第三十三話 六月十四日 続続
反応が遅れる。先ほどの奇妙な雰囲気に呑まれていた俺には、言葉を発することすら出来なかった。
「クーちゃん、だよね?」とだんだんと熱を帯びる声。「うわぁ、クーちゃんだ。すっごい偶然だね」
鴇織姫は鞄を肩にかけていた。中には何かが入っているらしく、膨張している。
視線を足元に落とし、ポケットに手を突っ込む。携帯電話が低く唸っている。再び顔を上げてみれば、鴇織姫の横で苦笑いを浮かべる梅雨利空子がいた。口ぱくで、お姉ちゃんは? と訊く。俺は視線を路地裏にやった。釣られるように梅雨利空子は路傍の方を見る。そして得心顔を作る。どうやら梅雨利空子は、先ほどの『柚子原堂』について知っているらしい。そしてそこに梅雨利東子がいることも予測できたのだろう。
携帯電話の発信者は間違いなく梅雨利空子だ。梅雨利は次に移動するところを俺に伝えようとして俺に電話したが、生憎俺はそれに気付かなかった。閑寂とした店内であるにもかかわらず、俺は恐怖のあまりバイブレーションに気付かなかったらしい。
「なんでこんなところにクーちゃんがいるの?」と不思議そうに尋ねる。
俺は曖昧な笑みを浮かべ、茶を濁した。そしてさも素知らぬ顔で、「そう言うお前は何でこんなところにいるんだよ」と鸚鵡返しをする。
鴇織姫は頬を染めて、俯いた。前髪に隠れて表情が見えない。
背景が全てモノトーンになる。
俺と鴇織姫。そして梅雨利空子だけが色を持っている。
「もしかして私、お邪魔虫だったりする?」
静寂を破ったのは梅雨利だった。
梅雨利は申し訳なさそうに、「だったら、私。どっか行くよ。後は若いものに任せようとしようかな」と言って、速やかに身を翻した。
俺はその後ろ姿に礼を述べた。遠ざかる深紅のリボンが兎の耳のように揺れる。こんな俺に言う資格なんてないと思うけれど、便宜を図ってくれた梅雨利は間違いなくいい女だと思う。
褪色した色が緩やかに戻っていく。モノクロだった風景が徐々に温かみを帯びていく。無機質に生命を吹き込まれたかのような、鮮やかな錯覚。
鴇織姫はゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
純然たるコバルトブルーの瞳。鏡のような眼球には歪曲して映る俺がいた。
「あのね」
と。
鴇織姫は。
そんなことを言う。
酩酊感。頭の中では理性や本能と言ったものが、乱雑に渦巻いていた。
鴇織姫は。
「クーちゃんに渡したいものがあるの」
と言った。
○○○
鴇織姫の家は二階建ての一軒家である。
さしたる躊躇もなく靴を脱ぎ、玄関から上がる。
これまでの付き合いで俺の危機管理能力は完全に麻痺していた。だから、鴇織姫の家に入るという行為に前よりも危険性を感じなくなっていた。それは目隠しをして崖っぷちを突っ走るような感覚に近い。つまり無謀というわけである。
時刻は午後三時を過ぎた折だった。
「ゆっくりしてて」
囁くように言う。
鴇織姫は大事そうに鞄を抱えていた。そのままキッチンに消えていく。
俺はソファーに座った。
梅雨利東子のことが脳裏を掠めた。いまだにあの妙な店にいるか、妹に回収されている頃だろう。
それよりも。
俺は台所に視線を向ける。
今日の鴇織姫はやけに静かだった。終始一貫して無言。日和見商店街からバスで帰って来てからも、ずっと口を閉ざしている。
嵐の前の静けさ、と解釈すべきだろうか。
不自然なほど神妙な顔つきだった鴇織姫。それは決意を胸に秘めているといった風で、訊けず仕舞いだった。と言うよりも訊いてはいけないような気がした。
考えるのが面倒になったので、目を閉じた。
記憶が紐解かれていく。
淡いゼピア色。それはひどく不鮮明で、水の入った水槽の底から上を覗いているような曖昧さ。それは鏡越しに見る世界。
一秒ずつ不安定だったものが定義されていく。ノイズの混じった世界が、着々と構築される。
その世界はいわば、0=1という論理が通用する世界である。
主観のみで成り立つ空間。個人の記憶と言うのは、創造と模倣の狭間に揺れるズレに過ぎない。あるいはデータの集合体。
彼女はどうやら、嫌われているようである。
それは雰囲気から容易に見て取れた。本に手をかざすだけで、その文面が頭にインプットされるかのように。それはひどく不明瞭な世界だったが、そう言った脚注、前置きのようなものがあらかじめ用意されていた。それはこの物語の前提条件でもあるし、物語の起源でもあった。
場所はとある小学校のようである。
彼女は椅子に座っていた。全身を縮こまらせ、体を震わせている。顔は悲愴に歪み、湧きあがる怒りに耐えているようだった。
誰かからの罵声。侮蔑するような痛罵。そして恐怖する顔。幼心で感じ取った不吉な何か。大勢の人間が彼女に対してそんな危機感を持っていた。
忌避する。
みんなが彼女を忌避する。忌んで避ける。
それは彼女の髪が茶髪で、目の色が明らかに日本人のそれとかけ離れていたことが、これを引き起こした要因なのかもしれない。自分や周囲と違うもの。正常と異常の対比。彼らの区分でいえば、彼女は間違いなく異常の分類に入るものだった。
神隠し。
と。
誰かが言った。
こいつの親、神隠しにあったらしいぜ。
彼女の方を指差して、とある男子生徒が言った。穢れの混じった醜い表情を浮かべ、彼女を罵倒する。
おいみんな、知ってるか?
追い打ちをかけるように、別の生徒が言った。
こいつ、お父さんが死んだからお母さんにも逃げられたんだ。
気持ち悪い子。
感情が坩堝を形成している。悪意に満ちた思いが周りを誤った方向へと導いていく。どこかで間違っていると思いながらも、それを容認する雰囲気が出来つつある。
悪が善を駆逐する。
悪が善を放逐する。
それは彼女の近状であり、世界の縮図でもあった。
彼女は無言のままだった。唇を真一文字に結び、顔を俯かせる。脆い涙腺が緩んで、今にも感情が爆発しそうになる。けれど、みんなからの仕返しが怖くて、辛くて、悲しくて、やるせなくて。
無視してほしくなかった。胸が締め付けられるようで、ただひたすら堪えるしかなかった。
自分を見てほしくて、認めてほしくて、許してほしくて、助けてほしくて、愛してほしくて。
こいつに近付くな。神隠しが移るぞ。
不吉な子だ。この子は災いを呼ぶ。
その瞬間。
許可が下りた。
幼い子供たちにとって、先生という存在はある種の神様に等しい。ともなれば、それを神からの勅令と解釈しても無理はなかった。
錦の御旗を掲げた子供たちは、一斉に罵詈雑言を口にした。それは脆弱な彼女の心を破壊した。
彼女は机に突っ伏した。身を切られる思いだった。
この場において、彼女は決定的な悪だった。そしてその周りが正義。悪が正義にフルボッコされる。
力を持たない悪は、力を持った正義に淘汰される。それは極めて不条理で陰湿で――
悪質だった。
正義なのに悪質。凶悪で害悪で最悪。
不吉な子だ。
全員口を揃えて言う。
罪は罰を伴うが、罰が罪を伴うとは限らない。彼女が悪に仕立てられた。彼女に罪はない。――ないが、罰を与えられる。身に覚えのない罰を与えられる。それがいかに無情で冷酷なものであっても。
と。
やめてよ。
それは一人の少年だった。
その……寄ってたかって女の子を苛めるのはどうかと思う。
十歳にも満たない少年は、控えめに言った。
静寂がこの場を支配した。
と。
なんだおまえ?
初めに彼女を苛め始めた少年が、掴みかかった。そのまま殴る。少年は抵抗することも出来ず、床に突っ伏した。
笑い声。
周囲はただ一人反論を述べた少年を笑った。それは嘲笑か憫笑か。どちらにしろ、少年が吊るし上げられたのは言うまでもない。
何かが砕ける音。面白いように壊れていく人体。無数の人間が少年に群がる。
彼女はゆっくりと頭を上げた。瞳孔を広げる。
床にうずくまる少年。痛々しい呻き声を出して、のたうち回っている。苦しくて痛い。少年は激痛に耐えきれず、全身を掻き毟った。それでも彼女を苛めようとする周囲を睨んだ。それは澄み切っていて、少なくとも周りの人間よりは淀んでいなかった。
湧き上がる殺意。
膨れ上がる害意。
リーダー格らしき男子生徒が、嗜虐的な笑みを浮かべた、拳を握る。その拳は垂直に振り下ろされた。
鈍い音がした。
クズのくせに出しゃばりやがって。
口出ししなきゃよかったものの。
こいつバカだぜ。
鳥コンビだもんな、この二人。
そうそう、鳥コンビ。
変な名字のくせしていきがんなよ、このバーカ。
そんな奴は死ねばいいんだよ。
弱いくせに。
弱いくせに俺たちに歯向かうからだ。
鳥のくせに。
きもいんだよ、そういうの。
少年は満身創痍だった。徒労感。頬には青いあざができ、皮膚はへこんでいた。節々が痛む。痛覚のない個所が存在しない。
それでも。
少年は周囲を睨み続ける。確固たる意志で敵意を散らす。
少年は嫌だった。弱いものが強いものに搾取されるのが嫌だった。
強いから善だとか、弱いから悪だとか。
そういう線引きがあるから、社会は歪んでいく。
間違ってるのに。間違ってるのはあいつらなのに……
少年を無理やり立ち上がらせ、腹に何発か蹴りをかます。少年は血を吐き、周囲は笑う。そして、廊下へと引っ張り出された。おそらく体育館裏だと予想できる。
遠くから甲高い声がした。
少年は大声で彼女の名を呼んだ。
大丈夫だって、そんな無責任なことも言った。安心していいから。そうも言った。
彼女は今でもそれを覚えている。深く脳裏に刻んでいる。
かすれて良く聞こえなかったけど、勇ましい声。優しい声。温かい声。
傷だらけになった背中。
それは傍から見ればとてもかっこ悪かった。
けれど。
悪ではない。
少年は。
悪ではなかった。
どんなに弱くても、カッコ悪くても、少年は悪ではなかった。自分を守ろうとしてくれた。
彼女にはそれがひどく嬉しかった。
○○○
違いがあるとすれば一つだけ。
少年はあのことを忘れていて、少女はあのことを忘れていなかった。
釈迦の掌の上で道化になることを選んだ賢明な愚者。
月を追いかける太陽になることを選んだ蒙昧な賢者。
神の鎖に縛られているのはどっちも同じ。