第二十七話 六月十日 続続
「ものすごい独占欲だよ、あの子は。だから今回はちょっとした冒険かな。もし君がお姉ちゃんと一緒にいるところなんかを見られたら――間違いなく暴走する。激情して感情の制御が利かなくなる。そうなれば、絶対お姉ちゃんに掴みかかる。そして多分、殺すよ。何の罪悪感もなしにさ。まあ、それはなっちゃんにもいえることだけど」
「……梅雨利の言い分は分かった。俺もそれは認める。鴇織姫は何かを狂わせている。そういうことだろ?」
「いっておくけど織姫をそんな風にしたのは、全部君なんだからね。いまさら傍観者を気取ろうなんて思ってない?」
「思ってねーさ。――思ってねーけど、そのなんだ? 俺に舞台は似合わない」
「退場なんて出来ないよ」梅雨利は酷薄な笑みを浮かべた。「君はもう逃げられない」
そうかよ、と言って視線を宙に合わせる。思考はとっくに放棄している。あまり考えたくなかった。考えていけばいくほど、底なし沼に嵌まるような感覚がした。
「けど大丈夫。今回ばかりはさすがに手を貸す。責任の一端は私にもあるわけだしさ」
即行で梅雨利の言葉を訂正する。「いや、百パーセント梅雨利が悪い」
この異常事態を持ち出したのは間違いなく梅雨利である。一端どころか、全責任を負うべき立場にあるのだ。
俺の網膜が梅雨利の容貌を捉える。紅色の唇。漆黒の瞳。髪は武士のように縛っており、純白のリボンで結えてある。
「それに東子さんは東子さんで滅茶苦茶だ。あの人は本当に暢気で気まぐれで――手に負えない」
梅雨利は苦笑いを溢した。「手を焼いているのは私もだよ。けどまあ、許してあげて。ああいう人だから」と柔和に双眸をすがめる。
山間には縫うように杉や檜が林立している。
どこかで水鶏が鳴く。
「それに君とお姉ちゃんが織姫と鉢合わせすることは多分ないよ」
「なんでだよ?」
「お姉ちゃんと買い物するのって今週の土曜日でしょう? だってその日、私と織姫で買い物に行くし。その時にうまく誘導してやれば、事を荒げなくて済むじゃん」
買い物。
平和的な響きである。そうだ。俺と梅雨利東子はただ買い物に行くだけなのだ。それは鴇織姫と梅雨利にも当て嵌まる。いくら鴇織姫が俺に傾倒していても、友人とのつながりが消えたわけではない。天下の高校生なんだ。友達と買い物くらい、そりゃ行くさ。
異常な軌跡を描いていた何かが軌道修正された気がする。
当たり前のものが当たり前ではない、という状況に錯乱していただけなのかもしれない。異常が正常であることに違和感を覚えなくなったが故の反動である。
異常であることが正常である。
正常であることが異常である。
なら破壊したくなるし、破戒したくもなる。
誰が異常で、何が異常なのか。
誰が正常で、何が正常なのか。
名伽花魁は問うだけ無意味な葛藤に苦悩していただけなのだ。
ルールは守るためにあるのか、破るためにあるのか。
名伽花魁はその狭間に揺れていたに過ぎない。その結果が何であれ、異常を唾棄し、正常を喝破したことに変わりはない。
それでも答えなんてなくて。
当然なものは当然である。そういいきれる現状がそこにはある。
当然であることへの愉悦。
「そうだよな。いくら鴇でも俺だけが全てじゃないんだ。梅雨利空子っていう膠漆の友がいるんだ。やっぱり鴇もまた普通の高校生なんだよ」
「否だね」とそれだけ言って、梅雨利は難しそうな顔をした。「全部君のためだよ。なぜそれが分からないの?」
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。「俺のため? なぜ?」
「誕生日プレゼントだよ。――君にあげるためのね」
俺は梅雨利の言いたいことがやっと理解できた。同時に胸の中に虚無が流れ込む感触がした。曖昧模糊なもやもやが体内で旋回して、全身に気渡る。脱力感の発露である。
「織姫もなんだかんだで乙女だね。何度もお店を回ってプレゼントを選ぶなんてさ。――でも決められない。あれで結構慎重なんだと思うよ。だからさ、折角だし織姫のプレゼント探しを手伝ってあげようと思ってさ。それで織姫を口説き落としたってわけ。大変だったんだよ? 何だか私。最近避けられてるっぽいからさ、どうにかこうにかで約束を取り付けたんだから。やっぱり嫌われてるのかなあ? けどまあ、やっぱり女は友情よりも愛情に走っちゃう生き物だからねえ。しょうがないといえばそれまでだけど。――これで織姫も助かるし、織姫の動向もある程度操作できる。ともなればお姉ちゃんと君とに接触する可能性をほぼ零にすることができる。一石二鳥ってやつだね。買い物に行くところはどっちも商店街だけど、結構広いからどうにかなるでしょ。私って恋のキューピット? 一応君との付き合い長いしね。君の嗜好くらい大体分かる」
俺と梅雨利は小学校以来の仲である。その時の出会いはいくぶん衝撃的なものであったので、それをきっかけにして親交を持つようになった。名伽意味奈は中学入学時に知り合い、鴇織姫はつい二か月ほどに見知った。梅雨利東子とは中学在学中、名伽花魁は名伽意味奈とほぼ同時期に知り合った。ということは、付き合いが一番長いのは梅雨利空子というわけである。この四人の中で俺の性格と性質を熟知しているのは間違いなく梅雨利空子その人である。
「助かる」
それだけ言うと梅雨利は、「私は義理を通す粋な女だからね」と呵々大笑した。
と。
「二人とも何をしているのだ?」
背後から聞こえる怜悧な声。
振り返ってみれば――
「あれ、なっちゃんじゃん」
――名伽意味奈だった。
名伽は腰に手を当て、どこか不満そうに下唇を曲げていた。当然服装は体操服なので、すらりとした足が露出している。清楚とはしているが、やはり艶めかしい。
「その様子だと二人ともサボりだな? それが教育を受ける者の態度か。傲岸不遜であると思うぞ」
「うわぁ、相変わらず固っ苦しいというか、真面目というか……。もう少し肩の力を抜いたら?」と茶々を入れる。「そんなんじゃ恋人なんて出来ないよーん」
途端に名伽は頬を真っ赤にさせた。「わわ、私に、こっ、恋人などと言う不埒なものは――必要ない! そもそも学生の領分は学問による切磋琢磨にこそあるのだ。学問とはすなわち修業。修業とは日頃の積み重ねであり、修業即生活。生活即修業なのだ。にもかかわらず、鍛錬の場に色恋沙汰を持ち出すなど――言語道断! 廃れた身魂を斎戒沐浴し、今一度自らを省みるのだ」
立石に水とはこのことである。名伽は矢継ぎ早に弁舌を振るい、梅雨利の軽口を懸命に否定していた。そんな滑稽な姿を梅雨利は意地悪く笑い、かくいう名伽はちらちらと俺を見る。目が合うとなぜか目を逸らされた。売れた林檎のように顔を紅潮させている。
「あはははは、珍しくなっちゃんが慌ててるねえ。処女のなっちゃんにはちょっとばかしヘビーな内容だったかな?」
「梅雨利!」
名伽は泣きそうな顔で梅雨利を叱責する。しかし当の本人といえばどこ吹く風である。一向に気にする様子も取りやめる様子もない。それどころかポケットからメモ帳らしきものを取り出し、何かを書き付けた。「ふむふむ。なっちゃんは処女確定っと」
名伽は即行で梅雨利のメモ帳を取り上げる。その後梅雨利が書きとめたであろう一紙を勢いよく破り捨て、鷹のように鋭い目で梅雨利を睨む。親の仇と言わんばかりの眼光である。
俺はというと完全に蚊帳の外。けれどもなんだか楽しくなって、はははと笑った。
名伽は俺と言う存在を再認識したのか、再度恥ずかしげに顔を俯かせた。耳の端まで紅蓮色に染まり、陶器のように白い肌は熱をたたえていた。
「けどまあ、いいじゃん。好きな人は一応いるんでしょう? 少なくとも恋は出来るよ。美少女のなっちゃんなら瞬時に悩殺だね」と無責任にそう言い放つ。九割方、名伽をからかうことを楽しんでいる。「けどさあ、変な貞操観念を持ってると――誰かさんに――先越されちゃうよ?」
「やめろやめろやめろぉ! これ以上私の純情を穢すなぁ!」
名伽は嵐のように荒れ狂った。梅雨利に掴みかかろうとするも、あっさりとかわされる。普段の名伽ならばそんなへまをしないのだが、今日の名伽はいつにも増して冷静さを欠いている。
「ふむふむ。なっちゃんには好きな人がいる」いつの間に拾ったのか、梅雨利はメモ帳に走り書きをしていた。「そして、その人には憎き恋敵がいると」
「違う違う違う! 私に好きな男などおらぬわ!」
「嘘だぁ。だってさっき純情を穢すなって、そう言ったじゃん」
「うう」と言葉に詰まる名伽。恨めしそうに梅雨利を見る。
「へえ、意外だな。固物の名伽に意中の相手がいるのか」と思わず口に出してしまう。それほどまでに意表を突く事実だったからである。
しかし名伽ほどの女なら寸時で成就することだと思う。名伽を魅力に思う男子など、それこそ枚挙に暇がない。名伽意味奈は容姿、頭脳、人格。全てにおいて欠点の存在しない高根の花なのだ。
殺気交じりに梅雨利と対峙した名伽は、今にも泣き出す一歩手前と言った風である。「違うのだ凍鶴。私に好きな男などおらぬ。いるはずがないだろう? 私に色事や色恋などは似合わぬのだ。こんな私に恋を語る資格などない。――けれど。けれどもし、いたとするならば――」
と。
言葉はそこで途切れる。
その後名伽が何を言ったのかは、風に掻き消されてよく聞こえなかった。
どこからともなく蘭麝の香りがする。
水気を孕んだ風が逢々と風塵を舞い上がらせた。湿気た陣風に掻っ攫われた塵埃はどことなく消えていった。
天の水がなくなる月。
遠くでは額紫陽花が咲き乱れていて、根茎の低い著莪が群落を形成していた。