第二十九話 六月十二日
朝は全くもって沈鬱だった。
体中に円錐をぶら下げている感覚。寝ぼけ眼は日の光を捉えてはいない。
脳髄を引っ掻き回されたようである。思考が波に揺られている。縹渺たる海に漂流する意識。ここまま氷塊にぶつかって沈没しそうだった。
「おはよう、クーちゃん」
と。
胡乱な眠気を覚ます声。
昧爽に朝日が昇るような感触がする。それはつまり、俺の朝は鴇織姫の挨拶から始まるということを示唆している。
凍鶴楔は毎朝恋人の鴇織姫に起こされる。
それが我が家の通例だった。
「ああ」
蒲団から起き上がる。枕元には鴇織姫が万遍の笑みを浮かべていた。服装はやはり制服姿で、鞄は部屋の隅に置かれている。その奥には天の家具山を模した襖が見えた。
下肢は蒲団に掛けられたままである。俺は額に手を置いて、念じるように瞑目する。無性に気分が悪い。そして右手に温かい感触。横目で見れば、鴇織姫が心配そうに俺の右手を握っていた。悲しそうに俺を見る。きっと俺の体調を憂慮しているのだろう。
不意に堪らなく愛おしくなる。健気な姿。真摯な目。
表裏をなす圧迫感。それがどうしようもなく辛くて、苦しくて。押し潰されそうになって。
ゆっくりと体が移動する。鴇織姫の方へと移動する。それはまるで予定調和のようで、そのまま鴇織姫に体を預けてしまう。
肩と肩が触れ合う。俺は再度目を瞑って、鴇織姫の胸の鼓動に耳をすませた。
「今何時?」と鴇織姫に尋ねる。時計を見るのも億劫で、その作業を鴇織姫に委託してしまう。
鴇織姫は俺の右手から手を離し、左肩に手を回した。その後首に引っかけるようにして、俺の髪を撫でた。「七時」
「ありがとう」
俺は立ち上がった。酒を煽ったわけでもなしに、やけに酔眼朦朧としている。俺は体重移動に失敗してよろけた。それが決められたシナリオのように鴇織姫が支えに入る。阿吽の呼吸とはまさにこのことである。
「もうしっかりしてよ」と俺の腰に手を回した鴇織姫は、咎めるように言った。けれどそれはひどく楽しげで、耳元に口を近付ける。耳に甘いと息が吹きこまれた。
抵抗する気力もなくて、されるがままになる。必要最低限の力だけで佇立し、残りは鴇織姫がカバーする。その後常軌を逸脱するほどの脱力感に囚われて、完全に鴇織姫に体を預けてしまう。
そして。
普段の俺からは想像しずらい“抱擁”という行為を鴇織姫に取ってしまった。折れてしまいそうな柳腰に手を回し、ゆっくりと重心を傾ける。
鴇織姫は一瞬驚いたようだが、振り払うことなく抱きしめ返した。俺の肩に顎を置き、頬と頬をくっつける。
三十秒が経過した。
誰でもよかった。
支えが欲しい。
名伽意味奈の件は俺に衝撃を与えていた。
所詮男という人種は概して情けない生き物である。異性から愛を告げられれば当然胸は踊るし、嬉しくもなる。現にあの時を回想するだけで図らずも高揚する自分がいる。
名伽から貰ったペンダントは俺の机の中に収納してある。もしあれが鴇織姫にばれたら、非常にまずい事態に陥るのは言わずもがなである。
その気になれば天井裏や物置に隠すことも不可能ではないが、それでは名伽の想いを穢すようで嫌だった。せめて名伽の想いだけでも肯定したいと思ったから。その譲歩の結果が俺の机の中だった。いつばれるか分からない。それだけが不安である。
鴇織姫の熱。それを感じながらある思いが起因する。
妙な孤独感。
それは自分以外の人間が異常であることの疎外感、とも言えるし、同族嫌悪故という解釈も可能だ。
自分が異常なのか世界が異常なのか。
自分が正常なのか世界が正常なのか。
異常と正常の境界線は決壊している。ならば自分で線引きするしかない。
とはいえ。
決して埋められない大穴。それを埋めるために俺は、倒錯的にも鴇織姫に癒しを求めていた。求めてしまった。
やがて鴇織姫は、赤子をあやすように囁いた。「どうしたの? 何か嫌なことでもあったの? 全然元気がないよ。けど安心して。私がいるから。私がいるから大丈夫だよ。たとえ世界中の人が敵になっても私だけは最後までクーちゃんの味方だよ。クーちゃんの孤独は私が埋めてあげるから。何でもしてあげるから。クーちゃんのためなら何でも――」
拒まない。
鴇織姫は。
凍鶴楔を拒まない。
それはひどく歪んでいるように思えた。
説明することも講釈することも出来ない何か。言葉に出来ない何かが跳梁している。
気が付けば俺は二つの真理に到達しようとしていた。
一つ目は、鴇織姫という存在が俺の中で思いのほか大きいこと。
鴇織姫はいかなる理由があろうとも俺を裏切らない。無償の愛を提供してくれる。俺は男である以前に一人の人間だから、自分を好いてくれる人を嫌いになれるはずなくて、それをどこかで心の拠り所にしていて、いつの間にか鴇織姫に傾倒していて、どうしようもなくて――
次いで、俺という人間はすごく弱いということ。
いくら相手が性格破綻者で異質な人間であっても、愛してくれれば頼ってしまう。主観性が希薄なのだと思う。また純粋に、鴇織姫の容姿は魅力的過ぎる。梅雨利空子がいうように俺は単純野郎だから、甘い罠にすぐ引っ掛かる。知らず知らずのうちにどっぷりと嵌る。
「……ごめん。俺、弱いから。何にも出来ない愚か者だから。弱くて、脆くて、幼くて、どうしようもない弱虫で。一人でいることに耐えきれない人間なんだ。弱くてごめんな。鴇にまで迷惑かけちまって。本当にごめん。いや、俺が何を言ったところで何かが変わるわけでもないんだ。むしろ邪魔だよな? 仕方ないんだ。俺はこう言う不完全な人間だったんだ。生まれながらにして何かが欠陥していたんだ。――だから。だから、こんな俺に謝る資格なんてなくて、周りを困らせてばっかりで――ずっと俺は誤ってばかりだったんだ。間違いを間違いと正さず、ただ惰性だけで生きてきた。ずるずると日常の延長線上で生きてきただけだったんだ。周囲が俺を気にかけてくれるのが当たり前って、そう錯覚してたんだ。そんなわけないのに、それはただの幻想なのに――見て見ぬふりをしていた。未来がそこにあるっていうのに――目を逸らしてた。けどそこには確かに未来が合って、けれど怖くて、どうすることも出来なくて、ただ受け入れるだけだった。確認も吟味することもせず、幻を噛み締めながら今日という日を生きていた。それはひどく歪なものだったんだ。どんなに狂ってて終わっていても、これが現実。夢みたいな日々なんていつまでも続かない。続くわけがないんだ。そんなの分かり切っていた。分かっていたのに。分かっていたのに――逃げた。でもやっぱり未来はやってくるから。それが残酷な未来なのかもしれないから。俺は弱いから環境の変化に耐えきれないんだ。脆弱で劣悪で、適応能力を持たない生物。そういう生物はな。――滅ぶんだよ。当然だろ? 自明の理だ。そんなの始めから先刻承知だったんだよ。けど俺には予感がある。こんな無味乾燥した日常が壊れる予感が。日常なんて言うのは円周率で言う3,14の《0,14》の部分なんだよ。本命の《3,0》こそが非日常で、日常は非日常に突入するまでの休戦期間に過ぎないんだよ。算数でよくあるだろ? 《0,14》はな、切り捨てられるんだよ。切り捨てられて、ただ《3,0》の部分だけが残る。非日常だけが残る。観察したところで、傍観したところで、破戒したところで――それがいったい何になる? 正常なんてものは異常に内包されるだけで、異常の方が正常よりも高位に位置する上位概念なんだよ。真実も所詮虚構に包含される。俺はただ毎日を取り繕っているだけなんだよ。本当にごめんな。俺、弱いんだ」
それは答えのない懺悔である。あるはずのない答えを求めるような不毛な行為。
それでも止めることなんて出来なくて――ひたすら俺は愚かだった。
鴇織姫は何も言わなかった。ただ抱き締められた腕の強さは感じられて、体はほぼ密着状態であると思う。
「俺は救いようのないバカなんだよ。救えるわけないんだよ。名伽花魁はつくづく無責任だ。俺に何が出来るって言うんだ? 檻に囚われた俺に何が出来る? 俺の周りに檻があるのか、俺自身が檻なのか、俺ではなくみんなの方が檻に囲まれているのか――それすらも分からないんだ。俺は身勝手なんだ。交わるわけがないんだよ。俺たちは平行線なんだ。いくら近くにいようとも永遠に交わらない。全て俺の弱さゆえだ。停滞を好む俺に変革は起こせない。ただそれだけの話なんだよ。俺だってとっくに神の十字架に縛られてるんだよ。誰かの想いに応えることも出来ず、無意味に人生を消化していく。起伏のない道。俺は何かを履き違えていたんだ。俺もまた何かを狂わせている。それを今更になって自覚したに過ぎないんだよ。スタート地点で破綻してたんだ。俺は。俺は――」
「大丈夫だから」
鴇織姫は。
にっこりと笑った。
「大丈夫だよ。弱いことは罪じゃないよ。別に弱くたっていいじゃん。クーちゃんには私がいるよ? 私がクーちゃんを支えるから。倒れそうになったらこうやって支えるし、悩みがあったら一緒に悩むよ。クーちゃんが嬉しいって思ったら私嬉しいし、悲しいって思ったら私も悲しい。私がクーちゃんの全てを受け止めるから。その弱さも全部――だよ? だって私も弱いから。けどクーちゃんがいるから生きていられる。クーちゃんが私の傍にいてくれるから呼吸していられる。だってクーちゃんが好きで好きで堪らないから。死ぬほど愛してるから。クーちゃんが欲しくて、ずっと傍にいてほしいから。それにそれは、自分の弱いところを見つめてるってことでしょう? クーちゃん偉いね。目なんて逸らしてないじゃん。ちゃんと自分を理解してる。それって強い人しか出来ないことだから。だからクーちゃんは自分で思っているほど弱くないよ。むしろ強い。しっかり生きてる。けどそれでも、もし助けが必要かなって思ったらいつでも私に頼っていいからね? 遠慮なんていらないよ。私はクーちゃんのためだけに生きるって決めたから。――それでねクーちゃん」
鴇織姫はそこで言葉を切った。そして、顔を向き合わせる。
「気晴らしにセックスでもしない? 今日学校休んで、一日中セックスしようよ。お互い壊れるまで愛し合おう」
鴇織姫の唐突の提案に失語してしまう。それは高校生にとってタブー視されるものである。それなのに。
それなのに鴇織姫は――
「クーちゃんの気のすむまで私の体、使っていいから。それでクーちゃんが満足するならそれでいいから。だから。――ね?」
背中に柔らかい感触。それは慣れ親しんだ掛け蒲団の感触であった。
鴇織姫に押し倒されたと気付く頃には、全てが終わっていた。