第二十五話 六月十日
いくらお前が取り繕ったところで。
いくらお前が誤魔化したところで。
いくらお前が嘘をついたところで。
そろそろいい加減にしておいた方がいい。
お前だってとっくに神の十字架に縛られてるんだよ。
――Let me wish you a happy birthday.
六月の空は蒼天であった。
暗鬱ではない。清々しいまでの日光が地面に降り注いでいる。六月特有の湿気など感じられない、爽快とした天気である。
眼前には銀髪をなびかせ、軽やかに跳躍する女子生徒がいた。白磁のように透明な肌。端麗な面立ち。精緻な姿態――
名伽意味奈である。
名伽は雅やかな仕草でハードルを飛び越え、悠々と着地する。そのまま鷹のようにグラウンドを滑空して行った。
辺りから歓声が聞こえた。
濛々と土煙が立ち込める。
一時間目の授業は体育であった。現に俺の服装は体育服で、眼窩には大量のハードルと生徒たちとの坩堝が形成されている。そこから俺は外れて、石造りの階段に座ってぼんやりとしていた。朝っぱらからハードルを飛び越えろとは、笑止千万。宿木先生が職務怠慢であることをいいことに、こうしてサボっているのである。
眠気が抜けきっていない眼を手で擦る。運動不足が祟ったのか、その弾みに首の骨が鳴る。最近は名伽との組手を疎かにしているからだろう。鴇織姫の介入により、名伽との交流は途絶え気味である。ともなれば組手も必然的に消滅するわけで。
「なに難しい顔してんの?」
背後から声がする。その後すぐ横から気配がすると思ったら、隣には梅雨利空子が座っていた。制服姿であることから、見学であることが窺える。
体育の授業は一組、二組、三組のうち二クラスを選び行われる。それにはローテーション形式が採用されており、今日の授業は梅雨利のいる三組と合同だ
「梅雨利か」
梅雨利は快活に微笑んだ。「そうだよーん。てか君、もしかしてサボり?」と共犯者めいた表情を浮かべる。「私と同じだね」
右足の骨折はとっくに完治している。
にもかかわらず見学ということは、やはりそういうことなのだろう。梅雨利は不義理ではないが不真面目なところがあり、授業をサボタージュすることはそう珍しくはない。今回も例に漏れず、というわけである。
「サボりじゃねーよ」斜に構えたように反駁する。「これは日光浴だ」
梅雨利はきょとんとした表情を作る。その後、どっと笑い声を上げた。それが端を発したのか、梅雨利の高笑いはなかなか止まらなかった。それは魔女のように媚態としていたが、同時に聖女のように矛盾した清廉さを併せ持っていた。品を作っていて、黄金の彫像が形を持ったかのようである。
「日光浴! なるほど。確かに日光浴とは一理ある」と一転、梅雨利は納得する。「新しい見解だね。意表を突く」
梅雨利は楚々として笑った。褒められたのか貶されたのか判断しがたく、俺は憮然とした表情を作る。
遠目から宿木先生の欠伸姿が見えた。パイプ椅子に腰を下ろし、飄然とした様子で足を組んでいる。よく見てみれば寝ているのが分かった。
「それは褒め言葉か?」
と。
一応訊いてみる。
「そうだよ」と梅雨利。おかしくて堪らない、といった笑みである。
俺は溜息をついた。梅雨利の無邪気な態度に毒気を抜かれたからだ。「もういい」と投げやりに返答する。「その話はやめよう」
石のひんやりとした感触が伝わってくる。昨日雨が降ったらしく、しっとりと冷たい。それが心地よくて、ここから離れたくない。ことさら体育においては、授業を丸ごとサボってもこれといった注意はないのだ。俺はこのまま階段の上で授業を終えることを決めた。
しばらくすると、横から華奢な手が伸びてきた。「これ誕生日プレゼント」
それはパンフレットだった。どこぞの旅館のものらしく、海を背景とした旅舎が印刷してある。
「なにそれ?」と梅雨利の真意がよく分からなかったので、そう尋ねる。
「なにって、パンフレットに決まってんじゃん」
いや、そうだけどさ。
梅雨利は旅籠のパンフレットを俺に押し付ける。いつの間にか俺の手にはそのパンフレットが握られていた。
「夏休みくらいにさ、織姫と行ったら? あの子のことだから泣いて喜ぶと思うよ」
そうかもしれない。鴇織姫ならばそうなるかもしれない。
けれど。
「そういうことじゃないだろ」と言った後、よくよく考え直す。「いや、それ以前に」俺は当惑しながら、「なんで誕生日プレゼントなんだよ?」と言った。
「だって君、もうすぐ誕生日だし」と梅雨利は当然のことのように言う。
俺の思考回路が花開いた。頭の中の電球が煌めくような、そんな感覚である。ハッとなって自分の記憶を探り出す。
そして。
思い出す。
自分の誕生日が近いことに。
それは失念していたことだった。母親が腹を痛めた特別な日を、俺は親不幸にも忘れていたのである。呱々の声を上げ、この世に生を受けた日は今週の日曜日。そして今日の日にちは火曜日である。まさに梅雨利の言う通りなのだといまさらながらに気付く。またこう言ったやり取りを姉の梅雨利東子ともしていたことを思い出す。それは約一か月前のことで、電話越しであったが記憶に新しい。
梅雨利は呆れた様子で尋ねる。「もしかして忘れてたの? 自分の誕生日」
「どうやらそうらしい」俺は苦笑を浮かべるしかなかった。
「そんなことだったら天国の親御さんが泣くよ?」と梅雨利は揶揄するような目で俺を見た。「きっと袖を絞って、滂沱の涙を浮かべるだろうね。紀元前からやり直しなさい、この愚か者!」
「申す言葉もない」
俺は下唇を噛んだ。汗顔の至りである。
梅雨利の罵倒はもっともで、人との絆を大切にする梅雨利にとっては許せない行為なのだろう。
仁を敬い、義を立て、礼を重んじ、智を尊び、信を仰ぐ。梅雨利空子は五常の化身たる人間なのである。観察欲が他と比べて異常というだけで、本質的には大人物なのだ。
「けどまあ、それとこれとは話は別かな。織姫のことを大事にしてやってよ」
溜飲が下がったのか、梅雨利は平生の調子を取り戻した。頬は柔和に緩み、莞爾をたたえている。俺も苦笑交じりに笑みを返し、前に向ける。
宿木先生の方を見てみれば、首は下がっていて完全に熟睡状態である。腕を大儀そうに組み、鼻提灯を垂らしている。あれで体育教員が務まるのだろうか。しかしながら剣道の腕は名伽意味奈の太鼓判付きである。
人間というものは本当に見かけによらない。いかんせん俺は見た目通りの人間だが。
パンフレットをよく見れば、そこには『旅館八重桜』と明記されていた。『旅館八重桜』といえば、梅雨利の姉が働いている旅宿である。
山気は爽涼としており、碧空には鱗雲が漂っていた。
電話越しの梅雨利東子との会話を思い出す。梅雨利東子独特の讒言のような、空言のような、虚言のような、放言のような――そんな会話のやり取り。
有意なのか、無意なのか。
無意なのか、有意なのか。
ペラペラとページを捲ってみれば、なるほど設備や環境はすこぶるつき。前に梅雨利東子から旅館に顔を出すよう言われていたことがあった。ということは、これが梅雨利東子の引き金である可能性は高い。
ひょっとしてこれが誕生日プレゼントなのか。
なんて思う。あのときは茶を濁されて、そのことに関して詳しいことは述べられていない。十分にあり得る。
不満がないわけではない。プレゼントがパンフレット。梅雨利東子らしいといえば梅雨利東子らしい。伊豆といえば療養するにはもってこいの観光地である。鴇織姫によって精神的に磨減している俺にはちょうどいいのだ。
と。
「なあ、梅雨利」舌鋒を梅雨利に向ける。「ちょっといいか?」
「なにかな?」
「東子さんから何か聞いてなかったか?」俺はパンフレットを凝視しながら、「俺の誕生日だとか、なんとか。そんなことをさ」と問う。
梅雨利は顎に手を置いて、しばらく沈思した後、「ああ、そう言えば、そんなことを言ってたような気がする」と言った。「君への誕生日だとか何とか――」
と。
梅雨利空子は。
「えへへー」
笑った。
そして。
「ご愁傷さま」
なんてことを言うのである。
「はあ?」
意味が分からねーよ、と続ける。それでも梅雨利は意味深な笑みを浮かべるだけだった。
話は変わるけどさ。
と前口上をおいて、梅雨利は開口した。「明日からお姉ちゃんが帰省するんだけど」
「……へえ、何のために?」
「名伽先輩の弔問のために、だよ。ほらお姉ちゃん忙しいから、お葬式に来れなかったんだよね。――で、一カ月遅れの弔問ってわけ」
俺は日本人形のようにこっくりと頷いた。
「それでさ、東子お姉ちゃんからの伝言があるんだけど。――聞く?」
梅雨利は確認するように俺を見た。梅雨利東子が絡んできた以上、俺に選択権はもとよりない。俺は首肯した。
それを受けて、ポケットからカセットテープを取り出す。梅雨利はスイッチをかちりと押した。すると聞き覚えのある声が聞こえてきた。