第二十話 五月八日
今まで信じていたものが実は虚構だった、なんてよくある話だよね。
とある喫茶店で、見知らぬ女性はそう言った。
中学二年生の春である。コバルトブルーの空に東雲が浮かぶ、晴朗とした日だった。
どうやらその女性は、この喫茶店の店員らしかった。服装で一目瞭然なのだが口調はいかにも、旧友との歓談に心を弾ませている、といった風で変な違和感を感じた。出された冷水を口に含み、彼女に尋ねる。「そんな話があるのですか?」相手が年上だったので、とりあえず丁寧語で対応する。私の家は儀礼にうるさい家系だったので、意識せずともそう言った言葉が出てしまうのだ。
彼女は笑った。純白のリボンで黒髪を縛っており、うなじがエロかった。しかし断言するが、妹ほどではない。妹は想像を絶するほどかわいい。悶え死ぬほどかわいいのだ。
彼女の雰囲気は柔らかだが、眼光が妙に鋭いのが印象的だった。全身をスキャナーで検査されているような、そんな感覚に捕らわれる。
推測するに高校生くらいの年齢であろう、黒髪の女性は間髪入れずに、「事実は小説よりも奇なり、っていうことわざ知ってる?」とどうでもいいようなことを口にした。あなたは何を論じたいの? と質問を投げかけたくなるが、再度冷水を飲むことで、その思いを黙殺する。それに見知らぬ女性が話しかけてくること自体が疑問だった。
喫茶店には客が一人もいなかった。
もしかして。
この人。
暇なのか?
「知ってますけど」と私は言った。この女性は暇を潰したい一心で私に話しかけてきたのだと理解した。
「あれって詭弁だよね」女性はなぜか笑った。「事実が小説を上回るはずないじゃん」とおかしくて仕方がないといった風に言い、「事実はノンファクションで、小説はフィクションだよ。嘘が許容される領域なんだよ? どう考えたって勝ちっこないよ」と呵々大笑する。それはさほど大きい声ではなかったが、窓外のトラクターの音を掻き消した。
君もそう思わない?
彼女はそう付け加えて、ふふふ、と妖艶に笑った。「虚構は真実に包含されている。それは紛れもない論理だね。それは認める。だってどうあがいたって、虚構は真実に枝分かれする末節でしかないから」
返答に詰まった。あなたは何を論じたいの? と質問を投げかけたくなるが、黙ることにする。コップの中は空っぽで、水を飲むことは出来なかった。一応、沈思のポーズを取る。
「確認しておくけど、真実は事実で、小説は虚構ってことだから。オーケー?」と彼女は私に同意を求めているようだったので、首肯する。言い換えれば、小説は事実に枝分かれする末節でしかない、ということだ。
彼女は満足そうに頷き、「つまりあれだよ、あれ」と言った。
「あれ?」
「大は小を兼ねない、ってこと」
「なんなのだ、それは?」と思わず地が出る。が、彼女はそれを気にする素振りなく、自由奔放に先の言葉を紡ぐ。
「大は小を兼ねない」女性は口ずさむように言い、その言葉を繰り返す。そしてにんまりと笑った。「総括的に言えば、真実は虚構を兼ねない。イマジネーションだね、イマジネーション」
私は女性の言っていることがあまり理解出来なかった。妄想癖でもあるの? と疑ってしまうほどである。しかし女性は紛れもなく正気を保っていて、そうは見えなかった。
イマジネーション。
私は小さく、「イマジネーション」と呟き、彼女にこう尋ねようとした。「小説はイマジネーションが利く。だから真実はありのままを映写した事実よりも、作られた虚構の方が」
「面白いんだよね、これが」私の言葉を遮るように、彼女は言った。そして、「水いる?」と言い、それを受けた私は、無意識に首を縦に動かしていた。女性との会話で喉がカラカラになっていた。彼女との会話は疲れる。まるで心の内側を見透かされるようで、心理的なプレッシャーすら感じた。それを紛らわすという意味でも、水が欲しかった。
彼女は並々と注がれたコップを持ってきた。中身は黄色で、瑞々しかった。「それはオレンジジュースなのでは?」と気になって、そう訊いてしまう。
「奢り」それだけ言って、女性はオレンジジュースの入ったコップを机の上に置いた。その一言で十分だろう、と言外に言っているようだった。たった三音で説明を終わらせようとするのは、単に説明が面倒なのか、彼女の性格が短気なだけなのか。
彼女は向かい側に座った。その拍子に白いリボンが揺れ、耳元で鈴が鳴る感触を覚える。「君ってさあ、似てる。私の先輩に似てるよ」
社交辞令として、相槌を打つ。「誰ですか、その先輩って?」
「美術部の先輩。私より一個上で、君と同じ銀髪だったかな」
嫌な予感がする。それを振り払うように言った。「あなたは何歳ですか?」
「うーん、誕生日はまだだから十六歳かな。青春真っ盛りの高校二年生でーす」
「この店はあなたが切り盛りしているのですか?」我ながら現実味のない質問だと思う。高校生が喫茶店を経営できるはずがない。それでも訊かずにはいられなかった。この正体不明の喫茶店の素性はいかようか、と好奇心がうずく。私はこの飄々とした店の雰囲気が、いつの間にか好きになっていた。
「違うよ。私はただのアルバイト。店長はちゃーんといるよ」彼女は悪戯っぽく笑い、「サボり魔だけど」と答える。
時計を見てみれば、九時だった。「遅すぎる」
「遅くないよ。基本正午に来るし」
「それは職務怠慢というのではないか?」
「それは違うよ」女性は切れ長の瞳を細め、私に微笑みかけた。「社長出勤なのよ、これ」
女性はミステリアスに去っていく。
○○○
翌日。
鴇織姫は学校を欠席することにした。予想外の出来事に相当まいっているらしい。本人は、「大丈夫」とは言っていたが、俺が説諭すると渋々引き下がった。蒲団を敷いてやって、床に就くよう言うと、鴇織姫は数分のうちに寝入ってしまった。精神的に磨耗しているのだろう。この状態ではとても学校に行けるわけがない。
爽快な朝は暗欝なものに変わってしまった。
《鴇織姫コレクション》はゴミ捨て場に廃棄しておいた。今にも右梨祐介の悪意が伝染しそうだったからである。正視に堪え難い。そして犯人の残した紙は、一応保管してある。何かの役に立つかもしれないので、やむなくそういう帰結となった。
珍しく隣に鴇織姫の姿がない。そういった概念に少なからずの寂寥感を覚える。いつの間にか鴇織姫の存在が当たり前のものになっているのを実感する。
言葉では言い表せない不安。どこか気分が沈むのを感じる。それがなぜだか分からないけれど。
俗世間の塵挨からほど遠い日和見村。住民はみんな長閑で、“神隠し”を除けば平和な村である。
畦道には濁った泥濘がいくつもあって、歩きにくかった。それをかわしながら足を進める。
「凍鶴なのか?」
と。
聞き覚えのある声。
振り向れば、銀のような白髪をなびかせる名伽意味奈がいた。どこか躊躇うよう素振りを見せながらも、俺に近づく。
辟易した俺を案じる風に、名伽は言葉を綴る。「元気がないようだが、何かあったのか?」
俺は頭を振る。名伽の表情は曇り、鬱々としたものとなる。覗きこむようにして名伽は俺の顔色を窺った。
「そ、そう言えば……鴇織姫はどうしたのだ? 姿が見えぬようだが」
「今日は休みだ。風邪をこじらせてな」嘘である。
「……そうか」名伽は面白くないといった様子で言った。「鴇織姫のことを心配しておるのか? だからそんなに落ち込んでいる。そういうことなのか?」
名伽の指摘はあながち間違っていない。
俺は鴇織姫の身を案じているのだろうか。
YESでもなければ、NOでもない。やはり曖昧である。
そして犯人側の警告。
それは実に効果的な脅しだった。俺と鴇織姫の穴をうまく突いている。右梨祐介のことが露見すれば、俺たちの立場は社会的に危うくなる。勿論俺たちが右梨祐介を《殺害》したという、確然たる証拠はない。ないが、精神的なダメージは計り知れない。
絶妙なさじ加減。贈り物の主は頭の回転が速い奴なのだろう。
ともなればこの怪人物は、梅雨利空子を突き落した犯人と同一人物なのかもしれない。梅雨利の推理は大当たりというわけである。
七不思議の裏には何かが暗躍している。
怪物や物の怪といった類ではない。
紛れもない人間なのだ。
それがなおのこと恐ろしくて、何もかもが曖昧な自分が嫌になる。
「それもある」またも曖昧に濁し、「ただ気分が乗らないだけだ」と言った。
「……五月病というやつだ。気に病む必要はない」と俺を元気付けたいのか、名伽は快活と笑った。
その心遣いが嬉しくて、「ありがとう」と謝辞を述べる、すると、「礼には及ばぬ」と名伽らしい返事が返ってきた。
名伽意味奈は。
強いのだろう。俺なんかとは比べ物にもならないくらいに。コーヒーを砂糖なしで飲める人間なのだ。
明敏で生産的な名伽が羨ましい。鋭い慧眼を持つ好人物である。
名伽は優しいから俺を心配してくれる。
それ故に、自分の弱さを突き付けられるようで、より悲しくなる。
「――嬉しいな」
「へ?」
「嬉しいのだ。こうやって君と話すことが、どうしようもなく嬉しいのだ」名伽は微笑んだ。知性を感じさせる瞳が俺を見る。
こそばゆくなって、視線を逸らす。唇を緩めて、名伽は言った。「君といると、その……心が温かくなる。なんとなく安心できる。もっと傍にいたいって、そう思うのだ」
面喰ってしまう。なんで鴇織姫と同じことを言うのだろうか。
「そもそも凍鶴は不愛想すぎる。もっとこう穏やかに接すれば、みな君の素晴らしさに気付くと思うのだ。凍鶴楔はこんなにも優しくて良い奴だったのか、という風にな。私はみなに知ってもらいたいのだ。凍鶴楔は思っているほど悪い人間ではないと。他者を慮る寛容な人間なんだと」
「だいそれてるな。俺はそんなんじゃないさ」反論する。それは幼稚な感情から来るものだった。
「謙遜するでない。凍鶴はそこら辺の男よりもはるかに価値のある男だと私は思うのだ。姉上も君のことをなんだかんだで買っておるくらいなのだからな」
「名伽先輩がか?」信じられなくて、俺は苦笑を漏らしてしまう。空から象が降ってくる方が現実味がある。
「空から象は降らないぞ」
「だろうな」と、それきり口を閉ざす。
吹き抜ける風は清爽としていた。田圃には野ざらしになった案山子が立っていて、所在無さげである。
名伽との静寂は心地よくて苦にならなかった。それは一重に、名伽の穏やかな性格が起因しているのだろう。
「――私に姉がいることは知っておるな?」
と。
名伽花魁は唐突に言った。
「ああ、知ってるけど――いきなり何だよ?」
「実はな」と名伽は言いにくそうに口を閉ざした。
俺は名伽の言葉を待つ。名伽の雰囲気から、神妙なものを察知したからだ。
「私には名伽花魁のほかに――もう一人。姉がいた」
過去形で語られていることへの居心地の悪さ。
「……初耳だな。日和見村から出て行ったのか?」そう訊いてみる。年齢的に考えれば、その姉は大学生くらいのはずだ。日和見村には大学がない。よって大学に進学するには、この村から出なければならないのだ。
ひょっとして、大学生か?
なんて言ったら、名伽は苦しそうに唇を噛み締めた。
「違う。名伽家の長女――名伽狭霧は――五年前に行方不明になった。で、今日がその日でな」
俺の心に冷え冷えとしたものが流れた。自分の無神経さに嫌気が差す。しまった、と気付くのが遅すぎるのだ。
「……すまん。無責任なこと言って」
「別によい。君がそう思うのも無理もない話だ」
名伽は気丈に笑う。それが作り笑いだと気づくのにさほど時間はかからなかった。
「無理しなくていいよ、辛いなら辛いって言わないと相手に伝わらない」
俺は鴇織姫の請負を使ってみた。この状況にピッタリだと思ったからだ。
「凍鶴……」
毅然とした表情は決壊していて、名伽の目は潤んでいた。
体が重いと思ったら、名伽は俺に抱きついてきた。うっすらと涙を流して、嗚咽を漏らす。
「……名伽?」
「怖かったのだ。あの綺麗で寛大な姉上がいないことが、どうしようもなく怖かったのだ。困った時には助けてくれて、頑張れば褒めてくれて、私の頭を撫でてくれて。私はどうしようもない寂しがり屋なのだ。私を気にかけてくれる人がいないことが嫌だったのだ。私の大切な人が遠ざかるのがすごくすごく悲しくて。これだけ好きなのに、これだけ愛しているのに、姉上がこの世にはいないなんて虚しすぎる。神はなんと残酷なのだ。なぜ私の大切な人を奪うのだ。逢いたい。狭霧姉さんに逢いたい。逢いたくて堪らないのだ」
慟哭だった。名伽は喘ぐように涙を濡らす。
しばらくの間名伽に泣き着かれて、どうすればいいのか分からなくて、途方に暮れていた。
強い人間はいても、強くない人間はいない。
弱い人間はいても、弱くない人間はいない。
人は必ずしもどこかで強さを秘めているのだから。
人は必ずしもどこかで弱さを秘めているのだから。
強さを持たない人間なんていないし、弱さを持たない人間もいない。
だから。
名伽が弱いなんて思わない。むしろ、ものすごく強い人間だと思うのだ。
けれど。
報われない思いを持つことは不幸なことなのだろうか。
だとしたら――哀し過ぎる。せめて、その先に別の答えがあればいい。それにわずかばかりの救いがあれば、人は生きていける。自分の弱さを認め、強くなることができる。
そう思うのは傲慢だろうか。虚構に他ならないのだろうか。そうであってほしい、という楽観的憶測に過ぎないのだろうか。
それでも。
希望を持つことくらい、罪にはならないはずだ。
感情が収まったのか、名伽はゆっくりと俺から離れた。
「……済まない、見苦しいところを見せた」
「見苦しくなんかねーよ」言葉は無意識に出ていた。「大切な人が死ぬのは、誰だって嫌だよ。俺だって嫌だ。悲しくて堪らないさ。目を逸らしたくなるし、現実逃避だってしたくなる。それでもその過去は一生自分の後ろをついてくる。目を背けたところで、逃げたところで過去は変わらないんだよ。けど名伽は強いよ。家族の一人が欠けてしまった現状をちゃんと生きてる。過去を過去として認めてる。それは恥ずかしいことじゃないんだ。むしろ誇っていい。恥ずかしがるなよ。辛い過去を背負って今を生きてるんだ。過去を未来に繋げようと孤軍奮闘してるんだろ。それでいいんだよ。大事なのは過去じゃない。未来なんだ。誰も名伽のことを責めることなんかできないに決まってるんだよ」
……言ってて羞恥心を煽るセリフは多々あるが、まさにそれだった。
急激に顔が赤くなるのを感じる。脈拍数が上昇。俺はバカか。
「……やっぱり君はお人好しだ。優し過ぎる」
「やめてくれ。俺はそんな人格者じゃない。ただ、両親の死に重なっただけだ」
「君も家族の死を抱えているのだな」
ぽつりとそう漏らし、清涼とした蒼穹を仰ぎ見る。「空は青い。きっと私が死んだところで、この青さは変わらぬだろうな」
「縁起でもないことを言うなよな」
「だが真実だ」
真実が残酷なのは分かってる。けれど、かといって虚構に縋るのは愚かな行為だ。
少なくとも名伽意味奈という人間は、自分を偽らない。それだけで十分に思えた。
それはちょうど、紺碧の空のように澄んでいて、混じり気のないものだと思う。