表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神隠しが起こる村  作者: 密室天使
第四章 【ラブソング】
36/42

第三十六話 七月二十五日

高く高く、天高く。

舞えや舞えよと、永遠に。

届けや届けと、張り上げて。

愛しい人への恋の歌。


響き渡るは乙女の音色。



――Only your love song.

「――お前。なんて言った?」

 と。

 姉上は困惑気味に問い質した。

 夏の日の夕方。

 蝉時雨がかまびすしいとある日のことである。

 姉上は文台をあつらえた硯箱の前で胡坐をかいていた。西洋美術と書道を嗜む姉は、庭を前に時折筆を染めることがある。

 長押(なげし)と欄間を設けた座敷の一角で、姉上はまじまじと私を見た。作業の手を一旦止め、食い入るように私を凝視する。

 対する私は高欄にもたれかかるように座っていた。うなされるように頭上を見る。すると桟が十字に交差した格天井(ごうてんじょう)が見えた。

「いや……何といえばよいのでしょうか」と曖昧に口を濁す。「私にもよく分からぬのです」

「……分からない?」

「左様。私も始め、狐や狸の類に化かされたのかと思いました。けれど――違うのです。詳しく説明することは出来ませぬ。――出来ませぬが、あるのです。この想いは本当なのでしょうか。言葉で表現しずらい感情で御座います故、いささか理解に苦しむかと思いますが……」

 藉口(しゃこう)するような口ぶりである。  

 私はひどく説明に困った。

 今までに感じたことのない想い。

 胸の奥で複雑に揺れ動く感情。

 それが頭の中でぐちゃぐちゃになって、言語化を阻害する。

 気味が悪い。わけの分からぬ感情だ。

 けれど、不思議と嫌な気はしない。むしろ気分が高揚して、何となく愉快になる。それは得体の知れぬものではあったが、心地よい余韻が体中を包む。あるいは清涼たる爽快感とも言えた。

 変な感じ。

「そうかそうか」

 そんな私を見た姉上は豪放磊落に笑った。

 夾雑物(きょうざつぶつ)のない瞳。行儀よく机に向かう様は楚々とした佳人を彷彿とさせる。木目細かい銀髪は畳まで垂れ、妖艶な雰囲気を醸し出していた。

 鹿威しが典雅たる余情を作り出す。体中が透き通るような、そんな嫋々(じょうじょう)たる音色。匠によって剪定された榎や柏は驟雨の露に濡れ、夏季の画意を感じさせるのであった。

 これも柔婉(じゅうえん)たる夕立のなせる業か。

 私は姉上がなぜ笑ったのか図りかねていた。それを見極めたくて、玲瓏(れいろう)とした佇まいを見せる姉上を眼窩に収めようとする。

 禅僧さながらの結跏趺坐(けっかふざ)の体勢を見せる姉上。粛々と瞑目する姉上は、大悟した高僧と見間違えそうである。

「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか?」

 花簪が挿された白銀の髪の毛。微風がそよぐ。姉上は言った。「許す。申せ」

「この感情は一体何なのでしょうか?」

「それはだな……」 

 姉上は私の反応を窺いつつも、「恋と呼ばれるものだ」と言った。

 しばし沈黙した後、情けない息が漏れる。

「あ、姉上……?」

「その様子だと気付いておらぬようだな。まあ、無理もなかろう」

 清冽とした瞳は悪戯坊主のように釣り上がった。

「お前にとって初めての恋なのだろう? 若いお前にはいささか早すぎたようだ」

「……恋、で御座いますか?」

 完全に意表を突かれた私は口をパクパクさせるだけであった。

 姉上の言った言葉を理解するのに数秒を必要とする。それは異国の物語のようで意味が租借しにくかった。

「そうだ。その湧き上がる炎は紛れもなく恋なのだ。試しに先刻話した男のことを想像してみよ。こう、胸が熱くなって何をする気も起きぬだろう? 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いついかなる時もその男について思索を張り巡らせてしまう。それが――」

「恋」

「いかにも。それが恋である」

 私は押し黙った。

 そのまま時間だけが流れる。

 閑寂たる静謐。

 半人前の私では、姉上に示唆されたところで“恋”なるものは霧がかった何かでしかなかった。姉上は何を言いたいのか。恋とはいかようなものなのか。あまり読み取れなかった。

 姉上は立ち上がった。当然のことだが、私と姉上は起居を共にする仲である。よって姉上の所作は見慣れているつもりであるが、いつ見ても姉上の居住まいは映える。一挙一動が堂に入っており、心憎いほど見事である。

「まあ、余計な口出しはせぬことにしよう。ありのままに感じたことをありのままに表現すればよい。さすればおのずと答えは見えてくる。霧はやがて晴れる。止まない雨はない。そういうことなのだよ。――それとこれだけは肝に銘じておけ、我が妹。好きになった男に嘘をつくでないぞ。また男にも嘘を言わせるべきではない。嘘は内側から壊していく。それはひどく緩やかだが、気が付けば手遅れになっておることも少なくはないのだからな」

 姉上は私の前を通り過ぎ、吹きさらしの透渡殿(すきわたどの)を歩いていった。

 北側の渡殿は複廊(ふくろう)となっており、半分を廊下、半分を部屋として用いている。

「姉上」

 私は遠ざかる姉上の背中に声をかけた。不躾とは思っていたが、そう言わずにはいられなかった。私の何がそうさせるのかは分からない。けれど、訊きたいと思った。でないと収拾がつかない。詳細な解説が聞きたい。この不可解な想いを解読してもらいたかった。

 が。

「いずこに行かれるのですか?」

 私の口から出た言葉はまったく別の言葉だった。

 私の心には激しい葛藤が渦巻いていた。複雑に入り組んだ迷宮。

 不意に泣きそうになる。

 同時にこんなことも分からない自分が嫌になった。忸怩たる思いが起因する。

 私の気を知らずか、姉上は顎に手をおいて視線を宙に向けた。そして朗らかに言う。「ふむ。花魁のところだ。近ごろの花魁は弛んでおる。奴め、何かに現を抜かしておるな」と楽しそうな表情。初雪の襲色(かさねいろ)を身に纏い、床の簀子(すのこ)の上に佇む姉上。「さては男でもできたか。ふむ、ませた愚妹だな。修業の方に支障が出ねばよいのだが……」

 姉上は憂慮するように視線を斜め上にずらした。倣うように私もずらす。

 夕映えの景色。

 戯画のように美しい西日が空に浮かんでいた。悠々閑々たる情景である。

 知らず知らずのうちに感嘆の息は漏れていた。儼呼(げんこ)たる大自然に心打たれていた。

 そんな無邪気な姿を見た姉上はふっと頬を緩めた。そのまま音もなく過ぎ去っていく。

 残照によって照らされる草木。私は姉上がいなくなったのにも気付かず、ただただ雄大な宇宙に目を光らせるだけであった。


 これは私が十一歳の頃の記憶。大切な思い出の片鱗。

 そして。

 彼への淡い恋心を自覚した日でもある。




          ○○○




「……何だよこれ」

 初めに知覚したものは鈍い痛みであった。

 寝ぼけ眼を目でこすろうとするが、生憎鎖が邪魔で予想以上に手間取った。ジャラジャラと気味の悪い音が冷たい部屋に反響する。

 まるで独房のそれを思わせる室内は狭くて暗かった。

 頭上の裸電球だけが息苦しさを和らげてくれる。申し訳程度に取り付けられた天井のそれは、ひどくちっぽけなものに見えて心細かった。

 次に襲って来たものも――やはり――痛覚。

 手首足首に装着された鎖は極めて無機質である。愚鈍に黒光りする鎖は、ただの拘束具以上の圧迫感を俺に与える。それは恐怖と呼ばれる感情である。

 痛みで目覚めたのか。

「どうりで目覚めが悪いはずだ」

 と。

 独白したところで。

 空しいだけ。

 虚しいだけ。

 溜息をついてところで現状は変化しない。自明の理である。

 牢獄を彷彿とさせる小部屋には外界を認識するものがなかった。牢屋には付き物であろう鉄格子すらない。外界に繋がる唯一のものは、眼前にある扉のみである。重量感のあるコンクリートの壁に混ざるように存在する扉は、やはり壁のように無表情である。

 ここから先は通しません。

 無言の重圧が戦慄を駆り立てる。

 完全なる閉鎖空間。

 ただ空調管理はしてあるらしく、換気扇は冗談みたいにくるくる回っている。それと網掛けの通気口。

 ダクトである。

 どうやらこの部屋はとある建物の地下室であると見当づける。

 もっとも。

 それは根本的な解決になりえてないが。

 普通地下室というものは熱がたまるものである。にもかかわらず不快指数が募らないのは、あの空調の恩恵であることが窺えた。

 陰鬱たる扉の横にはベットがある。それはこの場に不釣り合いな代物であった。

 シミも汚れもないシーツ。ふかふかという形容詞はこの近状において、なんだか不可思議だった。

 よくよく見れば床も埃っぽくなかった。丁寧に掃除がなされている。奇妙なことに床も壁も天井も磨き上げられているようである。

 まるで。

 俺は激しい違和感を感じながらもこう思った。

 まるでこの時のためにあつらえたかのような――

 清潔さ。

 別の視点に切り替えてみる。

 冷静に見て俺は監禁されている。ご丁寧に手枷足枷を嵌めて、行動を制限されている状態だ。口を封じられていないことが幸いか。

 耳を澄ませてみれば潮騒が聞こえる。

 潮騒。

 この独房は海の近くにある。そういうことなのか。

 日和見村には山を越えれば日本海を望める場所がある。そこは切り立って崖で、険しい岨道(そばみち)の先にあるのだ。

 この奇怪な独房は断崖の上に立っているのだろうか。その可能性はありえる。

 日本海が見える絶壁。便益が皆無という理由も手伝い、ここ周辺には驚くほど民家が存在しない。酒屋へ三里豆腐屋へ二里と言った不便な地域なのである。よって助けを求めようにも近隣に人はいない。

 概括すれば猿轡(さるぐつわ)は不要というわけである。

 俺は青息吐息を吐いた。繋がれた両手両足を諦観交じりに一瞥し、焦心に駆られる。電球の光に反射した鎖は鈍い光沢を放っていた。

 一毫(いちごう)の隙もない孤立状態。まさにアルカトラズ。ここは脱出不可能の監獄である。

 しかし。

 普通ならば狼狽、恐怖するような状況ではあるが、なぜか俺は冷静に分析することが出来た。

「――鴇織姫、か」

 知らず知らずのうちに苦笑めいたものを浮かべていた。

 今日の詳しい日にちは分からないが、夏休みの真っ只中にいることは理解している。おそらく七月の月末であると思う。

 鴇織姫と関係を持って三カ月近くが経過した。様々なことがあった。慣れたのか。

 異常に慣れたのか。

 数え上げればきりがない。

 鴇織姫の偏執的な愛情。

 右梨祐介の狂信的な恋慕。

 名伽花魁の倒錯的な感情。

 名伽意味奈の蠱惑的な法悦。

 ことごとく何かが歪んでいた。

 誰彼構わず何かが病んでいた。

 各々独自の論理で答えや意味を模索し、探索し、捜索し、当てのない何かを探し求めていた。

 それは常人には理解されないような想いだった。所狭しと堕落していて、崩落していて、枯渇していて、歪曲していて、快楽していて――

 怖いって感情には二つの定義がある。

 一つ、自分とは決定的に違うものを見た時の恐怖。

 二つ、物理的な生命の危機に見舞われた時の恐怖。

 両方とも人を間違った方向へと狂わせるものだが、この場合は後者である。

 この部屋には時計がないので、時刻を把握する術はない。それに加えて外界を認識できないことへの猜疑。

 何よりの死活問題は、飲食の欠乏である。

 周囲を見渡せばすぐに分かることだが、この空間には食料や飲料水がない。

 餓死、という言葉が頭に浮かぶ。

 洒落にならぬ。人が最も忌諱する死に方である。自殺志願者でもこの手段を選択する物好きは存在しないだろう。それに孤独死が付随するのだから、なおのこと破綻し切っている。唾棄されることはあっても、垂涎するものは絶無である。

 気休めの溜息すら許されない。

 気遅れの周章すら許されない。

 気紛れの郷愁すら許されない。

 気落ちの落胆すら許されない。

 ましてや現実逃避などありえない。

 悪戯に死を加速させるだけ。

 俺は、凍鶴楔は、世界の縮図のような理不尽たるものに蹂躙されるのか。

 あっけなく死ぬのだろうか。紀一郎おじさんを残して夭折するしかないのだろうか。

 養子縁組こそしていないものの、俺はおじさんを実の家族だと思っている。

 家族を残して死ぬなんて、絶対嫌だ。それでは俺の二の舞だ。俺はおじさんまでも悲しませるつもりか。

 バカげているように見える、この状況。

 この状況は――

 なんなんだ?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ