第二十四話 レイクについての後日談
「――っていうシナリオだ。満足したか?」
「ふーん、私のいないところでそんなことがあったんだ。なんだか私だけ蚊帳の外で、面白くないなあ」
日和見病院三階、304号室。
純白のカーテンが揺れる病室で、俺と梅雨利空子は対峙していた。
梅雨利はベットの上で。
俺はパイプ椅子の上で。
「そんな不謹慎なこというなよ。人が一人死んだんだぜ?」
詳しく言えば一人ではないが。
あれから事態は急転直下を迎えた。
あのとき偶然校舎裏を通りがかった生徒が病院に通報したものの、容体は思った以上に深刻で残酷だった。
結論から言えば――名伽花魁は助からなかった。病院側の懸命な処置も空しく、あっけなく出血多量で死亡した。
五月十四日に葬儀があるらしく、俺や鴇織姫、そして梅雨利空子が弔問する予定である。梅雨利の傷もほぼ完治していて、明日には退院できるらしい。ただ自分に危害を加えた人間の葬式に行くのは、心理的に複雑なのかもしれない。いくら知人でも含むものはあるのだと思う。
「けど意外かな。まさか犯人が名伽先輩だなんて。しかも学園七不思議の仕掛け人。因果だねえ」と深紅のリボンを揺らして、梅雨利は感嘆の息を漏らした。
多分名伽花魁は、新聞部を監視するために入部したのだと思う。新聞部ともなれば、【生き血を吸う桜】を含む七不思議を調査する可能性があるからだ。それを阻止するためだとしたら、辻褄は合う。
別に右梨祐介の私物を、【生き血を吸う桜】の調査前に送る必要はない。ともなれば七不思議にではなく、【生き血を吸う桜】そのものに疑惑が湧くかもしれないのだ。それでもそうしたのは、俺たちとの時間を伸ばしたかったから。あるいは――誰かが自分を裁いてくれるかもしれない、なんていう懺悔の心があったからか。
詳細は分からない。
死人に口なし。
「そっかー、あそこには死体が埋まってるんだ」と興味津々と言った風に、梅雨利は目を輝かせる。俺は梅雨利に事を顛末を話したことを、いまさらながらに後悔した。けれど誰かに言わなければ、名伽花魁の重圧に押し潰されそうで――恐ろしかった。やっぱり軟弱だ、と自らを嘲笑する。
「記事にするのか?」
「するわけないじゃん。それは無粋ってもんだよ。私は名伽先輩の遺志を尊重したい」
「俺もそうして欲しい。それがせめてものたむけだと思うから」
「なっちゃんはどう思うかな? お姉さんが二人とも死んじゃって」
「大丈夫さ」俺は断言した。「名伽は強いから。先輩の死を乗り越えてくれると思う」と確証なんてないのに――そう言いきってしまう。これに確然とした根拠はなくて、そうあってほしいという、心の発露なのだと思う。
すると梅雨利は、「えへへ―」と気味の悪い笑みを浮かべた。「随分と語るねぇ。ひょっとして――なっちゃんのことが好きなの?」
俺は失笑した。「そんなんじゃないさ」
「本当、罪作りな男。こんなんで報われるはずないよ」と梅雨利は悄然とした風に言った。そして小声で、「織姫もなっちゃんも、これからどうするんだろう」と憂うように呟く。
山間からは秀麗な山々が見えた。底から勢いのある颪が吹き荒れ、東雲をたなびかせている。春陰と曇る空模様の下には、水滴に含んだ草木が隘路を蒼然と彩っており、五月雨が降ったのか、地面はぬかるんでいた。
「足の方は治癒したのか?」いまだギブスを着用している右足を見る。白い包帯でぐるぐる巻きにされ、失礼だが風刺画のような滑稽さが感じられた。
「おかげさまでね。そういう君はどうなの? 人の死を間近で見た感想は?」と不道徳なことを訊く。ただ本人にそういった認識はなく、純粋な好奇心で尋ねているに過ぎないのだろう。観察者の血がそうさせるのか。
「魂が抜け落ちるような感触だったぜ。もう二度と人を看取りたくない」それが正直な感想である。目の前で一つの生命が消失するという概念に、背徳感すら覚える。まるで足元の床がごっそり抜けるような、形のない恐怖。「医者にだけは絶対にならない」と決心する。
「君には適任だと思うけどなあ。傍観だけが取り柄だし、それを唯一活かせる職業じゃん」
「はいはい、そういうあんたも全然活躍してなかったな。観察者の癖にな」
「なにそれ、自慢? 自分の手柄を見せびらかしたいの?」
「違うさ」そう言って、十六等分された林檎を手渡す。梅雨利はそれを受け取り、かじった。「俺がそんな奴に見えるかよ?」
林檎を咀嚼しながら、梅雨利は冷めた口調で言った。「どうせ東子お姉ちゃんにでも頼ったんじゃないの?」とさらりと真実を言ってのける。
「うぅ……なぜそれを?」
「なんだ図星かぁ。やけに七不思議に詳しいと思ったら、そういう裏があったんだ」と興醒めといった風である。
梅雨利から発注を受けた林檎は、全て梅雨利の胃の中に収まってしまった。梅雨利はご満悦そうに顔を綻ばせる。深紅のリボンがピコピコと、かわいらしく揺れた。
存在自体が社会に適合していない梅雨利空子だが、なぜか男子からの人気は高い。そんな奴の目は節穴だと思う。梅雨利の本質を“傍観”してしまった俺に言わせてみれば、梅雨利は遠視持ちの望遠鏡みたいな人間なのだ。望遠鏡でありながら、近いものが見えないという時点で致命的である。ただ遠いものは常人よりもよく見えるのである。そのアンバランスさ。梅雨利の主成分は知識欲と観察欲、それと水分くらいなのだ。人とは一線を画していて当然なのかもしれない。
それは名伽花魁にもいえることである。名伽花魁もまた、《何か》を狂わせていた。家族を殺害するという原因や、それに行きつくまでのプロセスは分からない。
始まりから歪んでいたのか。
終わりから歪んでいたのか。
それすらも分からない。案外初めから終わりまで、歪んでいなかったのかもしれない。歪んでいたのは、あくまで結果だけ。
そういうことなのかもしれない。
そういうことでないかもしれない。
俺には分からない。
なんとなく気が滅入ってきて、溜息をつく。俺はパイプ椅子から立ち上がった。「じゃあな。俺は帰る」
「ばいばいーい。また学校でね」
梅雨利の口はせわしなく動いていた。
食い意地が張ってるな、と思いながらも病室を後にする。
○○○
あれからなにも変わらなかった。
所詮人一人死んだところで、世界は自転を止めることはないのだ。
名伽花魁が死んだところで、世界に与える影響は高が知れている。
ただ。
辺りから噂話がする。
ひそひそひそって、誰かの声がする。
それに耳を傾けてみれば、きっと聞こえるはずだ。
どこか不可思議で、奇妙な物語が。
おいおい、知ってるか? 例の怪談のこと?
ああ、勿論知ってるぜ。あれだろあれ。第八番目の怪談。
やっぱりみんな知ってるか。味気ないなあ。
そんなしけたこと言うなよ。みんな知りたいよな?
分かった、分かった。話せばいいんだろ。
話してくれよ。焦らすなって。
分かってるよ、そんなこと。で、その怪談はな、第一校舎裏の池の話なんだ。あそこには小さい池があるだろ? あそこにはな、丑三つ時に水面に腕を突っ込むと、池が真っ赤になるんだ。まるで血そのものを溶かしたみたいにな。そして、慌てて腕を引っこ抜いたら、腕が干乾びてるんだ。なぜかって? その池には昔、男子生徒の前でリストカットして死んだ女子生徒がいたらしくてな、その人の流した血が意志を持って生き血を奪いに来るんだよ。
こっ、こええ。その怪談はなんて言うんだ?
第八の怪談――【赤く染まる池】って言うんだ。
――Love has sunk in the bottom on the pond.