第二十八話 六月十一日
名伽意味奈から「音楽室に来い」といったメールが来たのは、水曜日のとある日のことである。
音楽室の古い扉を開けると、まず壁に掛けてある肖像と目が合った。額縁には埃が溜まっていて、古色蒼然とした様相を呈している。
黒ずんだピアノ。煤けた机が配列を組んでいる。
視線を横にスライドさせる。
そこには昼の日差しを受けた名伽意味奈が窓にもたれかかっていた。憂うように下唇を曲げ、虚空に一瞥をくれる。窓は開かれており、腰まである銀髪はパタパタと翩翻した。
「いきなり呼び出しておいて何の用だよ?」
ゆっくりと名伽に歩み寄る。音はない。ただ足を擦る音だけが聞こえる。
俺の歩行中、名伽はずっと無言だった。伏し目がちに頭を下げ、俺の足取りを目だけで追う。長い前髪で表情が読み取れない。ただその隙間から火照った頬が少しだけ見えた。
机の上に座る。名伽は身長が高いので、目の位置はさほど変わらなかった。名伽の体越しに渺々と漂う片雲が見える。視線を落とせば、便益の悪い鄙びた村の全容が窺えた。
「……名伽?」
一向に返事が返ってこないので、そう問いかける。
名伽は黙考しているようであった。
妙な沈黙が霜のように降りる。ひらひらと斑模様の入った蝶が窓から入ってきた。その羽音が聞こえるほどの静寂である。
それもそのはずで、爾来この時間は四時間目の授業の時間帯である。幸い音楽の授業はないようで、こうして闖入することが可能なのだ。
蠕動する翅の音と、時計の針が動く音。以前として静寂は保たれたままである。
初めて体験する雰囲気に混乱する。その空気に耐えきれなくなって、「具合でも悪いのか?」と場違いことを訊いてしまう。
緩慢な仕草で顔を上げる。そこには水銀を流し込んだような瞳があった。儚げに揺れているようでいて、射竦めるような妖しい双眸。あまりの妖艶さに、ぞっと背中が凍てるのを感じる。それはなぜか、禁忌に手を伸ばす背徳感にも似ていた。
「……凍鶴」
囁くように名伽は俺を名を口にした。よくよく見れば唇に淡くルージュを引いているのが分かる。普段名伽は化粧というものをしない。口紅やカーラー、テコといったものは家に一切ないそうだ。必要ないからである。
元より名伽の顔は整っており、そういった装飾品の類は無用だからだ。
とはいえ。
錦上に花を敷くとはまさにこのことである。
日が降り注いでいて見えずらいが、頬にもファンデーションらしきものが薄く塗られている。肌も金襴の織物を纏ったかのような白妙である。眉毛もあつらえたかのごとく美麗だった。
いつもとは違う容貌。俺は餌を待つ金魚のように口をだらしなく開けた。
「そんなに驚くことはないだろう」
と。
名伽意味奈は。
悪戯っぽく笑った。
口元に手を添えて、艶やかに笑う。所作の一つ一つが雅やかである。
俄然驚きを隠しきれずに目をぱちぱちと動かす。その後、自らの失態に気付き慌てて、「い、いや――悪い。名伽がその――」と取り繕うように言った。けれど後に続く言葉は薄い呼吸音だけであった。
「その――なんなのだ?」
「なんだと思う?」と逆に訊き返す。一時的な話題転換である。
すると名伽は困ったような表情を作った。唇をすぼめ、上目遣いに俺を見る。「君の口から聞きたい。ダメか?」
甘えるような声。ざわざわと心に揺さぶりをかける。
――俺に何を言わせたい?
「いやな。その……どうしたんだ? いきなり化粧なんかしてさ」
「……変か?」
「へへ、変じゃないさ。良く似合ってる」俺は朴訥と言った。体を動かしていないのに心拍数が上昇している。俺は知らず知らずのうちに胸部を押さえていた。
「……本当なのか? 嬉しい」と名伽は嬉々とした笑顔を見せる。ちょうど無邪気な子供のようであり、可憐さと儚さを内在させた笑みだった。
組んでいた腕は胸を強調させるものに見えた。何かを期待するような目。
なんだか気が狂う。
俺はそれを紛らわすように、「遅刻なんて珍しいな」とその場しのぎの話題を口に出す。
「ああ、それか。慣れない化粧に手間取ってな。気が付いたら授業時間だったのだ」
「ホームルームが始まってもいなかったから、体を壊したかと思って心配したんだ。名伽今まで皆勤賞だったしな」
名伽は快活明朗に言う。「いらざる斟酌。この通り私は元気だ」
名伽は近年まれにみる気真面目である。よって遅刻などという醜態をさらすことは、天地がひっくり返ってもありえない。あったとしてもそれ相応の理由があるはずである。いまだに信じられない。
それに。
失礼かもしれないが、たかが化粧にこれほど時間がかかるものなのだろうか。男の俺には女の身支度の所要時間など分からない。けれど、いってみても今は四時間目。正午を切った時刻である。
その旨について質問してみる。すると名伽は、実に予想だにしない答えを提示した。
「……興奮して眠れなかった?」
「いかにも。恥ずかしながら私は楽しみにしていたのだ」
「なにを?」
「君の反応だよ。それ以外に何があるのだ?」
「…………」
口を噤み名伽の形貌を眼窩に収める。光彩陸離と綾なされた肢体。宇宙を内包した瞳には、淀みや濁りはない。
名伽は何を言いたい?
俺をからかって楽しんでいるんだろうか。
多分、否だ。
名伽はそんな性悪ではないし、俺と違って心根はねじ曲がってはいない。
ではなぜ?
「君が私を見てどういう反応をするのか真に楽しみだったのだ。着飾った私を見てどのような表情をするのか。高揚して眠れなかったのだよ」
「……それが遅刻の原因か?」
名伽にしてみれば滑稽とも言える真因である。語尾も呆れてしまって笑い混じりのものになってしまった。
「左様。遅刻をするのは小学校の遠足以来だ」と夾雑物のない嫣然を浮かべる。
「家族が起こしてくれなかったのか?」
「遅刻気味ならば母上が起こしに来てくれるのだが、今朝は客人がいてな」
「……ああ、東子さんか。そういえば今日から帰郷するんだっけ」と言って梅雨利の話を思い出す。同時に、本当にあの人がこの村に来るのかと、気を揉んでしまう。
名伽は一瞬不思議そうな顔をしたが、暫時して得心顔を作る。「なるほど。君にも話が通っているのか」と確認の意を取った。
「まあな。昨日梅雨利に聞いたんだ」
「……なるほど。相変わらず梅雨利と仲が良いな」
俺は頭を振った。「そんなんじゃないさ。付き合いが長いだけだよ」と苦笑交じりに言う。
「私にはそう見えるが」
「気のせいだ」
誤魔化すように名伽に笑いかけた。つられて名伽も笑う。
晴嵐だろうか。名伽のいる窓辺から強風が吹いた。田舎村特有の深山颪である。
吹き荒れる強い颶風が過ぎ去れば一転、凪のようにぴたりと風は止んだ。気が付けば斑模様の蝶々はどこかに消えていた。
「もう子供じゃないんだから」と一笑に付す。「遅刻なんてらしくないぜ」
名伽は何も言わなかった。
名伽は窓の縁に手をかけ、そのまま背中を反らせた。ちょうど解放された窓から半身が出る状態である。柳のように体を曲げて、流し目を俺に向ける。何かを誘っているような表情である。
何を?
やはり風が吹いてきた。芬分たる緑風である。それが名伽の色香と混じって、芳醇な香りを俺に届ける。それは決して香水のような作り物めいた芳香ではなく、透き通る清い香りであった。透明感のある涼風である。
足を組む名伽。華奢で健康的な五体。起伏に富んでいて、対峙するだけで息が止まりそうになる。
「で、どうなのだ? 君から見た私は」
「……さっき答えただろ。似合ってるって」
「……たったそれだけか? 寸感にもほどがある」と怒ったような声を出した。「もっとこう、君の主観的な感想が欲しいのだよ」と体を前傾させる。その拍子に顔と顔とが近付いて、距離幾許もない。目の前には巧緻な彫像があった。
思わず言葉に行き詰ってしまう。口を針で縫われたかのごとく動かなかった。
ただ。
清冽たる名伽を表現する形容などいくらでもある。
コンマ一秒の沈思の末、俺は訥々とした口調で言った。「ものすごくその――綺麗――か? そうだな。多分クラスの連中が見たら、“綺麗”だとか“かわいい”だとか言われると思う。男子全員が名伽に食いつくな、絶対」と自信たっぷりに答える。事実その通りだと思う。
しかし俺の予想に反して、名伽は複雑そうな顔を作った。むしろ悲しみに身を沈めているような表情である。
変なことでも言ったのだろうか?
「……それは君の感想ではない」
「は?」
「それは君の感想ではない!」
名伽は激昂した。怒髪天を衝く勢いである。
対する俺は、名伽がどの個所で激情したのかを図りかねていた。というより、名伽がなぜ怒るのか理解できなかった。
「どうして君はいつもそうなのだ? 鈍い。鈍すぎる! これでは買い物に付き合ってくれた梅雨利に立つ瀬がないだろうに! 私が求めているのは第三者による意見ではない。君がどう思っているのかが知りたいのだ。君以外の人間の見解など考慮する価値もない。どうでもいい。私は君だけに見てもらいたいのだ! その他の有象無象などどうでもいい。君は私だけを見ておればよいのだ! 君の本心からの声が聞きたい。君が私をどういう風に見ているのか。私を異性としてどう思っているのか。私の関心事はその二点のみだ!」
銀髪を振り回し、大立ち回りを演じる。目に涙すら溜めて恨めしそうに俺を見た。
あまりの気迫に思わず体が退いてしまう。予想だにしない現状にただ戸惑いばかり。
「なぜ退く? なぜ下がる? なぜ遠のく? なぜ逃げる? ……やめろ。――やめろぉ! 私から一歩たりとも離れるな! ずっと私の傍にいろ! 退くな下がるな遠のくな逃げるな私から離れるな! これ以上の我慢は身が持たぬ。君がいけないのだ。そんな付かず離れずの態度にどれだけ苦悩したことか! 君が私に優しくしてくれるから、君が私を気にかけてくれるから、君が私を理解してくれるから! そんなことをされたら――勘違いしてしまう。私の体が錯覚してしまう。だから柄にもなく化粧などという無価値なものに手を出したのだ。それで私の見る目が変わるのなら。――その一点! その一点のみで梅雨利に頭を下げ、無理やり承諾してもらったのだ! 幸い梅雨利は博識だからな。色々な所に連れて行ってもらったよ。驚くだろうと思うが、私は今まで服屋に行ったことのない身なのだ。初めこそ戸惑ったが全ては君のため。私を友人としてではなく女としてみてもらうため。ただそれだけなのだよ。事実君にその気はないだろう? だから。だから私は――」
感情の奔流。
感情の吐露。
感情の爆発。
名伽意味奈は激しく取り乱した。
「それなのに君は――あの女と――肌を触れ合っているのだろう? 許せん。断じて許せん! 私を差し置いてあの女は! 君は雰囲気に流され過ぎるのだ。君を奪われるくらいならさっさと夜這いにでも行くべきだった!」
瞠目。俺は白昼夢を見ている感覚に襲われた。そしてそれが俺の願いに過ぎないことに気付くのは随分後だった。
名伽は淫靡な仕草で自身の唇を手で這わせた。ちょうど口紅を塗るかのように。それは酷く妖艶で見るものを戦慄させるような、そんな美しさ。俺は場違いにも第四の怪談――【戦慄のピアノ】を思い起こしていた。そしてこの瞬間、俺は間違いなく戦慄している。
「この際はっきり言うぞ。私は君のことが好きだ。好きだ好きだ好きだ! 君が私をどう思っていようと、もはや関係ない。私は君のことが好きなのだ。この事実だけは揺らがない。――私の愛は揺らがない! だからあの女――鴇織姫と縁を切れ! そして私と付き合え! 悪い思いはさせぬ。君の望むことなら何でもする。君だけのおもちゃになってもいい。それでも構わないと私は思っている。ただ私以外の女と関係を持つな! 私だけを見ろ! 私だけを愛し私のためだけに生涯を注げ。私も君だけを愛し君だけのために生涯を捧げる。――君の伴侶としてな。私は君を独占したい。君を私だけのものにしたい。髪の毛一本たりともほかの奴らに渡すものか! 絶対に他の女に君は渡さない! 君は私だけのものだ! もうあんな思いはごめんだ。君が目の前で他の女と馴れ合っている姿などもう見とうないわ! ずっと君のことだけを想って生きてきたのに! 凍鶴楔だけを愛していたのに! ――この体全部君にくれてやる! 好きにしたまえ。自分で言うのもなんだが、容姿には結構自信があるのだ。あの女にも劣らぬ体であろう? 私の手や口や胸。その全ては君の思うがままだ。どうだ? 私が欲しくなったか?」
俺の手首を掴み、挑むようない視線を俺にくれる。体を乗り出して、俺の胸に手を添える。緩急つけて俺の体を撫でまわした。
熱い。
堪らなく熱い。
頭が錯乱した。酷く現実感がない。台本のない劇に参加しているような気分だ。それでもってその劇の主人公は間違いなく俺だ。意味が分からない。キャストミス甚だしい。
俺ごとき軟弱者は、端役か脇役で十分なはずなのに。なのになぜ。
――なのになぜこうなる?
俺を中心に世界が回っているのか。
世界を中心に俺が回っているのか。
俺が得体の知れない何かに引き寄せられているだけなのか。
得体の知れない何かが俺に引き寄せられているだけなのか。
俺もS極側の人間なのか。
俺はN極側の人間ではないのか。
だから異常者同士は引かれ合うのか。
鴇織姫も。
右梨祐介も。
梅雨利空子も。
名伽花魁も。
梅雨利東子も。
そして――
名伽意味奈ですらも。
そんなバカなことが――
あるのか?
「そういえば忘れていた。君の誕生日プレゼントを買っていたのだ。いくらか早いが、まあ、許容範囲内だろう。私の愛の形だ。受け取れ」
名伽はポケットから一つのペンダントのようなものを取り出した。真珠で繋がっており、それ以外に余計なものはない。生一本な名伽らしいプレゼントだった。
名伽はそのペンダントを俺の首に掛けた。満足そうに頬を綻ばせる。
「少し物寂しいが私の性に合っていると思ってな。あまり値は張らないが、その分君への想いがたくさん詰まっておる。いわば私の分身」
名伽は悦に入っていた。無我の境地。冷涼さは妖艶さに置換され、普段意識しない名伽の肉体を意識してしまう。
「あとな、凍鶴。私の頼みを聞いてくれるか?」
胸倉を掴まれた俺に選択肢は存在しない。俺は身に覚えのない圧迫感に押し潰されそうだった。口が渇いて、言葉を発することが出来ない。妙な呻き声が情けなく漏れるだけである。
それを肯定と取ったのか名伽は満足そうに、「私とセックスしろ」と言った。
酩酊感が俺を襲う。頭痛にも似た痛み。輪郭のぼやけた名伽の顔が見える。
「私が満足するまでセックスに付き合え。キスをして、耳を噛んで、肌を撫でて、手を握って、足を絡めて、胸の鼓動を感じて、私の全身を愛しろ。私のことを愛していると言え。君さえいれば後のことなどどうでもいい。君が欲しい。結婚したいんだ。身勝手だって、そう思ってる。――思ってるけど、もうダメなのだ。君が好きなのだ。好きすぎてどうしようもない。だから――君の体でこの想いを満たすしかないんだ。分かってくれ。私が本気であるということを」
四時間目の終わりのチャイムが鳴った。
掴む手が緩む。
その間隙を縫って。名伽の手を振り払う。
呆けるような表情を作る名伽。油断するなんて名伽らしくない。全身が緩んでいたぞ。
俺は逃げた。
怖くなったから。
怖くなったから、一目散に退散した。まさに脱兎のごとく。
「――なっ、凍鶴! いっ、嫌だ! そんなの――」
たちまち昼間の喧騒に包まれる。
初めから狂っていたのだろうか。
ただそれを認識するのが遅かっただけで、初めから俺たちは狂っていたのか。
ご愁傷さまってこういうことかよ。
全員死んでしまえ。
俺は自暴自棄になっていた。