第三十六話 七月二十五日
高く高く、天高く。
舞えや舞えよと、永遠に。
届けや届けと、張り上げて。
愛しい人への恋の歌。
響き渡るは乙女の音色。
――Only your love song.
「――お前。なんて言った?」
と。
姉上は困惑気味に問い質した。
夏の日の夕方。
蝉時雨がかまびすしいとある日のことである。
姉上は文台をあつらえた硯箱の前で胡坐をかいていた。西洋美術と書道を嗜む姉は、庭を前に時折筆を染めることがある。
長押と欄間を設けた座敷の一角で、姉上はまじまじと私を見た。作業の手を一旦止め、食い入るように私を凝視する。
対する私は高欄にもたれかかるように座っていた。うなされるように頭上を見る。すると桟が十字に交差した格天井が見えた。
「いや……何といえばよいのでしょうか」と曖昧に口を濁す。「私にもよく分からぬのです」
「……分からない?」
「左様。私も始め、狐や狸の類に化かされたのかと思いました。けれど――違うのです。詳しく説明することは出来ませぬ。――出来ませぬが、あるのです。この想いは本当なのでしょうか。言葉で表現しずらい感情で御座います故、いささか理解に苦しむかと思いますが……」
藉口するような口ぶりである。
私はひどく説明に困った。
今までに感じたことのない想い。
胸の奥で複雑に揺れ動く感情。
それが頭の中でぐちゃぐちゃになって、言語化を阻害する。
気味が悪い。わけの分からぬ感情だ。
けれど、不思議と嫌な気はしない。むしろ気分が高揚して、何となく愉快になる。それは得体の知れぬものではあったが、心地よい余韻が体中を包む。あるいは清涼たる爽快感とも言えた。
変な感じ。
「そうかそうか」
そんな私を見た姉上は豪放磊落に笑った。
夾雑物のない瞳。行儀よく机に向かう様は楚々とした佳人を彷彿とさせる。木目細かい銀髪は畳まで垂れ、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
鹿威しが典雅たる余情を作り出す。体中が透き通るような、そんな嫋々たる音色。匠によって剪定された榎や柏は驟雨の露に濡れ、夏季の画意を感じさせるのであった。
これも柔婉たる夕立のなせる業か。
私は姉上がなぜ笑ったのか図りかねていた。それを見極めたくて、玲瓏とした佇まいを見せる姉上を眼窩に収めようとする。
禅僧さながらの結跏趺坐の体勢を見せる姉上。粛々と瞑目する姉上は、大悟した高僧と見間違えそうである。
「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか?」
花簪が挿された白銀の髪の毛。微風がそよぐ。姉上は言った。「許す。申せ」
「この感情は一体何なのでしょうか?」
「それはだな……」
姉上は私の反応を窺いつつも、「恋と呼ばれるものだ」と言った。
しばし沈黙した後、情けない息が漏れる。
「あ、姉上……?」
「その様子だと気付いておらぬようだな。まあ、無理もなかろう」
清冽とした瞳は悪戯坊主のように釣り上がった。
「お前にとって初めての恋なのだろう? 若いお前にはいささか早すぎたようだ」
「……恋、で御座いますか?」
完全に意表を突かれた私は口をパクパクさせるだけであった。
姉上の言った言葉を理解するのに数秒を必要とする。それは異国の物語のようで意味が租借しにくかった。
「そうだ。その湧き上がる炎は紛れもなく恋なのだ。試しに先刻話した男のことを想像してみよ。こう、胸が熱くなって何をする気も起きぬだろう? 行住坐臥、いついかなる時もその男について思索を張り巡らせてしまう。それが――」
「恋」
「いかにも。それが恋である」
私は押し黙った。
そのまま時間だけが流れる。
閑寂たる静謐。
半人前の私では、姉上に示唆されたところで“恋”なるものは霧がかった何かでしかなかった。姉上は何を言いたいのか。恋とはいかようなものなのか。あまり読み取れなかった。
姉上は立ち上がった。当然のことだが、私と姉上は起居を共にする仲である。よって姉上の所作は見慣れているつもりであるが、いつ見ても姉上の居住まいは映える。一挙一動が堂に入っており、心憎いほど見事である。
「まあ、余計な口出しはせぬことにしよう。ありのままに感じたことをありのままに表現すればよい。さすればおのずと答えは見えてくる。霧はやがて晴れる。止まない雨はない。そういうことなのだよ。――それとこれだけは肝に銘じておけ、我が妹。好きになった男に嘘をつくでないぞ。また男にも嘘を言わせるべきではない。嘘は内側から壊していく。それはひどく緩やかだが、気が付けば手遅れになっておることも少なくはないのだからな」
姉上は私の前を通り過ぎ、吹きさらしの透渡殿を歩いていった。
北側の渡殿は複廊となっており、半分を廊下、半分を部屋として用いている。
「姉上」
私は遠ざかる姉上の背中に声をかけた。不躾とは思っていたが、そう言わずにはいられなかった。私の何がそうさせるのかは分からない。けれど、訊きたいと思った。でないと収拾がつかない。詳細な解説が聞きたい。この不可解な想いを解読してもらいたかった。
が。
「いずこに行かれるのですか?」
私の口から出た言葉はまったく別の言葉だった。
私の心には激しい葛藤が渦巻いていた。複雑に入り組んだ迷宮。
不意に泣きそうになる。
同時にこんなことも分からない自分が嫌になった。忸怩たる思いが起因する。
私の気を知らずか、姉上は顎に手をおいて視線を宙に向けた。そして朗らかに言う。「ふむ。花魁のところだ。近ごろの花魁は弛んでおる。奴め、何かに現を抜かしておるな」と楽しそうな表情。初雪の襲色を身に纏い、床の簀子の上に佇む姉上。「さては男でもできたか。ふむ、ませた愚妹だな。修業の方に支障が出ねばよいのだが……」
姉上は憂慮するように視線を斜め上にずらした。倣うように私もずらす。
夕映えの景色。
戯画のように美しい西日が空に浮かんでいた。悠々閑々たる情景である。
知らず知らずのうちに感嘆の息は漏れていた。儼呼たる大自然に心打たれていた。
そんな無邪気な姿を見た姉上はふっと頬を緩めた。そのまま音もなく過ぎ去っていく。
残照によって照らされる草木。私は姉上がいなくなったのにも気付かず、ただただ雄大な宇宙に目を光らせるだけであった。
これは私が十一歳の頃の記憶。大切な思い出の片鱗。
そして。
彼への淡い恋心を自覚した日でもある。
○○○
「……何だよこれ」
初めに知覚したものは鈍い痛みであった。
寝ぼけ眼を目でこすろうとするが、生憎鎖が邪魔で予想以上に手間取った。ジャラジャラと気味の悪い音が冷たい部屋に反響する。
まるで独房のそれを思わせる室内は狭くて暗かった。
頭上の裸電球だけが息苦しさを和らげてくれる。申し訳程度に取り付けられた天井のそれは、ひどくちっぽけなものに見えて心細かった。
次に襲って来たものも――やはり――痛覚。
手首足首に装着された鎖は極めて無機質である。愚鈍に黒光りする鎖は、ただの拘束具以上の圧迫感を俺に与える。それは恐怖と呼ばれる感情である。
痛みで目覚めたのか。
「どうりで目覚めが悪いはずだ」
と。
独白したところで。
空しいだけ。
虚しいだけ。
溜息をついてところで現状は変化しない。自明の理である。
牢獄を彷彿とさせる小部屋には外界を認識するものがなかった。牢屋には付き物であろう鉄格子すらない。外界に繋がる唯一のものは、眼前にある扉のみである。重量感のあるコンクリートの壁に混ざるように存在する扉は、やはり壁のように無表情である。
ここから先は通しません。
無言の重圧が戦慄を駆り立てる。
完全なる閉鎖空間。
ただ空調管理はしてあるらしく、換気扇は冗談みたいにくるくる回っている。それと網掛けの通気口。
ダクトである。
どうやらこの部屋はとある建物の地下室であると見当づける。
もっとも。
それは根本的な解決になりえてないが。
普通地下室というものは熱がたまるものである。にもかかわらず不快指数が募らないのは、あの空調の恩恵であることが窺えた。
陰鬱たる扉の横にはベットがある。それはこの場に不釣り合いな代物であった。
シミも汚れもないシーツ。ふかふかという形容詞はこの近状において、なんだか不可思議だった。
よくよく見れば床も埃っぽくなかった。丁寧に掃除がなされている。奇妙なことに床も壁も天井も磨き上げられているようである。
まるで。
俺は激しい違和感を感じながらもこう思った。
まるでこの時のためにあつらえたかのような――
清潔さ。
別の視点に切り替えてみる。
冷静に見て俺は監禁されている。ご丁寧に手枷足枷を嵌めて、行動を制限されている状態だ。口を封じられていないことが幸いか。
耳を澄ませてみれば潮騒が聞こえる。
潮騒。
この独房は海の近くにある。そういうことなのか。
日和見村には山を越えれば日本海を望める場所がある。そこは切り立って崖で、険しい岨道の先にあるのだ。
この奇怪な独房は断崖の上に立っているのだろうか。その可能性はありえる。
日本海が見える絶壁。便益が皆無という理由も手伝い、ここ周辺には驚くほど民家が存在しない。酒屋へ三里豆腐屋へ二里と言った不便な地域なのである。よって助けを求めようにも近隣に人はいない。
概括すれば猿轡は不要というわけである。
俺は青息吐息を吐いた。繋がれた両手両足を諦観交じりに一瞥し、焦心に駆られる。電球の光に反射した鎖は鈍い光沢を放っていた。
一毫の隙もない孤立状態。まさにアルカトラズ。ここは脱出不可能の監獄である。
しかし。
普通ならば狼狽、恐怖するような状況ではあるが、なぜか俺は冷静に分析することが出来た。
「――鴇織姫、か」
知らず知らずのうちに苦笑めいたものを浮かべていた。
今日の詳しい日にちは分からないが、夏休みの真っ只中にいることは理解している。おそらく七月の月末であると思う。
鴇織姫と関係を持って三カ月近くが経過した。様々なことがあった。慣れたのか。
異常に慣れたのか。
数え上げればきりがない。
鴇織姫の偏執的な愛情。
右梨祐介の狂信的な恋慕。
名伽花魁の倒錯的な感情。
名伽意味奈の蠱惑的な法悦。
ことごとく何かが歪んでいた。
誰彼構わず何かが病んでいた。
各々独自の論理で答えや意味を模索し、探索し、捜索し、当てのない何かを探し求めていた。
それは常人には理解されないような想いだった。所狭しと堕落していて、崩落していて、枯渇していて、歪曲していて、快楽していて――
怖いって感情には二つの定義がある。
一つ、自分とは決定的に違うものを見た時の恐怖。
二つ、物理的な生命の危機に見舞われた時の恐怖。
両方とも人を間違った方向へと狂わせるものだが、この場合は後者である。
この部屋には時計がないので、時刻を把握する術はない。それに加えて外界を認識できないことへの猜疑。
何よりの死活問題は、飲食の欠乏である。
周囲を見渡せばすぐに分かることだが、この空間には食料や飲料水がない。
餓死、という言葉が頭に浮かぶ。
洒落にならぬ。人が最も忌諱する死に方である。自殺志願者でもこの手段を選択する物好きは存在しないだろう。それに孤独死が付随するのだから、なおのこと破綻し切っている。唾棄されることはあっても、垂涎するものは絶無である。
気休めの溜息すら許されない。
気遅れの周章すら許されない。
気紛れの郷愁すら許されない。
気落ちの落胆すら許されない。
ましてや現実逃避などありえない。
悪戯に死を加速させるだけ。
俺は、凍鶴楔は、世界の縮図のような理不尽たるものに蹂躙されるのか。
あっけなく死ぬのだろうか。紀一郎おじさんを残して夭折するしかないのだろうか。
養子縁組こそしていないものの、俺はおじさんを実の家族だと思っている。
家族を残して死ぬなんて、絶対嫌だ。それでは俺の二の舞だ。俺はおじさんまでも悲しませるつもりか。
バカげているように見える、この状況。
この状況は――
なんなんだ?