第三十四話 六月十四日 続続続
「――お、き――」
向こう側から声が聞こえる。
混迷する意識。瞼が開き、光を知覚する。それは照明の明かり。
「――お、きて――」
誰かの顔が近くにある。心配そうに俺を覗きこむ顔。澄んだ青色をした瞳。癖のない天然の茶髪。顔つきは愛らしく、洗練されている。街角で百人中百人が振り向くような、傾城傾国。
「――起きて!」
脳が一つの言葉を認識した瞬間、世界が唐突に反転した。
背骨の痛みと共に、ソファーから転げ落ちる。腰を打ったらしく、骨をハンマーで叩くような苦痛に見舞われた。
慌てて少女が駆け寄る。今にも泣きそうな表情で近寄り、俺の体を掬う。そして割れ物を扱うように優しく抱き締められた。痛みを蓄えた背中に手が回される。体同士が密着して、顔と顔とが近くなる。少女の長い髪の毛が頬をくすぐった。
「――大丈夫? 大丈夫だよね?」
少女は確認するように尋ねる。やっぱり泣きそうな顔で俺を見る。「悲鳴、上げてたよ? なんかとっても痛くて辛そうな声……。嫌な夢でも見た?」
俺は頭を振った。そんなんじゃない。よく覚えてないけど、そんなんじゃない。
体は痛みを訴えていた。それはソファーから落下した際の痛み以外のものも混じっていた。鉄骨で全身を殴打されたかのような鈍い痛み。身に覚えのない不可解な傷跡。
泣きやまない子供をあやすように少女は言う。「気をしっかり持って! 大丈夫だから。私が傍にいるから」
「……んな大げさな……」
「大げさじゃない!」
少女は怒気交じりに憤慨する。「クーちゃんの身に何かあったら嫌だもん。あんなに呻いてたんだから何かあったに決まってる!」
強い力で抱きしめられて、唇を押しつけるようなキスをされて、俺は黙った。
鴇織姫の力を借りて、ゆっくりと立ち上がった。痛みが鼠のように走り回っている。
口づけに甘い酩酊感。体中が重力から解放されて、浮幽霊のように存在が定まらない。視界があやふやになりつつある。
と。
ぼんやりとだが、周りの景色が変化していることに気付く。
くらくらした頭で周りを見渡す。
それに気付いたのか、鴇織姫は悪戯っぽく笑う。「装飾したの。明日クーちゃんの誕生日だよね? ちょっと早いけど、そこら辺はご都合主義ってことで」
部屋中が絢爛豪華に飾りつけてあった。レースやリボンがふんだんにあしらわれていて、西洋のパーティー会場のようである。
なにより目を引くのは、テーブルの上にあるケーキ。チョコレートのデコレーションが使われていて、大きいハートマークが雪原を彩っていた。手作りなのか形は少し歪だったが、気になるほどではない。
そんなことよりも。
すごく。
嬉しかった。
不意に涙が出そうになって、目頭を押さえた。
俺は弱いから。孤独だから。
無条件の愛に弱い。献身的な愛に戸惑ってしまう。はたしてそれを受け取っていいのかどうか。軟弱な自分に受け取る資格があるのかどうか。いつもそれを考えてしまう。そういう思考そのものが俺の弱さなのだ。愛を疑問視してしまう。何かと理由をつけて拒絶してしまう。分け与えてくれるものを拒んでしまう。
けれど。
そんなの反則だよ。
そんな優しいことをされたら、縋ってしまう。頼ってしまう。
「……クーちゃん?」
不思議そうに鴇織姫が声をかけた。「クーちゃんどうしたの? あはっ、もしかして嬉しいんだ。誕生日を祝ってもらって嬉しいんだ。私も嬉しい。クーちゃんに喜んでもらえて私も嬉しい」
違う、なんて言えなかった。その通りだから。
俺はバカだから。
鴇織姫はうずくまる俺の背中に手を乗せた。温かい手。鴇織姫は子守唄を聞かせるように、俺の背中をさすった。
そのまま何十分もそうしてた。
○○○
ケーキを食べ終わると、一転眠気が襲ってきた。先ほどまで寝ていたのに詮方ない。
ケーキはおいしかった。甘かったし、柔らかかった。すごく、すごくおいしかった。
俺の様子に満足したのか、鴇織姫も楽しそうに皿を片付けた。習うように俺も手伝う。習慣化した行為。
奥行きのあるキッチン。その流し場。綺麗に平らげられた皿を水に浸す。それは氷水のように冷えていて、入れた手がかじかむほどだった。
リビングに戻り、定位置とかしたソファーの一角に腰を下ろす。首を捻り、時刻を確認してみれば午後八時であった。
いつの間にか時間は過ぎていく。
隣に鴇織姫が座る。そして当たり前のように重心を俺に預けた。右肩に鴇織姫の側頭部が当たり、長い髪の毛が膝に触れた。
ぬるま湯。
鴇織姫との関係はぬるま湯に似ていた。
ちょうどいい温度で体を温めてくれる。艱難も懊悩もない心地よい空気。温室で育つ植物。餌付けされた動物。すなわち約束された安息。
それは錯覚か、否か。どちらにしろ幸せな夢なのだろう。
平和的な安泰なのだろうか。
頽廃的な停滞なのだろうか。
鴇織姫との日々は。
安全であることへの愉悦。
見てくれることへの安心。
それは怠惰に繋がる一つの要因。
甘い毒林檎。
「……クーちゃん」
鴇織姫が俺の名を呼ぶ。
愛しそうに。
嬉しそうに。
楽しそうに。
俺の名を。
呼ぶ。
鴇織姫は一旦俺から離れて、ポケットに手を入れた。そして神妙な面持ちで俺を見る。壊れそうなガラス細工みたいな顔。凛々しい顔立ちが一瞬だけ、クシャリと歪んだ気がした。
「クーちゃんにね……渡したいものがあるの」
ポケットから何かを取り出す。
ポケットから現れたのは、装飾が施された箱だった。俺の反応を確かめる素振り。そして、意匠が凝らされた上面がゆっくりと開かれる。
その中は。
「……指輪」
こくりと頷く。頬は紅色に上気していて、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいだった。
指輪は一つだけではなかった。二つあった。それが何を意味するのか。脳が理解することを拒否していた。けれど、薄々とだが理解出来た。同時に全身が汗ばむ。猛烈な何かが渦状の嵐を作り上げた。
妙な沈黙が流れる。
鴇織姫はおずおずと言った。「これ、クーちゃんへの誕生日プレゼント」
指輪が照明に反射した。目をさすような銀箔の光。俺は目を細めた。
「嵌めてほしいの」鴇織姫は片方の指輪を手に取る。「クーちゃんに嵌めてほしいの」
鴇織姫の視線は俺の指に集中した。それは言外に、手を出して、と催促している風だった。
俺はそれに気付いてないふりをした。――したけれど、あっさり鴇織姫に手を握られてしまった。そのまま指輪が俺の指に嵌められる。
薬指に。
「……結婚、しよう。一年後の今日、結婚しようよ。今のクーちゃんは十七歳だよね? なら後一年で結婚式を上げられる。だから……」
口を噤んだ。
喘ぐように息を吐き出す。背筋がぞくぞくする。地中の奥深くに眠っていた欲望の情炎。容易に開放してはならないものが、鎌首をもたげる。鴇織姫の仕草は、男の情火をものすごく刺激する。罪深い。
あまりにも罪深い。
「……私に指輪を嵌めてくれませんか?」
なんていじらしいことを言うのだろう。
だんだんと思考回路が麻痺する。
俺はうなされたように渡された指輪を受け取った。俺の意思とは無関係に腕が動く。緩慢な動きで鴇織姫の指を握る。喜色満面とした表情で俺を見る鴇織姫。倒錯的な感情が湧き上がる。
「――ありがとう。これで結ばれたね。いつまでも傍にいようね。たとえどんなことがあっても、私たちはずっと一緒。死ぬまで永遠に。未来永劫、私と、一緒」
頭がうまく機能しない。麻酔を受けた後みたいに神経が呆けてしまっている。体が蒸せるように熱い。延々たる熱。五体が火照る。流行り病に冒されたようで気分が滅入る。
「好きだよ。好き好き好き! 二度と手放したくない。愛してる。もう離れないでね。私から離れないでね。いつまでも私と一緒にいてね。約束だよ?」
愛の囁き。
薬指から冷たい感触がする。見てみれば指輪が無機質に光り輝いていた。
倦怠感が濛々と湧き上がる。体中がだるい。視界が歪む。
艶やかな芳香。それは肉薄する鴇織姫が発する匂いであった。
花が蝶を呼び込むような芳醇な香り。それが痩躯たる鴇織姫から放出されていた。
双肩を掴まれる。頭には霧が立ち込めていて、気付くのに一歩遅れる。
ゆっくりと鴇織姫が顔を近付ける。豊艶たる表情。角度を変えればそれは、ひどく淫猥に見えた。
そして。
重なる。
唇が。
重なる。
水音が口腔内で聞こえた。
舌と舌が熱烈と絡む。激しく貪られる。
掴まれた肩が痛い。鴇織姫の指が肩に食い込んでいる。ものすごい力だった。
顔の斜度が変わる。鴇織姫は頭を横にずらし、のぼせるように夢中になって口づけを続けた。唇同士が十字の形になり、より多くの唾液が行ききした。
時間と言う概念が消滅するほど長い間、キスをされた。
唇がやっと離れた。酸素が一気に入ってきた。全身の力が抜けて、ソファーにもたれかかる。力がどんどん抜けていって、ああ、鴇織姫に奪われたんだなと思った。
俺は湯気の立つ表情で、鴇織姫を見た。鴇織姫も赤々とした顔で俺を見つめ返した。唇を指でなぞる。
唾液が一滴、垂れた。