入れた右手は柔らかい肉の塊を撫でていた。ものすごい弾力をほこる何か。それが掌中で脈動していた。
粘膜と粘膜が重なり合い、体液をこすりつけ合う。そうやって一つになる。渾然となす肉体と精神。二人の意思はチーズみたいにドロドロに溶けて、やがて一つになる。
名伽は数え切れないほど俺に甘いキスをして、一リットル分くらいの唾液を飲ませた。多分体中の水分の何割かは名伽のものだ。
「このままいったら空っぽになりそうで怖いな」
名伽はそんなことを言って、粘液を俺に送り込んだ。何度目か分からない衝撃と衝動が俺を襲って、何もかもがメチャクチャになる。歯と歯が衝突し、互いの口内を探検し、滑らかなところとざらざらしたところを見つける。自分ですら忘れていたくぼみや古傷を名伽の舌が触れる。冷たい床はひどく無機質で、名伽は底の見えない温泉みたいに熱かった。
「けどそれでもいい。空っぽになってもいいから君と触れていたい」
汗と埃と艶やかな匂いが鼻腔をくすぐる。びっしょりと汗をかいていて、皮膚が体液でねばついていた。
薄暗い中名伽の手が伸びてきて、俺の薄っぺらい胸板を撫でた。
服はいつの間にかカッターナイフか何かで切られていて、肌が露出していた。シャツの残骸がぼろきれのように転がっているのがうっすらと見えた。
俺の手は依然として名伽の胸。それが先端に触れて名伽の体が振動する。身悶えする名伽は悪戯っぽい目で眺め、俺の頬を舐めた。和服から肩を出した名伽は妖艶だった。
「鴇織姫は君と毎日こんなことをしていたのか。……妬けるな。すごく妬ける。けどもう私だけだ。君を独占していいのは私だけなのだ」
綺麗な銀髪は床の上で放物線を描いていた。
押しつけられる唇。俺の頭はくらくらしていて、正常ではなかった。
○○○
永劫とも思える時間。
鎖と金属音と水音だけが響き渡る。
時間が止まったこの小部屋。
男は歪曲した愛に流される。
女は停滞した愛を注ぎ込む。
これも愛ゆえか。