第三十話 六月十二日 続
「うーん、好き。クーちゃん好きだよぉ!」
半裸で抱き着いてきたので、避けた。鴇織姫はそのまま枕にダイブした。茶色っ気のある髪が綺麗な放物線を描く。
褥に昼の日差しが差しこんだ。鴨居を装飾する欄間に光が透けて、庇に流れ込む。障子越しだがそれがよく感じられた。
体が気だるい。俺はのそのそと上体を起こした。乱雑に脱ぎ散らかしてある服を回収する。
それを見た鴇織姫は過敏に反応した。「ひゃぁん! もう逃げないでよぉ! もっと愛し合おうよぉ!」
「……もう十分だ」と一蹴する。俺は服を着ようとシャツを手元に手繰る。それを鴇織姫に妨害される。刀のように研ぎ澄まされた瞳が俺を射竦める。そして俺の腕に手を這わせた。呼応するように体もするすると近付き、再び押し倒される結果となった。
「私、キスしたい。クーちゃんの口を吸いたい。ねェ、唾液交換しよう?」
「さっ、散々……した、だろ」
「まだ足りないよ。まだ飽き足らないよ。……そうだ。もっと変態チックなことしよう? 私今からクーちゃんの耳の中、舐めるね」
「中耳炎になるからダメだ」と一喝を入れて、鴇織姫から離れる。
時計を見ればもう一時を過ぎたころだった。うろ覚えでよく覚えてないが、起床時間は午前七時だった気がする。ということは、あれから六時間以上経っている計算になる。あまりの情けなさに溜息すら出ない。出るのはガスボンベのような空気の塊だけである。
寝室には濃密な何かが氾濫していた。時折、獣じみた呻き声が聞こえるだけである。
それは鴇織姫の恍惚の声であった。俺が着脱した服に顔を押し付け、付着した体臭をかいでいた。居た堪れないので、強制没収に踏み込む。
「ねぇ、クーちゃん?」
「……なんだよ?」
「服、着せてあげよっか?」
「……別にいい」
「私が脱がせたんだから、私が着せるのが道理でしょ? 大丈夫。へそに舌入れたり、額舐めたり、髪噛んだり、胸押し付けたり、鼻を唾液まみれにしたり、汗飲んだりしないから」
と。
信用ならないことを言う。
けれど目は本気である。
その様子があまりにも実直であるから抵抗する気も失せた。「分かった。お願いする」
「よろしい」
何がよろしいだ。
鴇織姫は俺に服を着せた。下着を着つけシャツを着せ、あっという間に普段通りの着装になる。言質通りふしだらな動きはなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
鴇織姫は邪気のない笑みを浮かべた。ただ一糸纏わぬ姿であるから、目のやり場に困る。それを知ってか、鴇織姫は淫猥に笑う。「このいけず。いまさら恥ずかしがらなくてもいいじゃん。私の中にたくさん出したくせに」
鴇織姫の言う通り、それ以上のやり取りがあったことは事実である。「ま、まあそうだけど。――そうだけど、その――」
鴇織姫は猫のように上体をのけ反らせた。そのまま膝に頭を載せる。俺が鴇織姫に膝枕するような形である。
鴇織姫は幸せそうな表情をしながら、「次は私に服を着せてよね?」とさも当たり前のことのように言った。
「……え?」
「え、じゃないの。当然じゃん。……もしかして、自分だけしてもらおうっていう腹積もりだったの?」
そういうわけではない。そういうわけではないが――
これが真の狙いか?
俺は視線を下げて、鴇織姫の全容を眼窩に収めた。薄い桃色に染まった肌。瑠璃色の瞳に不純物は混じってはいなかった。運河を中に入れたような果てのない広がり。
俺は。
「まあ、一理――ある、の、か?」
「勿論だよ。あるに決まってんじゃん。ほら顎上げて。それじゃぁキスできないじゃん」
俺は――
「……ぅふ。ふっ、服着せる前に……もう、一回だけ」
やはり鴇織姫に飼いならされていた。
○○○
紀一郎おじさんは仕事で不在だった。だから鴇織姫もあんな無茶なことをしたのだろう。
二人きりだった。
俺と。
鴇織姫と。
時刻は先刻から三十分過ぎた一時半である。
鴇織姫は鼻歌を歌いながら、野菜を炒めていた。どうやらご機嫌はいいらしい。
俺はというと、欠伸をしながらテレビを見ていた。
本来この時間帯は学業に励む時間である。少なからずの罪悪感はあるが、名伽意味奈と顔を合わせなくていいという安堵感もあった。どういう顔で挨拶すればいいのか分からない。一寸逃れであるが、一時的な安息が俺を包み込んだ。
と。
電話の音がした。
電話は玄関の方向にある。「出るぞ?」と鴇織姫に言う。
鴇織姫は調理で手が離せないようである。フライパンを手首で動かしながら、「ごめん、お願いするね」と忙しそうに言った。
「分かった」
俺はソファーから立ち上がり、玄関の方へと向かう。その際、こんな時間に誰だろう、と思ったがとりあえず鳴り響く受話器を手に取る。「もしもし?」
『もしもーし。凍鶴楔君ですかー?』
「……梅雨利か。こんな時間に何の用だよ?」
『なにその言い草? 学校にも来ていない君が言える科白かなあ?』
俺は愛想笑いでごまかした。「悪い、冗談だ。――冗談だがどうしたんだよ? いきなり電話なんかしてさ」と言い、逓増する疑問を梅雨利にぶつける。「それも携帯電話じゃなくて家の黒電話だし」
『あーあ、全然分かってないなあ、君は。君の携帯に電話したら怪しまれるでしょ? 君の恋人にさ』と語弊甚だしい文句を口にする。『家の電話なら君のおじさん宛だと思うじゃん?』
「なるほどな」
『そうだよ。――でさ、なんで私が電話をかけたのかってことだけど――君。織姫とセックスしたでしょ?』
俺は受話器片手にアホみたいに呆けた。「なっ、なんでそれを――」
『……もしかして図星? いやあ、私の勘もなかなかのもんだね。そうかそうか。君もついに童貞卒業か』
「い、いや待て。なぜそうだと推理できる? 判断材料なんてないはずだろ。――まさか。まさか――観察でか? 日頃の俺と鴇織姫を観察したから類推出来たのか?」
『ご明察。単純な推量だよ。まず頑健な君が風邪をこじらせる可能性はほぼ零。昨日見た限りでも元気そうだったしね。とても風邪を引く一歩手前だとは思えない。次いで君と織姫がいっぺんに休むなんていかにもわけありって感じじゃん? 事件性ありあり。そしてここからが核心。同棲中の恋人――それも筋金入りのバカップルがすることといえば、やっぱり褥を交わすことしかない。昨夜したばっかりで疲れがたまっているのか、それとも今朝したばっかりなのか。まあ、どっちでもいいけど、とりあえずしたことに変わりはないんだろうね。そしてそれを補強する材料が一つ。凍鶴君。昨日、なっちゃんに告白されたでしょう?』
「……エスパーか。お前はエスパーか」
『私はエスパーでも超能力者でもない。ただの観察者だよ』
「……際ですか」
『思ってもない異性からの告白。それで自暴自棄になっちゃったんじゃない?』
図星である。
俺は何も言えなかった。
『織姫に嗅ぎつけられると面倒だから手短に言うね。けどまあ、久しぶりのセックスらしいから気は緩んでると思うけど――油断は禁物かな。それで私の要件だけど――今日ね、なっちゃんが学校休んじゃった。原因は間違いなく君だね。相当落ち込んでるよ、なっちゃん。あの様子だと芳しい答えは貰ってないみたいだね。君のことだから直前に逃げたんじゃない? この恥さらし男! 乙女の純情を踏みにじってさあ、なっちゃんの気持ちも慮ってあげてよ。……なっちゃんから聞いたかな、プレゼントのこと? あの時は驚いたなあ。いきなり頭下げられて、買い物に付き合ってくれ――なんて言われたから焦っちゃったなあ。それで大体の事情――ようは君にプレゼントを贈りたいのだけど、何を買えばいいのか分からない。そんなこと言われたから放課後、商店街に直行だったよ。そんでもってブティックに行ったり、メイク道具を買ったりして。日頃のなっちゃんに足りていないものをたくさん買ったんだよ。勿論そのネックレスもなっちゃんが悩みに悩みぬいて買ったやつだから、大切にしなよ。しなかったら君殺すから。いやあ、にしてもすごかったなあ。なっちゃんの化粧姿。さすがに元の顔が超美形だから言うまでもないよ。多分三十人くらいにナンパされたんじゃないのかな、私たち? 美しきは罪だね。……それを振り回す君はもっと罪深いけど。というわけだから、なっちゃんのことも大事にしてやってね』
そこで電話が切れた。
エコーのかかった梅雨利の声が脳に反響する。
俺は棒立ちになって受話器を握っていた。
「クーちゃん、お昼ご飯出来たよー!」
○○○
「ねえ、クーちゃんの携帯。ちょっと見せてもらってもいい?」
そう声をかけられたのは、遅い昼餉を食べ終わった折のことであった。
俺と鴇織姫は並んでテレビを見ている。ソファーにもたれかかり悠々自適な時間を過ごしていた。
俺の携帯電話はテーブルの上で所在なさげだった。適当においたらこうなった、と言わんばかりである。
鴇織姫は俺の反応を待つことなく、鼬のようなスピードで携帯電話を掴みとった。そのままパタン、と小気味よい音がする。携帯電話は主の許可なく白日にさらされた。
「――何をするつもりだ?」
嫌な予感がする。それは風船のように膨張し、拡大し、飽和した。
「なにって、消すために決まってんじゃん」
「……何をだよ?」
鴇織姫はこれといった感慨もなく言った。「メールアドレスだよ。私以外の女の」
緩やかな破滅。
それはすぐ背後に迫っていた。けれどそれを認識するころには全てが終わっていて、何かが始まっている。
「決まってんじゃん。私以外の女なんていらないよね? だって連絡取る必要ないもん。クーちゃんには私さえいれば十分だもん。こんなの邪魔なだけだよ。容量の無駄。無駄なのぉ!」
鴇織姫は何らかの動作をした。よく分からない。
鴇織姫は何をやっている?
「ごめんね空子。けど仕方ないの。いくら友達でも私以外の女がクーちゃんと話してると――殺したくなるの。解体したくなるの。だから。だから――私の恋人に近付かないでよぉ! 純粋なクーちゃんをたぶらかすだけの色情魔。そんなクズみたいな女はさっさと消えればいいのぉ! クーちゃんはあんたらを必要になんかしてないの。クーちゃんに愛されていいのは私だけなのぉ! 誰にも渡さない。誰にも――渡さないんだからぁ! そんなクズにクーちゃんはあげない! みんな消えればいいんだ。みんな――死ねばいいのよぉ!」
狂乱。
今の鴇織姫を一言で表すなら、その言葉がぴったりとくる。
ひどく寒い。背中一杯にナイフが刺さっているような痛み。
なんなんだよ。
緩やかな破滅へと突き進んでいく。
意識が混迷する。頭が考えることを放棄している。
これ以上鴇織姫を理解しようとするな。
誰かが。
そう。
囁く。
鴇織姫は怨嗟の籠った瞳で画面を見た。息が荒い。動作一つ一つが猛獣のようである。
「はい、終わったよ。全部消しておいたから」
と。
一転。
鴇織姫は。
愛らしい笑みを浮かべた。
いつも通りの笑み。俺に向けてくれる普通の笑みである。
茫然自失の状態で携帯電話を受け取る。それは嵐が過ぎ去るのを待つのに似ていた。
「クーちゃんってもてるんだね。女のメールアドレスが結構あったよ。けど大丈夫。これでもう迷わないね。私だけを見てくれるね」
震えた手で携帯電話を開ける。人工的なディスプレイ。ボックスを見てみれば確かに、鴇織姫と紀一郎おじさんくらいのメールアドレスしかない。梅雨利空子はおろか、名伽意味奈や梅雨利東子、はてには今は亡き名伽花魁のものまで消滅している。
「……おっ、おい。な、なんで――?」
「なんで? なんでって何がなんでなの? 私は当然のことをしたまでだよ。恋人としてのね。だって浮気されたら嫌だし。当然じゃん」
通用しない。
俺の論理は。
通用しない。
鴇織姫は。
倒錯者だ。
俺ががたがたと震えていると、不意に鴇織姫は合点したような表情を作った。
気付いたのか?
自分のした行為がいかに異常であったかを。
強すぎる独占欲。その異質性を今にきて理解したのか。
それは一縷の望みである。俺に残された最後の希望。
しかし。
やはりそれは――
淡い希望のまま。
「ん? ああ、私? 私の携帯が気になるの? そこは心配には及ばないよ。私もクーちゃん以外のメールアドレス。全部消したから。もう他の人間なんて興味ないし、どうでもいい。これでお邪魔虫は消えたよ。この世界でクーちゃんと繋がってるのは私だけ。私と繋がってるのはクーちゃんだけ。これで二人の愛は永遠。ずっとずっと一緒だよ? 死ぬまで愛し合おうね」
と。
鴇織姫は。
背筋が凍るくらい綺麗に。
笑った。