第十八話 五月七日 続続
「手がかりなしだね」と鴇織姫はぽつりと呟いた。聞こえればそれでいいが、聞こえなくても別に構わないといった声量。
「ないな」俺はどうでもよさげに答える。
「ないな」名伽花魁は不満そうに答える。
事実を言っただけなのに、気分が沈む。再確認という行為は疲弊をもたらす、分かり切ったことを点検するだけの単純作業ではあるが、気は抜けない。この変な緊張感が嫌いだった。それに都合の悪い現実を目の当たりにする覚悟もいる、という近因も存在する。なおのこと嫌いだ。
無意義だけど、無意味ではない。
無趣味だけど、無軌道ではない。
「それは第五の怪談――【戦慄のピアノ】にもいえることだよね? ……なんか面白くないなあ」と鴇織姫はそう言って、俺に体を預けた。頭を上げて、涼味のある空を仰ぐ。雲は広々と遍いており、緩慢と暮れなずんでいた。
面白くない。
それは俺も感じているところだった。
この七不思議は面白くない。
理屈で説明できない不気味さと違和感がある。怪談なのだからそういった感情を抱くのは当然かもしれないが、それとは根幹を異とするもの。瑣末な澱かもしれないが、心のどこかで払拭できていない。
「織姫ちゃんの言うとおりだな。私達は進行も退行もしていない。いうなれば停滞だな」
名伽花魁はそういう割には上機嫌だった。鴇織姫と一緒にいられるのが嬉しいのだろう。しきりに笑みを溢している。
第五の怪談――【戦慄のピアノ】。
放課後。屋上に来る前に俺たちは音楽室に寄った。【戦慄のピアノ】なる噂がどういうもので、どういった経緯を辿っているのか調べるためである。
無駄足に終わる。
第参の怪談――【動き出す人体模型】同様、ピアノを徹底的に洗ってみたのだけど、めぼしいものはなかった。一応名伽花魁が前もって下調べをしていたらしいのだが、それ以上の望みは皆無である。
《戦慄》と《旋律》を掛け合わせてみただけなのかも。
鴇織姫が苦笑交じりに言っていたのを思い出す、案外そうなのかもしれない、と俺は思ってしまう。
澄明な夕陽。淡い夕靄のかかった峰を結ぶのは、緑色の稜線である。
沈黙の後、名伽花魁は言った。「停滞は君の得意科目だろう? どうにかならぬのか」
「なりませんよ。それに俺の得意科目は数学です」
名伽花魁は訝しげな表情を浮かべていた。まるで英語を話す猿を見たかのようだった。「あの制約に縛られた点と線がか? あれのどこが面白いのだ?」
名伽花魁は数学が嫌いだ。
理由は多分、答えが一つしかないという普遍性なのだと思う。ただ嫌いではあるが得点科目らしく、理系の成績はすこぶるいいのである。学年成績も一桁を脱したことがないというのだから驚きで、いまさらながらに神を呪う。それとも人として病んでる方が学習定着率が高い、という不文律でもあるのだろうか。
「雁字搦めになった論理のパズルを解くのが楽しいんです。感覚で言えばゲームに近いですね」と数学科の教師のような口をきく。勿論そんなことを思ってはいない。ただいつも超然としている名伽花魁に反駁したかったからに過ぎない。
「数学などしょせん、利己的なパズルだろうに。それに教育を前提とした数学には絶対に答えがある。なんせ学生が容易に答えを導き出せるよう、狡猾に仕組まれているのだから」名伽花魁は嘯くように言った。「釈迦の上の孫悟空にでもなるつもりか?」
名伽花魁の言い回しは、諷意的で、示唆的で、含蓄的で――あまりにも意味がない。主観的な考察かもしれないが、俺にはそうとしか思えない。割と付き合いは長い方だが、いまだに名伽花魁の本質は図りかねる。観察者の梅雨利空子ならば名伽花魁という存在を解読できそうだが、相当の困難を極めるだろう。名伽花魁は秤にかけることを躊躇わせるような、高雅な品性があるのだ。触れてはいけないような錯覚すら覚えるのである。それに加えて頭が切れるのだから、なおのこと特異な人間に映るのだ。この女の頭はどうなっているのだ? ってな具合に。
未来永劫、名伽花魁の理解者は存在し得ないのだと思う。勿論俺や名伽意味奈も含めて。
言に迷うと書いて《謎》と書く。
他者を翻弄することに長けた名伽花魁は、まさに《謎》の権化たる人間である。なんせ出口もなければ入口もない、ひねくれた性格なのだから。
これは私の個人的な解釈だが。
そう前置きして、名伽花魁は開口した。「もしかして君は――膨大な可能性を嫌悪するきらいがあるのではないのか?」
「は?」
「君は《選ぶ》という行為が嫌いなのだろう? 多岐亡羊を本能的に避けている。君は《迷う》ことは好きだが、《選ぶ》ことは好きではない。君は無作為に楽な方に流れているだけなのだ。それも無視気かつ形而上的に、だ。だから空子に“傍観者”という異名を与えられるのだよ。概括すれば責任感がないということに落ち着くが、それでは誰も救えないぞ」
名伽花魁は視軸を鴇織姫の方に合わせた。「例えば――鴇織姫。君たちはなんだ? どういう関係なのだ? ここままの関係をダラダラと引きずっていくつもりなのか? それではやがて共依存の関係に縺れ込むであろうな。共依存は互いをダメにする典型的な例だ。堕落の一言でしか表現し切れない。二人だけで完結していて、停滞している。その致命的に欠けてしまったものをひっくるめて――終結しているのだ」
「――なっ、何を言うんですか! 私たちの関係がいずれダメになるって言ってるんですか? ……謝ってください。クーちゃんに謝ってください!」
「ここでも凍鶴君を優先するのか」冷めた口調で名伽花魁は言った。ジャギーの入った銀髪は疾風に煽られ、諦観し切った目が俺たちを見るのである。
一陣の風が、タイミングよく足元を滑空する。邑里は鮮やかなオレンジ色に染まり、山の頂上には晩霜がいまだ霞みがかっていた。
「――盲目。極めて盲目的なのだ、鴇織姫という人種は。それは君も理解しているだろう?」
俺の腰に手を回す鴇織姫は気にはならなかった。名伽花魁の指摘が正鵠を射ていたからだ。まさにその通りだと、感服してしまう。
鴇織姫は俺を疑わない。
鴇織姫は俺を拒まない。
鴇織姫は俺を責めない。
恭順な従者のような鴇織姫。
俺の言うことなら多分、何でもきいてくれる。そういった確信が俺の胸襟には、ある。
歪んでいるのだろうか。
俺と鴇織姫は。
男女間とはいえ、明らかに行き過ぎているやり取り。
抱擁とかキスとか。
本物の恋人なら許容される行為だが、あいにく俺たちは本物ではない。本物に見せかけた偽物なのだと思う。
俺はいつの間にか俯いていた。真に異常なのは、心のどこかでそれを好機と認めている俺の方ではないのか?
少なくとも鴇織姫という恋人がいれば、《選ぶ》ことを彼女に委託できる。ことの顛末を傍観することができる。
楽ができる。
唐突に涙が込み上げてきた。《楽ができる》。なんとくだらない理由なのだろう。血で血で洗うという概念と同じだ。異常で異常を塗り潰す。黒で黒を塗り潰しても、黒にしかならないというのに。
ひたすら流されているだけなのだろうか。
自分に嘘をついているだけなのだろうか。
意思というものがないだけなのだろうか。
「クーちゃんに変なこと吹きこまないでください! なんで私たちの関係にケチつけるんですか? 私はこれで満足なんです! クーちゃんといられるだけで幸せなんです! 私はクーちゃんさえいれば幸福なんです! これ以上私たちの世界に土足で来ないでください! 私とクーちゃんを強引に引き離すつもりなんですか? それは無理です、ぜぇーたいに無理なんです! だって、私たちは互いを想い合ってるもん! 離れるわけがないもん! そんなことも分からないんですか?」
俺の体を横から抱きしめるようにして、鴇織姫は怒声を上げた。それは悲鳴のように聞こえて痛々しかった。
「大丈夫。大丈夫だよ、クーちゃん。私はクーちゃんを見捨てたりなんかしないよ。心の底から愛してるよ。愛してる愛してる愛してる! だから元気出してよ!」
鴇織姫の顔があった。心配そうな面持ちで、潤んだ瞳を俺に向ける。
俺と目が合うと、鴇織姫は体勢を変えて正面から抱きついた。背中に腕を回して、俺の胸に顔を埋める。まるで安息を求める雛。安息を求めているのは俺の方なのに。
鴇織姫は願うように、子供をあやすように言う。それは祈りなのだと思う。
永遠の愛。鴇織姫はそれだけを望んでいる。たとえそれが、歪で歪んでいても。
「安心して。私たちは間違ってないから。クーちゃんが心配しているようなことはまず起こらないから。私はクーちゃんのことが大好きで、クーちゃんは私のことが大好きで。それでいいじゃん。周りなんて関係ないよ。だって要らないもん。クーちゃん以外の人間なんてどうでもいいもん。クーちゃんとの毎日はとても幸福だよ。こう、心がポカポカする。クーちゃんの愛が私の中に入ってきて、私の体を満たしてくれる。全然キスとかセックスとかさせてくれなくて、不満は多いよ。もっとそういうことしたいよ。クーちゃんとそういうことしたくてしたくて堪らないよ。だって恋人同士なんだもん。そういうことしたいに決まってるよ。けど傍にクーちゃんがいるだけで私は嬉しいよ。嬉しすぎて死んじゃいそうなくらいなんだから。だから安心して。私を頼っていいんだよ? こんなダメ女だけど、クーちゃんのためなら何でもする。クーちゃんが命令すれば強盗だって人殺しでも何でもする。だってクーちゃんの力になりたいから。ちょっとだけ弱いクーちゃんの支えになりたいから。私じゃ頼りにならないかもしれないけど、辛い時は辛いってちゃんと言ってね? きついならしっかり表現しないと相手に伝わらないんだよ? 私もできる限りクーちゃんを愛するから。大丈夫。どうにかなるよ。私とクーちゃんなら何でもできるよ。最強タッグだもん。最愛のパートナーだもん。しょうがないよ。どうしようもなく好きなんだもん。クーちゃんのことが。クーちゃんのことを考えるだけで……その、むらむらするし、襲いたくなる。クーちゃんが相手にしてくれない時は、一人寂しくガス抜きしたんだよ? 一人は嫌だよ。クーちゃんと一緒がいいよ。クーちゃんにもっと愛されたいよ。クーちゃんの愛が欲しいよ。……初めてセックスした時のこと覚えてる? あれだけじゃ足りないよ。何日もしてないから体が切ないよぉ! 体が勘違いしちゃってるもん。あれが日常になるって、毎日愛し合えるって錯覚してるもん。私の体がクーちゃんの愛を覚えちゃったもん。本能がクーちゃんを欲してるもん。恋しい。恋しいよ。もっと傍に来てよ……」




