第二十二話 五月十日
相変わらず客は来なかった。
先ほどの女性は、厨房に消えていた。
深々としたジャズの調べ。それを遮るように、鈴の音が店内に響いた。
「なんだ。ここにいたのか」
姉だった。
艶っぽい銀髪を颯爽となびかせ、木目の床を踏む。百七十センチと高校三年生にしては高い身長。見るものを惹きつける肢体は、しなやかでシャープである。
姉の格好が制服なのは、部活動の帰りなのだと予測はついた。姉は休日だろうが毎日のように学校に赴き、絵に没頭しているのである。特に今描いている絵画は、コンクール出展予定だとか。おそらく今日はただの手直しくらいなのだと思う。でなければ姉は、閉校時間ぎりぎりまで美術室にこもっているのだから。そうして蓋世の才を遺憾なく発揮しているのである。
「一人で喫茶店とは珍しい」と姉は言った。私の向かい側に座る。そして、「どうだ、調子は」と軽快に尋ねた。
「別に」私は言い淀む。視線を下げ、顔を俯かせる。「なにもない」
「そうか」
姉は目を細めて笑った。私の返事がつれないのはいつものことなので、気にする素振りはなかった。ただ、「しょうがない子だな」と呟く声は聞こえた。それは放蕩息子を説諭するような、諦めのようなものが含まれていた。同時に私の体は縮こまり、倒錯的な罪悪感を覚える。私は一日に何回も、“姉を殺害する”という身勝手な妄想に耽っていたからだ。そして体中に蛆虫が湧くような、おぞましい嫌悪感すらも湧き上がった。
「けれど何もないってことはないだろう」
私は顔を上げて、「だからなにもないと言っている」と怒気交じりに答えた。言った直後、自分の浅ましさが堪らなく嫌になった。再び顔を下げる。もう二度と顔を上げない、と心のどこかで誓った。
それを見た姉はやれやれと、失笑を浮かべた。
と。
「あれ、先輩じゃないですか?」
厨房から弾んだ声がする。
先ほどの女性だった。目は宝物を見つけた子供のように輝き、無邪気にこちらに駆け寄る。「やっぱり先輩だ」と女性は姉の首にしがみつき、頬をスリスリする。
姉はそれを仕方なしといった風に、されるがままになっていた。それは犬とその飼い主との関係に似ていた。従順に尻尾を振る女性は、飼い主である姉とボディタッチを繰り返すのである。
「よせ、東子。服が乱れるであろう」と姉がそう叱責すると、東子と呼ばれた女性は不服そうに引き下がった。それでも笑みが絶えることはなく、さながらの莫逆の友のようであった。
テーブルには三人の女性が鼎座していた。私と姉と、いつの間にか姉の横に座っていた東子なる女性。その三人である。
「似てますね。もしかして先輩、この人と姉妹ですか?」と女性は私の方に視線を向けた。
「そうだ。私より五歳年下の妹なのだ」
「なるほど。顔立ちも髪の色も、ほぼ同じですね」
混乱する。
家族。
綺麗な顔でなぜそんなことが言えるのだろう。私にとっては唾棄すべき括りなのに。家族なんてくだらない。ただ血が繋がっているだけで、姉と顔を会わせなければならないのだ。私は妹さえいればそれでいいのに。
私は一息つき、「オレンジジュース、ありがとうございます」とおざなりに礼を述べ、席を立った。
「帰るのか?」姉が不思議そうに質問する。「まだ朝の九時だぞ」
「帰っちゃうの?」女性は残念そうに言う。「もうちょっとだけ」
私は頭を振り、身を翻した。そのまま喫茶店のドアを開ける。
喫茶店を出ると、どっと汗が出た。春なのになぜか殺人的すぎる日差しを受け、額に浮かぶ汗を拭う。アスファルトは焼け爛れていて、陽炎のようなものがちらついていた。
畦道を歩きながら、様々なことを追想する。
いつしか私は、妹さえいればそれでいい、といった価値観を持つようになっていた。それが、姉さえいなければいい、という退廃した思想に派生するのに時間はかからなかった。かかるわけがなかった。
だから決意した。
姉を。
殺す。
それはすんなりと私の心に受け入れられた。まるでそこにあるべきジグソーパズルのピースが、欠けた個所にがっちりとはまるように。あるいは脚本通りに物語が進んでいく、その過程を淡々とこなしていくかのように。
「私は――」
言葉はそこで途切れた。
○○○
空の雄大さは端倪すべからず。
馥郁たる桜の香りが風に乗って、五月の訪れを知らせる。深山の眺望は、何とも言えない隔世の感があった。
犯人からの脅迫状が届いた翌々日の放課後。
俺と名伽花魁は、一棟校舎裏にいた。人気はなく、生徒たちの閑談が遠くから聞こえた。まるで世界から切り離されたようで、現実感があまりない。
「七不思議から手を引くのではなかったのか?」
小さな池の前、名伽花魁はそう尋ねた。
影が伸びている。それが名伽花魁の表情を隠す。
なにを思っているのかは分からない。
歓喜だろうか。不安だろうか。それとも、後悔だろうか。
名伽花魁の顔は黒く塗り潰されていた。そのせいか、心の機微が深く読み取れない。
「勿論ですよ」
「だったらなんで、私はここに呼び出されているのだ?」と名伽花魁は諳んじるように言い、「それに織姫ちゃんの姿が見えないのだが」とも言った。
「鴇は二日前から寝込んでますよ」と春色に彩られた木々を見る。「先輩の思惑通りにね」
「……どういう意味だい?」
「ネタは挙がってるってことですよ、名伽先輩」俺は深呼吸をして、噛み締めるように言った。「犯人はあんたなんだよ」
ボールを蹴る音がした。グランドから結構遠いのだが、ここでも聞こえるらしい。ちょうどいいBGMである。
名伽花魁は押し黙った。緩慢な閑寂が流れる。
ふふふ。
魔女のような声。それはやがて哄笑となり、煙のように天高く昇っていった。
名伽花魁だった。
「ふはははははははは! いきなり何を言い出すかと思ったら――私が犯人だと? 空言もいい加減にしたまえ」
「空言なんかじゃないんだよ。この学園七不思議の裏で動いてたのは、間違いなく名伽花魁その人だ」
「ほう? なぜ君がそういう結論に辿り着いたのか。ぜひ拝聴願いたい」と名伽花魁は背筋を反らせ、下から俺を覗き見た。猫の毛のような銀髪が首筋にかかり、妖艶な雰囲気を醸し出す。性格がアレであることを除けば、名伽花魁は完璧だ。ただ喋ったり動いたりするからいけないのであって、喋ったり動かなければ、紛れもない美女なのである。
現に心臓の脈動が止まらない。それは名伽花魁の美貌に耽溺していた、というわけではない。――ないこともないが、それとはまったく別のことが起因しているのである。
名伽花魁が人殺しか、否か。
俺の頭の中にはそのことで一杯だった。それは名伽花魁の楚々とした見た目と著しく乖離していて、現実味を帯びていないのだ。
俺は頷いた。「まず【狐面の怪人】の件です。あれは倉庫の中に収納されていて、錠前がかかっていました。長年開錠された形跡はなく、名簿を見てもその鍵を使用した人はいませんでした」
それを受けた名伽花魁は、「だろうな。で、矛盾が生まれる」そうだろう? と眉を吊り上げる。
名伽花魁の指摘はまさにその通りである。
梅雨利空子が言うには、第二の怪談――【狐面の怪人】を模した人物に突き落とされたらしいが、名伽花魁の指摘通り、その時点で矛盾が生じる。誰も倉庫を開けていないのなら、狐面や黒いフードを使用することが不可能だからだ。
実に明快。一部の隙もない、理論武装された正論である。
が。
そう来ると思った。
俺は校舎の近くにある茂みに手を伸ばす。名伽花魁は不審そうにそれを見る。それでも律儀に待ってくれるのはさすがといったところか。しかしその表情に余裕が消えるのに時間はかからなかった。
「そっ、それは――」
「察しの通り、狐面と黒いフードです」と俺は不気味に笑む狐面と、漆黒のフードを掲げてみせた。
名伽花魁は焦心のこもった声色で尋ねる。「そ、倉庫から引っ張り出して来たのかい?」
「いいえ」俺は切り返す。「そうじゃありません」
俺は狐面に取りつけてあった値札を掴み、「実はこれ、商店街の雑貨店に売ってるんですよ」と言った。「二つ合わせて六百円くらいかな。安くて拍子抜けしましたよ。多分演劇部も財政難だったんでしょうね。こんな大量生産の安物で済ませることにしたってわけです」
「…………」
「まさか狐面と黒いローブが販売してあるとは誰も思いませんよ。横紙破りです。ただこの時点で倉庫のトリックは解明されました。犯人は倉庫のものを使ったのではなく、新しく買い揃えたってわけです」俺は狐面と黒いローブを地面に置き、「事実倉庫のやつは埃被っていて、使用された様子はありませんでしたし」と確かめるように言う。
「……なるほど。君の推理は一理ある。しかしどうやって犯人は空子を突き落したのだ? 後ろを振り向かれたその時点でアウトだ。三棟三階の教室は廃墟同然。あそこは身通しがよくて、隠れられる場所など皆無なのではないか?」
「簡単ですよ。おそらく犯人は第二図書室を利用したのだと思います。鍵がいるという問題点も、真夜中の学校に忍び込んで鍵を複製すればいいだけの話です。かくいう俺も昨夜、職員室に忍び込んで鍵を奪取し、第二図書室に侵入できましたから」と思わず得意げになって言う。「こういう手順で鍵を手にした犯人は、第二図書室で待ち伏せ、梅雨利の不意を突いた」
夕焼けは濃くなっていた。山は黄金色に染まり、太陽は西に傾く。優渥な日輪の恵みが、ゼピア色となって田園を照らす。桜ならず百花繚乱と咲き乱れる花の香りまでもが、鼻腔を甘美にくすぐった。
しばらく思案顔だった名伽花魁は、おもむろに視線を向ける。影は剥がれていて、済み切った瞳が見えた。
「確かにその手段を用いれば、空子を突き落すことも可能だろう」と言って、「しかし」と付け加える。
「ただ?」
「それには決定的な問題がある」名伽花魁はしたたかに微笑んだ。「誰にでもその犯行は可能であるという点だよ。それでは私が犯人であるという証拠はないではないか」と言い、踵を返した。射光が背中に反射し、後光のようなものを作り上げる。
俺は薄く笑い、予想された質問に答える「証拠なら――ありますよ」
名伽花魁はぴたりと足を止め、振り返る。そして興味深そうに俺を見つめた。全てを見切ったような眼球。クリアな水晶をそのまま嵌めこんだようである。
「第二図書室には髪の毛がありました。銀髪のジャギーが入ったものです。銀髪といえば名伽意味奈か名伽花魁しか該当者はいません。まあ、消去法です。名伽意味奈はその頃部活をしており、当然のことながらアリバイがある。しかし名伽花魁にはアリバイはありませんでしたね? ともなれば、第二図書室を利用した人間は、あんたしかいない。それに第二図書館は、帳簿によれば約五年間もの間使われていませんでした。なのに山積した埃の上に、真新しい髪の毛がある。普通酸化するか腐敗します。明らかに不自然ですよね?」と言って、口を噤む。同様に名伽花魁も口を噤む。
「これで“誰がしたのか”と“どうやってしたのか”は解決しました。しかし――動機。“なぜしたのか”の謎が残っています」
それが最大の難関だった。
だれがどうやったのか?
この二つはどうにかして推理できたが、肝心なのは動機である。動機なき犯罪などありえない。物事には必ず意味が付随するのである。右梨祐介の言う空即是色論など邪道であり異端である。意味が付随しなければ、物事は成り立たない。物事が成り立つには、意味が付随しなければならない。
否。
答えがないから、意味を求めないだけなのかもしれない。
意味がないから、答えを求めないだけなのかもしれない。
異常に意義を見出すのは無意味なのか。
正常に意義を見出すのは無意味なのか。
異常と正常。
正常と異常。
それらに《答え》や《意味》なんていう高尚なものが、はたしてあるのだろうか?