第三十一話 六月十四日
日和見村の噴水は極めてモダンチックである。
下から上へと水が噴き上がって、流麗に落ちる。洗礼された軌道を描き、泡の入った水が空間を彩る。
円状に作られた噴水の縁。その一角に腰を下ろし、活気付く雑踏をぼんやりと見る。頬杖の体勢を取って、行きかう人を目で追った。
軟風が吹く。
空き缶が足元に転がった。極彩色のロゴの入った缶はどこ知れず、からからと音を立てて消える。
ドロドロと渾然とした意識の中、俺はこう思った。
なぜここにいるのだろう。
現時刻は午前十一時半である。
目を閉じてみると、色々な音が聞こえた。それは人の話し声であったり、鳥の囀りでもあった。
リズムが刻まれる。克明な音。それが頭の中で螺旋を描く。
「ごめんねー、遅れちゃった」
と。
誰かのリズムが聞こえる。耳からすっと入ってくるような、怜質とした声色。
ゆっくりと目を開ける。顔を上げてみると、見知った顔がそこにあった。煌々と光る炯眼。蛾美とした眉。純白のリボンに、渥然とした黒髪。二十歳を過ぎ、大人の魅力溢れる生一本な女性。
「三十分の遅刻ですよ」と俺は梅雨利東子に向けて言った。
対する梅雨利東子は、いひひと気味の悪い笑い声を上げながら、「不可抗力よ、不可抗力」と軽妙な語り口でそんなことを言うのだ。「準備に手間取っちゃってさ」
「ベタな言い訳ですね」
「失礼ね。レディーになんて口のきき方かしら」と梅雨利東子はおどけた。「だから言ってんじゃん。不可抗力だって」
俺は非難するように、「言い訳ほど見苦しい行為はないって、俺の友人が言ってましたよ」と言った。
梅雨利東子はやはり、いひひと笑った。「そうだねー。いひひひ」
なんか。
疲れる。
俺は早くも疲労を感じていた。
いひひひ、と俄然笑い続けている梅雨利東子。それは舞を踊る妓女のような艶やかさだった。
梅雨利東子の纏っている雰囲気は、明らかに普通の女と一線を画している。
梅雨利東を将棋で例えるなら、間違いなく飛車だと思う。
ご存知かと思うが飛車は縦横無尽に盤上を動く、横紙破りな駒である。将棋において絶大な影響力を持つ駒でもあり、特に縦横無尽というところが梅雨利東子と性質と類似している。盤上を荒らすだけ荒らして、我存ぜぬ顔をするような女なのだ。
それが良いことなのか悪いことなのか。
それが悪いことなのか良いことなのか。
判別はつかない。
服装は白いシャツにジーパンと活発的なものだった。大和撫子を体現化したような容貌だが、着映えする。男女問わず通行人が梅雨利東子を目で追っているのが分かる。ある人は頬を赤らめ、ある人は唖然とした顔を作り、ある人は跪拝する寸前といった風である。
「それにしても久しぶりだねー。電話で何回か話したけど、直接会ったのは随分昔の話だよね?」
俺は首肯する。「ですね。想当昔だと思います」
「話変わるけど、君。ついに彼女が出来たみたいだねー。河清を待った甲斐ありってわけなんだ」
「梅雨利から聞いたんですか? それは誤解ですよ」
「閑話休題。これからどこに行く? とりあえずお腹が減ったからどっかに食べに行こうよ」
「ここから十分ほど歩いたら、『ヘルツ』っていう美味い飲食店があります。そこはどうですか?」
「いっておくけど私、お金持ってきてないから。全額君が負担ね」
「本来の来意から外れていますね。何のためにここに来たんですか?」
「故郷へ錦を飾るために決まってるでしょう? 君へのプレゼントなんてただのおまけだから」
「俺へのプレゼントを俺が肩代わりしないといけないんですか? 本末転倒ですよ」
「七転び八起きってことわざ知ってる? 倒されたら起き上がればいい。倒されることが分かってても、起き上がること。倒れるために起き上がることも、起き上がるために倒れることも重要。それが強者の条件なんだよ?」と梅雨利東子。「そんなことよりもその『ヘルツ』っていうところに行こうよ。私、お腹ペコペコのペコちゃん人形」
俺は溜息をついて言う。「なんかもう、滅茶苦茶だ」
なんだよ、ペコペコのペコちゃん人形って。
梅雨利東子は本当に理解しがたい。何だか話題がコロコロと転換していってる。猫のように気紛れだから、飽きたら飽きたで速やかに翻意したり、反論したり、了承したりする。その場の雰囲気で生きているような、放蕩かつ奔放な人なのだ。
俺はこの人ほど会話に苦労する相手を知らない。いるとしても梅雨利空子くらいである。
本当に梅雨利家はどういった血筋なのだろう。
「私はねー、無茶苦茶だよー。それは自覚してるー」とほほ笑む。成人とは思えない無邪気な表情。言葉遣いは相変わらず拙い。けれど心には何かが跋扈している。
奈楽に引き込まれる。
俺は身ぶるいした。
「い、行きましょうか。とりあえず」
「腹が減っては戦は出来ぬ」
梅雨利東子は意気揚々とした一歩を踏み出す。それは遠足に向かう幼稚園児のようであった。
俺にしてみれば、言葉通り戦場に向かう兵士のごとき足取りである。
梅雨利東子は誰に聞かせるもなく高吟を諳んじていた。近付いて聴いてみれば、それは我が国の国家――君が世だった。「――細石の巌となりて――」
なんで君がよ?
軒並みを連ねる商店街。楽しそうに人が笑い、賑わっている。
ちょうど噴水が吹き上がった。天上を突き抜けるようである。
俺にはそれが凶兆を告げるものに見えた。
○○○
カフェテラス『ヘルツ』は三十年の老舗である。
風鈴のついた扉。涼味のある音が小気味良く鳴った。
店内に入っていれば、客たちが一斉に振り返った。梅雨利東の外見は目立つ。突如出現した佳人にみな、釘付けといった様子。
しかし。
衆人観衆の視線など眼中にないのか、梅雨利東子は気に留める風もなく入店した。慣れているのかもしれない。梅雨利東子には余裕があった。
梅雨利東子の美貌に目を奪われたらしい店員の一人が慌てて駆け寄ってくる。訥々とした口調で、「何名様ですか?」と尋ねた。それに対して梅雨利東子は見れば分かるでしょう、といった具合に流し目をくれ、すたすたと足音を響かせた。そのまま窓際の席を陣取る。店員の誘導など完全に無視である。
俺は呆けるように佇立する店員に向かって、小さく会釈した。それに気付いた店員は憑き物が落ちたような表情で、「い、いらっしゃいませ」と挨拶を返した。
俺は申し訳なくて、「すみません」と再度頭を下げる。恐縮したように店員も抵頭した。
店員の体越しに手招きする梅雨利東子の姿を捉えた、苦笑してそのテーブルへと向かう。
俺は向かい側の席に座りながら、「東子さん」と諷諭する口調で言った。「なんでこう、一人で突っ走っちゃうんですか」と注意を促す。それが無意味なことであると薄々分かっていても。
梅雨利東子はソファーの柔らかさを確かめているようだった。しきりに、「ふかふかー」と子供のようなことを言う。俺の進言など気にも留めない。俺は思わず目の前の女性の精神年齢を疑ってしまった。
立つ瀬もなくて、俺は窓越しの景色を見る。
怒号のような踏破。
潮騒のような雑踏。
休日の昼なのだから、当たり前といえば当たり前。辺鄙な田舎町だが、休日となれば門前雀羅を張ることはあまりない。盛大かつ旺盛な活力を見せている。
遠方には峨々たる大山。四方を山岳で囲まれた日和見村は、天狗や隠れ神といった妖怪変化が住まうと口碑される地域である。
神隠しの黎明期は平安時代にまで遡る。その当時から日和見村は、悪鬼羅刹の伏魔殿と酷評されるようになった。過去に誉ある祈祷師や僧坊が祓えの儀式を執り行ったが、無為に終わる。いかに高名な僧や巫女であっても、神隠しは雨後の筍のごとく頻発した(僧はともかく巫女は、神降しや口寄せを専門とする者なので、妖怪を退治したりすることは出来ない)。その散々たる現状を本邦の凶事と懸念した朝庭は、一時期陰陽師を差遣するという案を出したが、結局のところ有言実行とはならなかった。
その原因は調伏を行った験者が全員数日後に死去したからだ。ともなれば下手に祈祷が失敗し、お抱えの陰陽師が息絶えたとなれば一大事である。それを危惧したのならば、肯けない話でもない。
一年に必ずといっていいほど行方不明者が現れる。そしてそれは脈々と受け継がれているのだ。
――結果。幾人もの失踪者を出したことで、その言い伝えは盤石なものとなってしまった。
そうした経歴もあってか、時の流れと共にこの村は“神隠しが起こる村”と呼ばれるようになった。
『ヘルツ』は空調が完璧らしく、程よい温度に保たれている。不快指数は零に近い。
「――君は何にするの? 遠慮しないで食べてね」
「奢るのは俺ですけどね」
「私はナポリタンとコーヒーね。君もそれでいい?」
会計係は俺なのに、梅雨利東子は強引に話を進める。他人など勝手知るところ。
「どうぞご自由に」と俺の口調は自然とやけなものになる。
梅雨利東子はウエイトレスを呼んだ。韋駄天を彷彿とさせる速度でウエイトレスが接近する。そして万遍の笑みで、「ご注文でしょうか?」とにこやかに問いかけた。
梅雨利東子はメニュー表を指差し、「サンドイッチを二つ分お願いします」と言った。「飲み物はオレンジジュース。二人分」
「かしこまりました」とウエイトレスは会計表をテーブルに置いた。事務的な一礼をして、厨房の方へと行ってしまう。
「ナポリタンとコーヒーじゃないんですか?」
梅雨利東子は悪びれずに言った。「気が変わっちゃった」
俺は乾いた笑い声を上げていた。
ただひたすらに面倒くさかった。手に負えなかった。
「この喫茶店いいね。良く見つけたもんだよ。設備なら『フィート』よりも断然いい」
梅雨利東子は在学中に、こことは別の喫茶店で働いたことがあるらしい。雨稜高校の近くにある、『フィート』という名の喫茶店である。俺と鴇織姫が前に入店したことのある店だ。また聞くところによれば、名伽花魁や名伽狭霧が懇意にしていた喫茶店と聞く。規模の小さいところではあるが、知る人ぞ知る名店である。事実『フィート』で煎じてコーヒーの味は他を凌駕する。常連客も多いらしく、細々とだが長く続いている喫茶店なのだ。
「けどまあ、問題は味だね。コーヒー通の私を唸らせることが出来るかな?」
「残念ですけど、頼んだのは確かコーヒーじゃなくてオレンジジュースでしたよね?」
梅雨利東子は初め、ポカンと呆気にとられた顔をした。漸次としてその表情が崩れていく。「ああ、そっか。なんで止めてくれなかったの? 私コーヒーが飲みたかったのに……」
「……直前に注文を変えたのは東子さんでしょう?」呆れてものも言えなかったが、言葉を無理やりに捻り出す。「それに、俺が止めたところでちゃんと聞いてくれましたか?」
「聞くに決まってんじゃん。……多分」
「ほらやっぱりじゃないですか」と言うと、梅雨利東子は悲しそうな顔をした。捨てられた子猫のような哀愁を誘う表情。
大の大人にそんな顔をされた俺はどうすればいいのだろう?
苦肉の策を提案する。「なら注文を変えますか? そのボタンを押せばウエイターが来ると思いますけど」
「それはいいアイデアだね。君って天才じゃん」
感心したようにそう言うと、梅雨利東子はお椀を逆様にしたようなボタンを押した。名称は知らないが、それを押せば店員がこちらのテーブルに来るはずである。
俺の予想通り、数秒でウエイターが飛んできた。不満一つない表情で、「何かご用ですか?」と笑む。
「さっき注文した客なんですけど、オレンジジュースをコーラに変えてくれませんか?」
「かしこまりました」店員は会計表を取り、訂正を加えた。「コーラをお二人分でしょうか?」
梅雨利東子は満足そうに頷く。店員さんはやはり事務的な仕草で頭を下げた後、厨房にとんぼ返りした。
「なんで」意表を突かれた俺は、当惑交じりに尋ねた。「なんでコーラなんですか?」
「気が変わっちゃった」
梅雨利東子は小首を少し傾け、流眄を俺に向けた。
俺はサンドイッチとコーラの計五百円分を奢る破目となった。