表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神隠しが起こる村  作者: 密室天使
第一章 【ブッキング】
2/42

第二話 四月二十二日 続

 四月二十二日。火曜日。


 私は自宅の書斎にいた。腕に力を入れ、ガラガラと机の引き出しを開ける。

「ああ~」

 私は恍惚にも似た表情を浮かべる。瞳がとろんとなって行くのを感じる。私は麻薬中毒者のように焦点の合わない目で机の中にある一枚の写真を見る。そしてゆっくりと慎重に割れ物を扱うみたいに大切に取り出す。 

 親指と人差し指で挟むように持ち上げ、机の上に置く。

 その写真には■■■が写っている。見ているだけで、自然に顔がほころぶ。最高だ。

 この写真は今まで私が収集した写真の中でもずば抜けて出来が良かった。写真の画質はおろか、単なる付属品に過ぎない背景ですら、■■■の存在を一層引き立ててくれる。何よりいいのがこの表情。

 完璧。

 普段の■■■とは見違えるほど儚く、今にも壊れてしまいそうなほど脆い表情。極めつけは控えめに笑うその姿。

 私はほうけるようにずっと■■■の写真を眺めた。■■■の姿を見るだけで、私はこの醜い世界から抜け出すことができる。

 そして、■■■と私しかいない世界――つまり二人だけの楽園(エデン)の感傷に浸ることができる。

 この世界の嫌なこと。

 この世界の辛いこと。

 その全てを忘れることができた。

 気がつくと三十分が経過していた。それだけ■■■の魅力が素晴らしいのだ。

 私はその写真を財布にしのばせ、椅子から立つ。


 いつも君のこと見てます。


 私は――見る。観察する。

 ■■■。今日は私に何を見せてくれるのかな?




          ○○○




「そういえば、凍鶴(いてづる)。今日の放課後は空いているか?」

 名伽意味奈(なとぎいみな)は遠い目でそう尋ねた。

 名伽の視線は山稜から山麓(さんろく)へと、縫うように動いていた。

 否。

 というよりも、意図的に視線を外しているといった方が適切である。

「もしよかったら、今日も付き合ってくれないか?」

 俺は自然と絆創膏がはってある右腕をさすっていた。「稽古台か?」若干に苦笑いを溢し言う。「名伽は手加減というものを知らないからな」

 と。

 頬を緩ませて。

 そっと名伽の方を見る。

「私にそれを要求するとはお門違いもいいところだ。――私はただの三流なのだから、粗雑な点は勘弁してほしいものだよ」

「三流なんかじゃないさ。毎日呆れるほど剣道に励んでいるじゃないか?」

 それは前々から思っていたことだった。

 思うにこの一顧傾城の女――名伽意味奈は常軌を逸脱するほどの気真面目ちゃんである。

 万全の態勢で何事にも真剣に望み、何らかの失態を犯せばできる限りの改善を行う。それは特に剣道にいえることであり、日々鍛錬を欠かさず切磋琢磨している。また彼女は上述の通り剣道部に所属し、その技能は他の部員と一線を画す腕前である。

 常に謙虚。容姿も剣術の腕も上の上。

 才色兼備である。

 余談だが、俺は剣道部が休みの時名伽との組手に付き合っている。

 彼女曰く、「体がなまる」

 だとか。

 いや、なまらないだろ。

 外見も恥もなく、ただひたすらに自分を磨いていく。

 高材疾足(こうざいしっそく)

 手練手管の人格破綻者――梅雨利空子(つゆりそらこ)ですら一目置くほどの際物である。もっとも名伽意味奈を、徹底徹尾、終始一貫して終わっている梅雨利空子とを同列にくくること自体間違っているのだが。

 とはいえ。

 双方とも性格に難がある。

 という点ではまさにその通りである。



「少しくらい休憩を取った方がいいんじゃないか? 鍋を煮詰めすぎたら沸騰するだろ? 何事も加減が重要なのさ」俺はクックと笑った。「少しは体調に気を遣ったらどうだ?」

 俺と並列して歩く名伽は、背中に差してある朱子織りの布にくるまれた竹刀を、やや不機嫌そうに撫でた。心外な、といった態度。

 名伽は言う。「私は大丈夫だ。それにこれは稽古ではない。強いていうなら息抜きだ。君との組手は実に程よい」

「強いていわなかったら、ただの鍛錬だけどな」

「そう軽口を叩くな。君だって、少なからず役に立っているだろう? 無病息災の基礎は日々の鍛錬から始まるものだ」

 名伽は破顔一笑した。

 確かに名伽との稽古を始めてから、俺はいまだかつて病気というものを経験したことがない。もし彼女との組手が健康促進の端緒を担っているのだとしたら(実際、その通りだと思うが)、俺としてもありがたい話だ。少なくとも通院代という側面から見れば、経済的に助かっていることは疑いようもない。それだけ紀一郎(きいちろう)おじさんの負担が軽減されるなら、それに越したことはない。

 ただ名伽が裏面上の恩恵を念頭において、(当然のことながら)組手をしているわけではないのだろう。単純に《なまるから》が理由だ。快刀乱麻を断つとはまさにこのこと。

「そりゃあそうだけどな。……って今鍛錬といったな?」俺は意地の悪い笑みを浮かべて、「程よい息抜きじゃなかったのか?」と話を蒸し返すようなことを言う。 

「……君は意外と根深いんだな。そんな些細なことを」

 あきれる名伽を見てプハッと笑う。子供みたいにすねる名伽が思いのほか壺に嵌った。無表情でどこか難しい表情が常で――決して情緒が無味乾燥しているわけではないけれど――感情の起伏があまりない名伽にしては珍しい顔。 

「すまん、俺が悪かったな」小さい笑みを添えての謝罪。

 名伽は静かに笑う。

「別にかまわないさ。それに事実、君のおじさんから感謝の餞別を承ったぞ。我が子が世話になってますとな」

「……それは羊羹(ようかん)だったか?」

「そうだ」

 俺はそっと探るような口調で言う。「その羊羹の中に栗は入っていたか?」 

 当たってくれるなよ。

 心の中でそう祈る。世界の全因果を司る存在――神でも何でもいい。過ちがあるなら上書きを。ないならそのままの未来を。

「いや、入っていた気がする。誠に美味だった」

 それを聞いた俺は愕然となる。因果(カルマ)を行使する何者よ、ただちに過去を修正することを命じる。

「ああ、それ俺のだわ。折角商店街に行ってまで買った限定品なのに……」

 どうりで冷蔵庫の中を血眼になって探してもないわけだ。紀一郎おじさんのことだ。出自や所有者のことを特に考えることなく、名伽の武家屋敷に輸送したのだろう。紀一郎おじさんらしいうっかりといえば、それまでだが。

「そそ、そうだったのか? すまない。舌鼓を打たせてもらった」すまなさそうに言葉を濁す。「さぞ君も食べたかっただろうに。後日埋め合わせをさせてくれ」

 俺は首を横に振って答える。「別にいいさ。元々名伽に送るつもりだったしな。日頃の感謝を込めて――なんて」それは半分本当で半分嘘だ。「たまには一緒に和菓子を食べるのもありかなと」

 まあ、羊羹のやつも本望だろう。紆余曲折を経ての任務達成だ。

「なおさらすまない。私も君と一緒に食したかった」名伽は小首を傾け――無意識にやっているのだろうか――ものすごく綺麗に――クシャリと顔をしかめた。おかしな語だ。

「では、今日の稽古後に馳走でも振る舞おう。腕によりをかけて作らせてもらう」

「それは楽しみだな」俺はシニカルな表情を作った。「その頃には散々名伽に絞られて、グロッキー状態だからな。腹ぐらい空くさ」

 苦笑を漏らし、腹部を押さえる。同時に一か月前の不覚を思い出す。あの時の空中回転蹴りの威力は、臨死体験と共に脳髄に焼き付いているだろう。

「ありがたく頂戴するさ」

「……本当、君は根深いな」




          ○○○




 右梨祐介(みぎなしゆうすけ)雨稜(うりょう)高等学校の化学科教師である。今年入ってきたばかりの新参者で、それだけに結構若い。そして、俺の所属する2-1組の担任でもある。


「――ホームルームは以上だ。それと凍鶴。この後科学室に来い。実験器具の準備だ」


 髪をきっちり7・3に分けた新人教師は、そんな理不尽なことを言う。先生からの命令だ。追従するしかないだろう。「……分かりました」蚊が鳴くような声でぼそりと呟く。

 それが癪に障ったのか、「何だその態度は?」と刺々しい口調で追及する。そして言い訳のような文句を口にする。「仕方ないだろう? 理科担当の教科係が欠席してるんだ」右梨先生は横暴に言う。怒りっぽいならカルシウムを摂った方がいいと思う。

 しかしそんな生意気なことを言えるはずもなく、黙って是認する。せめてもの抵抗で、視線を先生から窓へと移した。渦雲のかかった山頂とふもとの山林。

 右梨先生はいらいらした風に、「ふんっ」と鼻でつき、事務的な挨拶でホームルームを終えた。嚇怒したような先生が退室することで、どこか気まずい雰囲気が弛緩する。

 ここ最近、やけに突っかかる右梨先生。俺に対する言動一つ取っても、まるで親の仇といわんばかりである。

 時刻は八時五十分。あと十五分で授業開始である。

 そして。

 2-1組の一時間目は。

 科学。

 俺は漠然とした不満を抱えながらも、科学室へと向かった。



 途中、同じクラスの名伽から「手伝おうか?」と、非常に嬉しい提案を受けたが、丁重に断ることにした。理由は不明だが、俺は右梨先生に目を付けられている。その渦中に名伽を巻き込むつもりはない。俺の友人に下手なとばっちりなんかが食らったら、俺としてもやるせないし嫌だからだ。彼女まで俺と同じ思いをする必要はない。




          ○○○




 三百人程度の生徒を収容する割には、やけに広い廊下を歩き、老化の激しいドアを開ける。

「……失礼します」

 俺は慎重にドアを閉め、科学室へと入室した。

「凍鶴か」

 蛍光灯独特の人工的な光。それに彩られた右梨先生は、不快そうに言った。「さっさと運べ」右梨先生は机に鎮座した、丸型フラスコや試験管などを指差した。「各班に一つずつ。勿論丁寧に扱えよ。バカにならない値段だからな」

 そんなこと言われなくても分かってる。

 俺は胸中で悪態をついて、フラスコを手に取った。いかにも脆そうだが、耐熱加工の施してある高価なやつだ。俺は神経を張り詰めて、実験器具を各机に置いた。

 右梨先生の挙動にも気を付けて。


「――凍鶴」


 大体の仕事が片付いた後、右梨先生は不意に俺の名を呼んだ。「何ですか?」建て前にそう言い、右梨先生の方を振り返る。その際に時計を盗み見る――九時。五分後に授業が始まる。

 右梨先生は躊躇うような素振りを見せるも、「お前、()()()()()()()()?」と、ありえない質問をぶつけてきた。

 おいおい。

 本気かよ。

 俺は周章狼狽を隠せなかった。「なっ、いきなり何を――」

「答えろ。いるかいないのか。今はそれだけでいい」

 今はそれだけでいい?

 ってことは、こんなバカげた質問をまたするつもりなのか?

 致命的な違和感。先生は何がしたいんだ?

 渋々答える。「いません」

 間髪いれずに、「それは本当か?」右梨先生は神妙な面持ちでそう訊く。「お前は真実を述べているのか?」

「何でそんなことを訊くんですか?」

 当たり前の質問を口にした瞬間、右梨先生は突如として般若のような形相を呈した。

 まるで、その先は越えてはならないと警告するかのように。

「意味はない。私の質問は断じて意味を持たない。そもそも全ての事象に何らかの意味が付随するという考えは極めて愚鈍だ。言いかえれば人間の悪癖だろう。愚問愚答にもほどがある」痰を吐き捨てるように言う。「全ては空即是色(くうそくぜしき)なのだよ。人間は常に意味を求める。真に意味のある事柄など、この世に存在しないのにだ――」


 キーンコーンカーンコーン。


 どこかちぐはぐなチャイム。気がつけば、科学室には数人の生徒が入室していた。みんな不思議そうな面持ちで俺と右梨先生を見つめる。

 右梨先生は気まずそうに、ゴホンと咳払いをした。

 この話を打ち切る。

 言外にそう伝えているようだった。俺も話すことなんてない。黙って引き下がった。

 これで俺と右梨先生との会話は一時中断という形を取った。




          ○○○




 一時間目の化学は、これといった異状もなく淡々と進行していった。授業をしているというより、退屈な講義を受講しているようだった。一応実験らしいことはするが、結局のところ大部分が板書だった。

 時は緩慢に進み、気がつけば授業終了まじか。俺は頬杖をつき、巡遊する時計の秒針をぼんやりと目で追った。授業なんかろくに聞いていない。先般、右梨先生の奇妙な言動が頭を離れないからだ。それにストーカーのこともある。

 もしかしたら、今この瞬間にも盗撮されているかもしれない。

 そう思うと、気が気でない。

「起立、礼」

 学級委員長の誰かがそう言った。「ありがとうございました」みんな教科書や筆記用具を持って、銘々退室する。

 いつの間に終わったのだろう?

 ふっと自嘲して、席を立ち上がった。

 と。

 肩から衝撃。

 それが決定打となって尻餅をつく。その拍子に、相手の筆記用具がリノリウムの床に散らばった。やかましい音。同時に、鼻腔が柑橘系の甘い匂いを捉えた。

 俺は慌てて立ち上がり、「だ、大丈夫か?」と衝突した相手に声を掛けた。瞑目して薄暗かった視界が広がり、相手の相貌を確認する。

 そして。

 著しく瞳孔が拡大した。


「大丈夫ですよ」


 彼女は泰然と、艶然と、毅然と、悠然と、凛然と、超然とした態度で。 

 言った。

 辺りが少し騒がしくなる。

「おっ、織姫(おりひめ)っ! 大丈夫だった?」

 取り巻きらしい女子生徒の一人が、心配そうな声色でそう問うた。「怪我はないから」織姫と呼ばれた女子生徒は、にこやかにほほ笑んだ。

 彼女は()()()()()()()()()()()()

 赤髪がかった茶髪も、青く澄んだ瞳も。

 決定的に、圧倒的に、理性的に、哲学的に、魔術的に、究極的に、徹底的に、暴力的に、偏執的に。

 彼女は。 

 完璧だった。

 彼女は立ち上がり、パンパンとスカートについた埃を払った。不時着した筆記用具を回収する。そして彼女の()が移動した。

 それはつまり。

「君は大丈夫だった?」

 目が合う。

 ということだった。

 反応に遅れる。中枢神経が麻痺したような錯覚を覚える。

 急いで言葉を発しようとしたその時。

「次は気をつけようね」

 彼女はまるでそれを見通したかのごとく、造次顛沛(ぞうじてんぱい)と言った。

「あっ、ああ、分かった」俺は金縛りにあったみたいに動けなかった。「今度は気をつけるよ」喉が渇く。脳に酸素が回ってこない。

「睡眠不足だった? だから前方が不注意になるんだと思うよ」

「それは忠告か?」

「き・ず・か・い」悪戯っぽく笑うと、颯爽とこの場を離れた。その後ろ姿を目で追う馬鹿な男子生徒とその他の有象無象。 

 俺は転倒による痛覚も忘れ、茫然自失となっていた。


「やっぱり、鴇織姫(ときおりひめ)はかわいいなあ」「ヤバイ、惚れる」「おい、みんな知ってるか? 新聞部のあれ」「あっ、あれ?」「お前知らねーのかよ。非公式のミスコンだよ、ミスコン」「めめめ、めっ、女神が降臨なすったあっ!」「凍鶴の奴、狙ってぶつかったんじゃないのかあ?」「策士だな、策士」「名伽がいるのに、もう一人手を出すのかよ」「新天地開拓だな」「あの名伽意味奈を抑えての一位らしいぞ」「前島うるせーぞ」「学園の男子全員の投票でな。二位と僅差らしいぜ」「好みだな、好み」「二人ともすっげぇ美少女だからな」「両手に花か。凍鶴許すまじ」「おっと、いっておくが俺は鴇織姫派だな。聖壇に誓う」「誰もお前の意見なんて興味ねーよ!」「ェェエクスッッタッシ―ィィッ!」「俺は断然、名伽だな」「なっ、敵対勢力の台頭かっ!」「前島っ! 騒ぐなぁ!」「俺はそれでも鴇織姫を愛する」「はいはい、言っとけよ」「ぼぼぼぼぼっぼ、ぼくもぉぉぉぉ、ととと、鴇、織姫をぉぉぉ愛するゥう、ぞぉぉぉぉっこ!」「ああもう、前島は黙っとけ!」「委員長が切れた! これは一大事だ!」「全員避難しろ! こうなった委員長は誰にも止められない!」「俺を除いては」「坂田ぁっ!」「救世者だな」「ややっや、っだだ、ダイナマイトぉぉぉ!」 




          ○○○




 屋上に人影はなく、閑散としていた。鉄格子からは、深々とした雑木林を抱える幽谷が鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)と嘆くだけである。上界の蒼は縹々(ひょうびょう)と雲路を残し霧散。そして渺々(びょうびょう)と雲散するのだった。細長くなびく豊旗雲である。

 時間帯は昼。学校での区切りでいうなら、今は昼休み。

 俺の昼食は決まって購買部のパンで、場所は当然のように屋上が常だった。そこで俺は当たり前のようにパンを口に運び、行状坐臥(ぎょうじょうざが)のごとく惰眠をむさぼるのが自明の論理だった。

 ルーチンワークに組み込まれた動作。

 と。

 換言することもできる。

 ゴロンと体を横に倒し、青のパステルカラーを仰ぐ。青空との距離感が曖昧になる。手を伸ばせば雫で飽和する雲を掴めそうでいて、目の前の空気が逃げていくような感触。

 

 屋上を使用できる人間は極めて限られている。教員やその手の業者は可能だがその反面、生徒が無断に侵入することは禁止されている。理由は分からないが、校則上の理由から生徒が屋上に出入りすることができないのである。

 が。

 光が差せば影ができるように、物事には必ずといっていいほど例外が存在する。例外とはつまり、その集団や組織を総括する規則から外れた事象・事物のことで。

 つまり。

 俺のことだ。

 俺にのみその制約や規律は破綻し、空を満喫できる自由を得ることができるのだ。といえばいい過ぎで、得てして傲岸不遜(ごうかんふそん)、得てしなくても倣岸不遜である。

 とまあ、長々と片言隻語を大げさに語ってきた俺だが、これにはある語弊がある。

「――全てこの合鍵のおかげって言われたら、詮方ないな」

 俺はポケットから取り出した銀の輝きを皮肉った。皮肉とは諧謔(ユーモア)とイコール関係にあるが、上記は断じてユーモアを含んだものではない。諧謔ではあるがユーモアではなく、そもそも笑わせる意思も、意志も、遺志もない(少なくとも諧謔った、とは言わない)。ただの与太話だ。

 始まりもなく。

 続きもなく。 

 終わりもなく。

 過不足もなく。

「俺は傍観者である、か。――笑わせるぜ。それこそ与太話だ」

 愚痴とも独り言ともつかない言葉を吐く。それが仮に前者であっても後者であっても、はたまた両者の境界線上にある中者であっても。

 残念なことに。

 俺は。

 理由もなく。

 意味もなく。

 意図もなく。

 目的もなく。

 条件もなく。

 回遊魚のごとく辺りを遊泳する。これといった未来予想図もなく、淡々と自堕落に毎日を消費していくのだ。いや、回遊魚が海を遊泳する理由は、自己生存からくるもので、そこには揺らがない主観性がある。しかし俺の場合は、《何のために生きるか》ではなく、《生きるために何をするか》であり、それには最低限の衣食住が必要であるという定義さえあればいい。

 


 ――凍鶴君ってさあ、割と無気力な人間だよね?


 前に梅雨利空子から言われた台詞その一。


 ――なんていえばいいのかな? 達観してるって言うか第三者に徹してるっていうか……。とにかく主体性がないよね? 割と。流されるままに生きてきましたオーラ全開だよね? 完全に気功(チャクラ)開いてるよね? ……開いていないし開眼もしていない? あっそ。とほほ。話が脱線したね。今のは間違いなく大規模の事故に発展してるくない? ――臨時ニュースです。ただ今乗客百人を巻き込んだ脱線事故が発生しました。現場の大木さん、みたいな? 何だろう? 君はあまりにも私に似過ぎている。類似している。酷似している。フラクタル的な相似だよ。 


 その二。


 ――その浮世離れした雰囲気とか、隠者みたいな厭世感とか。妙にしっくりくるんだよねえ。私と。もしかして私と君って異兄妹的な裏設定とかあるの? 劇的なクライマックスとかあるの? 冒頭シーンはこのための伏線とか? それともカメラ回ってるの? ……回ってねーよ……? ああ、そりゃそうか。またまた話がそれたね。こりゃあ車掌として食っていけないかも。かもかもー。


 その三。


 ――話を巻き戻すよ。つまり、君は何がしたいの? ――ってこと。理由も意味も意図も目的も条件もなく、ただ拱手傍観(きょうしゅぼうかん)を貫く。いや、君の性格や性質を小バカにしてるわけじゃないからね。だって、それは自分を下卑するのと同意義だし。それに、私は人をおとしめて愉悦を覚えるっていうサディスティックな性格や性質はないから。……で、あんたは何が言いたいんだ? って? あちゃあ、一本取られたね。主客転倒(しゅかくてんとう)ってやつかな? さすがは熟練の傍観者だね、観察眼は私のそれより上ってことか。うわあ、私観察者失格だね。――観察者たる私と傍観者たる君との違い。私はズバリそれを論じたいわけよ。分かる? 判る? 解る?


 その四。


 ――私と君。観察者と傍観者。確かに性格的に性質的に類似してる部分は多いよね? 相違点が皆無と言い換えることすらできる。けどね、君は――傍観者なんだよ? いかんせん君は傍観者であり、とりあえず傍観者であり、差し迫って傍観者であり、つまるところ傍観者であり、なんだかんだで傍観者であり――結局のところ傍観者なんだよね。孫悟空は釈迦の掌で何を思ったのか? 蜘蛛の糸から見放されたカンダダは何を欲したのか? 自分の娘の死を体験した絵仏師良秀は何を望んだのか? 高瀬舟の上で常識を問うた同心庄兵衛は何を願ったのか? 傍観者たる君には分かるんじゃないかな? 私に分かるんだから、君も分かるよね? 分からないはずないよね? 判らないはずないよね? 解らないはずないよね?


 その五。


 ――私にとって世界は、認識し見識し眼識し鑑識し意識し、そして干渉し、鑑賞し、観賞し、感傷し、観照するためだけにある。変化し、変容し、変質し、変革し、変遷していく世界を観察するだけ。だから私は観察者。けど君は違う。認識し見識し眼識し鑑識し意識し、それでもなお何もしない。改造も、改変も、改心も、改革も、改正もしない。世界はただ傍観するためだけにある。とでもいいたいのかな? だから君は傍観者。そこが決定的に違う。受動的に日常を繰り返すだけ。もうそろそろ白黒つけてもいい頃だとは思わない? 故に私はこう尋ねようと思うの。


 その六。

 

 ――君は何がしたいの?


「それは俺の台詞だっつーの」

 あの時はたちの悪い妄言だと一蹴したが、今になってみればそれなりに的を射ている。少なくとも毎日を受動的に生きている、という点は符合している。

 梅雨利空子。

 俺の知りゆく限りの、歴史上類を見ない言語破綻者。

 本人曰く、観察者。

 歴史を見表す――それが観察者。

 経過を見送る――それが観察者。

 真実を見出す――それが観察者。

 過去を見下す――それが観察者。 

 現在に見入る――それが観察者。

 未来を見切る――それが観察者。

 他者を観察することに特化した、俺にとって理解不能な存在。

 人であるべき何かが欠落して、欠如して、欠陥して、欠乏している女。

 梅雨利空子。

 おそらく世間一般の見解としては。

 意味不明な美少女。

 となるだろう。

 幸か不幸か今は病院の上でおねんねだから、むやみやたらに干渉される心配はない。もうしばらくは安寧である。

 俺はポケットから財布を取り出す。特徴は黒塗りで小型。市井によく出回っているタイプのやつだ。ストラップも装飾品の類は見当たらない。

 極めて普通な財布だ。

 否。

 きわめて特殊な財布だ。

 なぜなら。

 俺はごそごそと財布に手を突っ込み、一枚の写真を取り出し言った。

「拾った財布に、俺の写真なんかが入ってるわけないよな」 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ