第十九話 五月七日 続続続
屋上で名伽花魁と別れた後、俺と鴇織姫はとある喫茶店に寄っていた。雨稜高校から徒歩二十分くらいのところにあって、名伽花魁から勧められた店である。
織姫ちゃんはともかく、君は態度が曖昧すぎる。これからについて話をつけておいた方がいい。私が懇意にしている喫茶店を紹介してやるから、そこでどうにかするのだ。
そう言われてしまえば、頷くしかなくて、痛いところを突かれたなと思う。名伽花魁の言うことは実に的を射ている。真実と向き合うことを拒む俺には酷な言葉である。
渋々名伽花魁の提案に乗り、喫茶店『フィート』に入店した。客はまばらで、落ち着いた雰囲気。窓際のテーブルに腰を下ろす。窓ガラスから鄙びた田園風景が広がる。向かい側には鴇織姫が座っていて、機嫌がよさそうだった。
「ご注文は何になさいますか?」
俺と鴇織姫は異口同音に、「コーヒー」と同時に言って、鴇織姫は恥ずかしげに俯いた。「通じ合ってるね、私たち」と頬を紅潮させる。
「かしこまりました。コーヒーをお二つですね」俺たちの睦み姿を微笑ましげに見て、若い店員は踵を返す。「睦んでません」と言いたかったが、店員は厨房に行ってしまい、言えず仕舞いだった。
静寂を諫めるようなジャズの調べ。深々としていて、天井ではヒーリングファンが回っていた。
「クーちゃんは七不思議をどう思う?」と鴇織姫は尋ねる。声量は小さいが、凛と響く清涼とした声である。
「特に変な個所はなかったと思う」俺は判然としないものを感じ、無意識のうちに、「ただ」という言葉を口にしていた。
「ただ?」
「犯人が一度も接触してこないっていうのが妙だ」と眉を顰めて言った。「梅雨利の仮説と符合しない」
それは鴇織姫も思っていることなのか、「そうかもしれないね」と耽るように言った。唇をかわいらしく曲げ、思案顔を作る。そして探るように言った。「犯人が七不思議に何らかの関係性を持っているとして、犯人が七不思議が露見することを恐れていたとして、七不思議を調査する空子に目をつけていたとして、空子を階段から突き落とした――ってことでしょ?」
俺は頷き、鴇織姫に同意する。「仮説に仮説を重ねた砂上の楼閣だな。梅雨利の推理にしては無駄が多すぎる。ただの勘繰りじゃないのか?」
「私としてはそのほうが安全だからいいけど――何かが引っかかる。クーちゃんもそう感じたことない?」
「あるな」断定する。そういう違和感は紛れもなく、ある。
そもそも犯人がなぜ、七不思議に執着しているのかが分からない。それが分からなければ、どうしようもない。
「クーちゃんもなんだ」
鴇織姫は難しい顔を作った。
「お待たせいたしました。コーヒーで御座います」
二人分のコーヒーがテーブルに乗る。「お会計用紙はここに」とレシートのような紙を置いていく。「お砂糖はそちらにありますので、好みに合わせてご使用ください」
丁寧に説明してくれる店員さんに礼を述べ、角砂糖に手を伸ばす。ザラリとした感触。角砂糖は湯気の立つ水面で波紋を描いた。緩やかに溶けて沈殿する。まるで生命が安息に向かっているように見えた。その相様は、入水し水と同化する水死体に似ていた。
それを見た鴇織姫は、「砂糖派なんだ」と悪戯っぽく言った。
「甘いのが好きで、ブラックが飲めないんだ」
「子供みたい」鴇織姫は笑って、コーヒーに口をつけた。「こんなにおいしいのに、もったいないなあ」
もったいなくはないさ。
そう言って、半円形の取っ手を掴む。鼻腔が微香を捉える。糖度が上昇した黒い液体が口蓋に流れ込んだ。
「砂糖を入れた方がおいしいだろ?」
「そんなことないよ。ブラックの方がコクがあるもん」鴇織姫は優雅な仕草でソーサーの上にコーヒーカップを置いた。「大人はブラックで決めるもんだよ」と挑むような目つきで俺を見る。
なら俺は子供なのだろうか。
幼稚で稚拙で拙劣で劣弱で弱小で小心で。
俺は軟弱な人間なのだと思う。柔くて弱い。字面通り、俺は軟弱だ。
「軟弱なんかじゃない!」怒ったように言う。ムスッとした表情で、俺を睨むのである。「クーちゃんは弱くない。むしろ強いよ」
コーヒーを啜る。砂糖で甘くなっているはずなのに、なんだか苦くなった気がする。
「自分を過小評価しないで。もっと胸を張っていいよ。名伽先輩の戯言を真に受けたらダメだよ。あの人はおかしい。人として何かが欠けている。明らかに間違ってる。けど私たちは間違っていない。これがあるべき姿。二人で一つ。自分を責めないで。大丈夫。優しい人はね、強いんだよ。昔お母さんが言ってたもん。クーちゃんは優しいから、強いよ、とっても。でなかったら私、クーちゃんに惚れてないもん。彼女の贔屓目かな、クーちゃんの良いところしか浮かばない。けど、クーちゃんはものすごくいい人だから。それだけは確かだから」
優しい言葉。
俺が落ち込めば、鴇織姫は俺を励ましてくれる。真摯とした態度で、俺を包み込んでくれる。
まっすぐでいて歪んだ愛を傾けてくれる。
歪んでいてまっすぐな愛を傾けてくれる。
ただ。
鴇織姫は。
はてしなく異常。
右梨祐介の件でもそうだ。
異常が正常で。
正常が異常で。
異常と正常の垣根がない。
異常と正常の区別がない。
異常と正常の境目がない。
鴇織姫は俺を手を握って、切々と言った。
「無理しなくていいよ。辛いなら辛いって言わないと相手に伝わらないよ」
鴇織姫はテーブルから乗り出した。右手は俺の手を掴んでいて、右手はテーブルのヘリを掴んでいた。ぼんやりとした目でそれを眺める。まるで画面越しの自分を見ているような、そんな現実感の欠如。
「伝えてくれたら、こうやって慰めてあげるから……」
俺の頬に手を添えて、唇を塞いだ。
周りにどよめきのようなものが走る。客自体は少ないのに、店内で鯨波の声が上がった。
唇を離した鴇織姫は、上気した様子で俺を見た。「ほんとだね。甘いね。うぅ、甘いなあ」
対してほろ苦い味がした。俺はまだ子供だから、苦くてどうしようもなかった。
「鴇」
「織姫だよ。名伽先輩みたいに、織姫ちゃんでも良いけど……やっぱり恥ずかしいよね?」
さすがにちゃん付けは抵抗あるかなぁ。
と言って、ふふふと笑った。「久しぶりにチューしたね。ごめんね、驚いた? けどクーちゃんが私に冷たいから。私にかまってくれないから。なおのこと欲しくなってさぁ。あぁ、私どうしたらいいんだろう」
すとん、と腰を下ろした鴇織姫は、儚げにコーヒーをかき混ぜながら言った。「セックス、したいな。無性にしたくなった。どうにかしてよ。私を癒してよ。火照った体を静めてよ。簡単だから。その手で私を撫でてくれればいいから。今はそれだけでいいから。続きはベットの上でしようね。クーちゃんは言ったもんね。こう言うことは公衆の前でしちゃダメだって。それは私も理解してるつもり。けどダメ。ダメだよ、そんな規則作ったら。欲しい欲しいって体がうずいちゃうから。ごめんね、こんなわがままな女で。けど愛が足りないって思ってさぁ、私我慢は嫌いなの。クーちゃんの愛がないと生きていけないの」
目を伏せて、コーヒーをかき混ぜ続ける。頭が下がっているのは、頭を撫でてほしいという催促からか。
ある意味奇跡だと思う。この鴇織姫という人間の存在は極めて異質だ。
何も言えなかった。どうすることも出来なかった。
打って変わってコーヒーは苦く感じた。
一つだけじゃ足りなかったかな、と思い角砂糖をもう一つ入れてみても、相変わらず苦かった。
○○○
伝統的な日本家屋が視界に入る。
曖昧なままだった。何もかも。状況は変わらず、現状維持を保っているだけ。すっきりしないもやもやは胸中にはびこった。心の中で名伽花魁に詫びを入れる。あんな人でも俺たちのことを考えてくれたのだろう。その思いを無駄にしたのが、堪らなく情けなかった。
喫茶店『フィート』を出た後、鴇織姫に手を取られた状態で自宅に向かった。皮膚から柔らかい感触が伝わってきて、横を見ると笑みを浮かべる鴇織姫と目が合った。端を発して鴇織姫がすりよってくる。肩と肩が当たるほどの距離で、蠱惑的な吐息が頬をくすぐる。
帰宅時の慣行で郵便受けを覗くと、何やら見覚えのあるものがあった。それ見た瞬間、全身の血液が沸騰して、絶え間ない悪寒に襲われた。
「…………」
鴇織姫は無言でそれを睨んだ。表情が険しくなり、繋がれた手が強張るのを感じる。
「これって――」
日記と写真だった。
右梨祐介の。
四月の下旬に山に埋めておいたはずの《鴇織姫コレクション》が、郵便受けに投函されていたのだ。
ポストから見えるのは、様々な表情をした鴇織姫だった。詰め込めるだけ詰めたといった風である。おかげで郵便箱はパンパンで、隙間が驚くほどない。
「クーちゃん」鴇織姫は体を震わせて、俺に身を寄せた。かくなる俺も、恐怖で動けなかった。寒気が全身を貫く。
右梨祐介の悪夢が蘇ったのか、鴇織姫は始終泣きそうな顔で戦慄していた。ありえない、と心で一蹴したが、事実は紛れもなく存在しているのだ。
俺は戦々恐々とそれらに手を伸ばした。このままの状態では、紀一郎おじさんの目にも触れてしまう。これとは無関係の人に余計な迷惑をかけたくはない。それらを掻き出し、ポストの中を空にする。瘴気すら漂っている右梨祐介の遺品は、乱雑に地面に落ちた。土を這うようにして、土の上を滑空する。写真の中の鴇織姫が微笑んだ。
鴇織姫は穢れを浄化するように、それらに触れた俺の手を硬く握った。そのまま額に持っていき、祈祷師のように瞑目する。
ふと目に触れるものがあった。
俺はしゃがんで、一枚の紙を拾った。
それには。
我は全てを知っている。これ以上、学園七不思議に関わるな。
と。
カタカナのような文字でそう書かれてあった。