第三十七話 七月二十五日 続
四月五日。
清明の刻。
日和見村では吉日の祝いが催されていた。
村長就任の儀である。
日和見村では村長の代が代わるごとに、新村長が日和見村の中核を担う御三家に謁見するという風習が残っている。
その御三家とは、武家の嫡流を組む名伽家。
金春流の家筋たる転寝家。
村の神事を取り仕切る佩刀家である。
その一角を担う名伽の嫡子たる私も、それに参加する運びとなっている。
私は母屋にいた。
女中に袷仕立ての着付けをさせている折のことである。
白と赤とを重ねた留袖。桜色のそれは、気後れするほど鮮やかなものだった。
幾何学的な意匠が施された衣装。自慢の銀髪は後ろで束ね、瀟洒な簪を挿す。小袖は丹念に止められ、足袋は違和感なく足に馴染んだ。
「お綺麗で御座います、お嬢様」
年嵩の女中はにっこりと笑った。私も微笑み返す。
用意された姿身を覗いてみれば、見違えるほど風流な女が映っていた。頬には白粉が塗られ、唇には紅が引いてある。「女丈夫のようで御座いますね」と女中が楽しそうに所感を述べた。
蔀から光が漏れている。それも相まってか、檜皮色の丸柱や御簾が幽境たる雰囲気を醸していた。
鏡に映る自分。
ふと。
彼はどう思うかな。
なんて。
考えた。
その考えをすぐに打ち消す。はははと自分を自嘲した。なんてことを考えたんだろう。物の道理を知らない暗愚さ。自分がひどく浅はかな存在に思えてきた。
これでは。
これでは――
恋する乙女ではないか。
「――どうかなさいましたか?」
女中は不思議そうに首を傾げた。
私は頭の中に浮かんだ一言を抹消した。そして何事もなかったかのように言う。「何でもない。それよりもお姉さま達の着付けは済んだのか?」
「はて、どうですかな。一足先に着付けた狭霧お嬢様はともかく、花魁お嬢様は――まだで御座いましょう」
「そうか」と小さく呟く。
「心ここにあらず、と言った風ですが――何か思うところがおありで?」
女中は悪戯っぽく笑った。女の顔だった。
対する私は虚を突かれる。思考回路を一時停止した。
袴着の折から私に従事しているこの女中は、私の機微を完全に熟知しているようである。
何かを探るような目付き。思考が回復した私は怖くなって目を逸らした。胸に秘めた思いを暴かれそうで恐ろしかった。ことさらこの女中は色恋沙汰に関して敏感である。
それは淡くて小さく――けれど、決して潰えることのない想い。
私は抑揚をなくすよう努力して、「そんなことはない。ただの勘繰りである」と平坦に言った。
「ご冗談を。目は口ほどに物を言うのですよ、お嬢様」と女中。そして畳み掛けるように言った。「この晴れ姿、誰かに見せたいのではありませんか?」
うっと、声に詰まる。まさにその通りだからである。
みるみる赤面する頬。体の奥が熱を帯びたように熱くなって、手で顔を覆ってしまう。そのまま恥ずかしくなってうずくまる私。
「あらあら」と呆れたような、それでいて愉快そうな声。
私はそれを無視して、母屋から走りだした。
堪らなく恥ずかしかった。
私はひたすらに駆けた――
○○○
俺は途方に暮れていた。
この状況に活路が見出せない。
完全な沈鬱状態である。これでは刑に服した囚人と何ら差異はないように思えた。
皓々と裸電球が光る。それが薄暗い部屋の中を照らす唯一の光源である。
手足には鎖が嵌められており、身動きが出来ない。多少なりとも動かせるが、いかんせんどうすることも出来ない。ただただ沈黙を守るのみである。
はたして今はいつなのか。何時何分なのか。
判然としがたい。世界とのパイプラインが途切れている。
繋がらない。
繋がりがない。
繋がっていない。
繋がることはない。
繋がるとは思えない。
――寒い。
空調管理は抜群。しかし寒い。体中から魂が抜け落ちる感覚。
自分が自分でなくなる恐怖。
世界が世界でなくなる恐怖。
狭い空間こそが世界なのか。
暗い空間こそが世界なのか。
気分が沈む。腹が減って気が滅入る。
先ほどから脱出できそうなところを探してはいるが、成果は芳しくなかった。目の前の扉は視認こそできるが、鎖が軛になってそこまでたどり着けないでいた。
やはり鎖が邪魔でどうすることも出来ない。鎖のおかげでただでさえ狭量な行動範囲がさらに狭くなる。それに鎖そのものの存在がさらなる閉塞感を累加する。
歯痒い。何も出来ない自分が歯痒い。
歯軋り。何も出来ない自分に歯軋り。
歯切れが悪すぎる。激しい恐怖で歯の根が噛み合わない。
何も出来ないことへの焦燥感。無意味だと分かっていながらも口にする。
「こんなところで餓死するのか」
と。
その呟きが何になるというのか。それは活力の無駄遣いに他ならない。
世界こそがこの狭い空間なのか。
世界こそがこの暗い空間なのか。
これを夢だと思いたい。
いや、縋るな。考えるんだ。この状況を打開するための努力をしろ。
今までの俺に足りなかったものは努力だ。
生きるための努力。
活きるための努力。
逝きるための努力。
その全てを放棄してきた。惰性のままで生きていた。
だから。
俺は生きる。
生きて帰ってみせる。
――と。
開かずの扉が開いたのは、俺の全細胞がそう蜂起した折のことである。
「誰だ!」
対象を意識するよりも先に、対象を認識するよりも先に、声を張り上げる。お前は誰だと怒声に近いものを上げる
表裏をなして湧き上がる期待、希望、そして――不安。それらがない交ぜになった感情がここにきて爆発した。
小さい光。逆光のせいで誰が入ってきたのか確認出来ない。シルエットが影絵のように浮かび上がるだけ。
影法師は華奢な女の輪郭を形作っていた。
「お前は誰だ」と再度誰何する。
さらさらと髪が揺れる。
少女は笑んだ。
「私だよ、凍鶴」
街路灯のように不安定な明かり。明滅する衣服の冴え。視界が渾然とする中、鮮やかな色だけが網膜に届く。
隻影が闇の上に伸びる。
闖入者の存在によって硬直した体は一気に弛緩した。一転して氷解する恐怖。そして安堵。俺はへなへなと警戒を解いた。
前まで孤独と孤立に喘いでいた俺に、何とも言えない感慨がこみ上げてくる。俺は堪らなくなって叫んだ。「たっ、助けてくれ名伽! は、早く警察を。警察を――」
「黙れ」
と。
名伽意味奈は。
言った。
有無を言わせない、截然とした断定。ナイフのような眸子が俺を見る。
ひどく戸惑った。
名伽の勢威に意表を衝かれた俺の頭は真っ白になった。
「なっ、なあ、名伽。この状況の意味。分かってるだろ。この状況の特異性。分かってるだろ。助けに来てくれたんだよな……。俺のこと、助けにきてくれたんだよな……」
すると名伽はふっと笑った。「ふむ。なるほど。相変わらずだな、君は。なぜそう物事を楽観的に捉えられるのだ? ぜひ講釈を垂れたいものだ。――ああ、言っておくが君をバカにしているわけではないぞ。私は君のそういうところも嫌いではないといっておるのだ。裏返せば、私への信頼。それが如実に表れているではないか。――嬉しい。君には私がそう見えるのだな。つくづくめでたい奴だ。けどまあ、私はそんな君を愛でたいと思っている」
色を帯びた声韻。どこか艶めかしくてそわそわしてしまう。
混迷する頭で現状を把握しようとする。けれど一向に纏まらなかった。答えが一つに集約しない。考えが霧散してしまう。
と。
門扉の閉まる音。
それと連動して、名伽が音もなく近付く。
白と赤の襲色目。名伽は意匠が凝らされた留袖を着ていた。腰まである銀髪はうなじの辺りで束ねてある。唇にはいつかのようなルージュが引いてあって、濡れているようだった。
一挙手一投足が見事に洗練されている。隙がまったくなくて、見てるこっちが身ぶるいしてしまうレベル。まるで美人画から抜け出したみたいだった。
頬に手を添えられる。気が付けば名伽はすぐ傍に来ていて、目の前でしゃがんでいた。
両頬が名伽の手で挟まれる。白磁の指が俺の顔を包み込んだ。
現状を忘れてただ息を呑む俺。その間抜け面を尻目に、名伽はふふふと笑みを浮かべた。「どうだ、惚れたか」と言って、「私のことを好きになれそうか、愛してくれそうか」とも言った。
なおのこと唖然としてしまう。
俺は名伽の言葉がよく咀嚼出来なかった。
「抜け切った表情だな、君は。君こそこの状況を理解してはおらぬではないか」
喉が震える。俺は言葉を発しようとしたが、漏れるのは荒い呼吸だけだった。
凛とした瞳は涼しげに俺を眺めていた。ただその視線には獰猛な獣性が感じられた。
同時に到来する感情。
それは得体の知れない相手と対峙するような圧迫感だった。
光が消えていく。裸電球の光は儚い。
眼前には名伽がいる。喉を振り絞って、「これはどういうことだよ、名伽」とたどたどしく言葉を紡ぐ。頬を押さえられていたので、少し喋りづらい。
名伽は俺の頬を軽くつねって暢気そうに言う。「はて、何のことやら」
「……ふざけてるのか」
「ふざけてなどおらぬ。君の前では嘘はつかんよ」と相変わらずの余裕。狼狽する様子はない。「なんせ、君を愛しているのだから。愛する男に嘘はつくなと、姉上から教訓を受けておるのだから」
齟齬。凍鶴楔と名伽意味奈には致命的な食い違いがあるようだった。
頬が火照る。名伽の体温がこちら側に浸透している。
熱。
ふと、一か月前のことを思い出す。
それは音楽室でのこと。
木石漢で朴念仁な俺に乙女心の機微なんて無知にも等しかった。それ故か、名伽の告白は飛び上がるくらい驚いた。そして答えを出さずに逃避した自己を恥じた。頑迷で愚鈍だった自分に堪らない羞悪を感じた。
あの時の俺は本当に愚かだった。朴直なまでの想いを吟味するどころか、考えもなしに拒絶してしまった。
それにはいくらか危惧すべき歪みがあったが、それが言い訳になるとは思えなかった。
名伽を裏切ったことに変わりはないのに。いくら懺悔してもどうにもならないのに。
そして。
あろうことか鴇織姫に頼ってしまったことが最大の過失だった。
安息の代償はあまりにも高すぎた。
一場の間ではあったが、鴇織姫に心を許したことに変わりはなくて。
鴇織姫の恋々とした思慕は日を追うごとに苛烈を極めた。
病的なまでの依存。
狂的なまでの隷属。
そして――名伽意味奈。
ただでさえ鴇織姫の存在が両名を疎遠にしていたのに、あの出来事以来、凍鶴楔と名伽意味奈の関係は間遠になっていた。
鴇織姫は凍鶴楔に傾倒し、名伽意味奈は凍鶴楔から離れ、梅雨利空子は凍鶴楔を影から見守る。
そんな構図が出来あがっていて、いつの間にかそれが日常になっていて、それが変えられない必定だと気付かされた。
実をいえば、こうやって名伽と話すのを久方ぶりなのだ
ただ。
久しぶりの会話がこんな独房で行われるとは夢にも思わなかったけれど。
俺はなるべき慎重に、名伽を刺激しないように言った。「名伽。とりあえず……この鎖、外してくれないか?」
俺はジャラジャラと目障りな音を響かせる鎖を掲げる。
名伽はつまらなさそうにそれを見るが、すぐに視線を戻した。眦を決した眼差しが俺を射竦める。それはとみに実直で、一徹とした感情が迸っていた。
「……欲しい」と彼女は呟く。
「は?」と思わず答える。「なにが」
「ふふふ、決まっておるだろう」と微笑を漏らす名伽は真剣だった。「君の唇だよ」
名伽はいたって自然に唇を重ねた。
頬を強い力で押さえられる。肩と肩が軽く触れて、そこに電流が走る。
口内では名伽の舌がうごめいている。俺の舌をきつく吸って、唾液を飲み干していた。そのまま歯の一本一本を丁寧になぞる。水のはねる音が淫らに響く。
名伽の右手は俺の頭にスライドしていた。後頭部から首を這う右手で俺を引き寄せる。
接吻を止める気配はない。
名伽は獣みたいに俺を抱きすくめた。
拘束された俺に防ぐ手なんてなかった。俺はただ受け入れるしかなかった。
鎖で節々が痛む。
俺はわけも分からぬまま、名伽の接吻を享受していた。
俎上の魚。
凍鶴楔の命運は名伽意味奈に握られている。