第十七話 五月七日 続
生物室の次は美術室だった。第四の怪談――【飛び出るキャンパス】である。
美術室には巨大なキャンパスがある。血のように赤くて、血のように紅い、血のように穢れたキャンパス。それはピカソの抽象画のようで、何が何だか分からない。川なのか山なのか家なのか、判別が付かないほど混沌としている。
ただ真紅と深紅を掛け合わせたような赤。それだけが極限への衝動となって心を突き動かす。正体不明の何かが、耳元でこう囁いているようだった。
死ね。
と。
このキャンパスはあまりにも禍々しく、どうしようもなく曲々しい。まるで血そのもので赤色を代用したような感じである。
それもそのはずで、何年か前の美術部員が吐血しながら描き上げたらしい。その後その美術部員は行方不明になったのだとか。文字通り神隠しに遭ったのである。
そんな曰く付きのキャンパス。これを描いた美術部員の怨念が取りついていて、キャンパスを眺めた人の魂を取るのだとか。
手を伸ばして。
でたらめに狂ったキャンパスから腕が伸びてきて、体ごと持っていく。その腕は驚くほど華奢だが、ものすごい怪力らしい。皮膚が斑模様のように紅い絵の具で汚れていて、血管は透き通っている。その腕に捕まったら最後、待っているのは巡りめく深淵。二度と帰っては来れないのである。
意図は不明だが、こうして飾ってあるところをみると、割と好評なのだろう。神隠しに遭った美術部員の供養という意味もあるのだと思う。それに見るものを引きつける。それだけは確かである。
昼休みは残り二十分。
キャンパスの方に目を向ける。
地獄のような天国のような。
暗黒のような純白のような。
生命のような残滓のような。
墜落した悪魔のような、堕落した天使のような。
飛行した思考のような、非行した嗜好のような。
「さながら凌辱された処女のような絵だな。知っているかね? 処女の血を入れたワインを飲むと不死になれるらしいぞ」と名伽花魁はクックと哄笑した。
「笑えない冗談ですね」と俺は言った。
「同感です」と鴇織姫は言った。
二対一。圧倒的優勢である。
名伽花魁はへらへらと笑った。「処女つながりで訊くけど」と言って、「織姫ちゃんって処女なの?」と尋ねる。
……処女つながりでそんなことを訊けるのがすごい、と俺は思った。
「いや、処女じゃないです。……だよね、クーちゃん?」
それは質問というより確認で、確認というより恍惚だった。
鴇織姫は俺にしな垂れかかってきた。名伽花魁に見せつけるようにして。
案の定、名伽花魁は嫉妬丸出しで突っかかってきた。「にゃんですと? それは聞き捨てならないですなあ」
「聞き捨ててください」俺は懇願した。ゴミ捨て場辺りに。
しかし名伽花魁には聞こえていないようで、艶めかしく舌舐めづりする姿が見えた。「なーんだ、やっぱり初夜はとっくに済ませているのだな。えへへ、凍鶴君が羨ましいずら」
「いい加減にしてくださいよ。それに鴇も、くっつくな」俺は鴇織姫を剥がしにかかった。執拗に絡みついていた鴇織姫は、「ふえぇーん」と泣きながら俺から離れる。
「手荒いねぇ。凍鶴君は荒っぽいのが好みなのかな?」
「変なことを言わないでください」
「クーちゃんが最近ろくに取り合ってくれないから、私寂しいよぉ。寂しい深海魚だよぉ」瑠璃色の瞳が俺を覗く。寂しい寂しいと訴えかけているようだった。芯が強いようで、実のところガラスのように脆い心が垣間見えるようだった。
「大丈夫。凍鶴君に捨てられたら、私が引き取ってあげるから」
それを受けた鴇織姫は感情を昂らせながら言った。「クーちゃんが私を捨てるわけないもん。クーちゃんは私のことを愛してくれるもん。愛は地球を救うんですよ? ――その他大勢の人間なんてどうでもいいけど。私にはクーちゃんがいればいい。愛が私を救ってくれればいいもん。私がクーちゃんの愛さえ受け取れればそれで十分だもん。離さない。クーちゃんは私の檻の中。絶対に離さない。クーちゃんは私だけのもの。それに捨てられてもしがみつくもん。クーちゃんを犯してでも古巣に戻ってもらうもん」
名伽花魁は「あちゃー」と舌を出した。「これは重症だね」とネイティブのポーズをとる。例の天井を持ち上げるジェスチャーだ。
鴇織姫は心的な病を患っている。
恋煩い――なんて言う軽いものではない。鴇織姫の場合、はてしなく常軌を逸脱している。0から1まで、AからZまで、終始一貫して破綻しているのである。
右梨祐介の時もそうだったが、鴇織姫は驚くほど周りが見えていない。禁忌を忌憚なくやってのける。殺人という史上最悪の害悪を、俺という存在で肯定させてしまう。
全てにおいて、俺を基準にして考える。明らかに間違っているのに、無理やりその事実を捻じ曲げる。捩じ曲げて、論理を捏造する。
それが鴇織姫を蝕む病の正体だ。それも無自覚という点からして性質が悪い。
鴇織姫の異常性をうすうす理解したのか、名伽花魁は憐然とした眼差しを向けた。「災難だね」と言外で言っているようである。
ただ。
ある意味鴇織姫よりも特異なのは名伽花魁の方である。方向性は違うが、鴇織姫同様に湾曲している。滅茶苦茶で、目茶苦茶で、メチャクチャなのだ。
軋む雰囲気。
俺は時計を見て言った。「そろそろチャイムが鳴るな。ここから出るか?」と鴇織姫を見て言う。鴇織姫は首肯して、笑顔を浮かべた。
鴇織姫は名伽花魁を警戒しながら、「またね。愛してる」と言って美術室を退出した。俺はどうしていいのか分からなくて、茫然としていた。
「エロエロだな。ここまで行くと君も後戻りはできないぞ」と名伽花魁は神妙な面持ちで、鴇織姫の後ろ姿を目で追った。複雑そうに悄然としており、やりきれないといった風であった。それは鴇織姫をものにできないという“やりきれない”なのか、別の意味での“やりきれない“なのかを判断することはできなかった。
後ろが切り立った崖だってことくらい、卑小な俺でも分かるさ。
俺は名伽花魁のようにへらへらと笑った。
○○○
「――昔々のある日のこと。誰かが天体観測をしようと言いだした。当時の『天体観測部』の全員はそれに賛同し、綿密に計画を立てた。そしてその日の夜。『天体観測部』の部長はなぜか、柵に足をかけ鉄格子を越えたのだ。ともなれば屋上から真っ逆さまに急降下。『天体観測部』の部長はこうして自殺したのだ。換言すれば飛び降り自殺というやつだな。――で、部長の死を間近で見た誰かがこう言ったらしいのだ。――一緒に死なない? とな。その時の部員たちは地面の上で大破する死体を見て、恍惚の笑みを浮かべていたのだとか。墜落死体を見下ろす自殺志願者。それが【見下ろす屋上】の由来なのだ。それで部長を除く六名あまりの部員全員が手をつないだまま屋上から飛び降り、あっけなくその命を散らしたのだ。この倒錯した現状に何の疑問を浮かべぬままにだぞ。実に滑稽な話だとは思わんかね? まるでウロボロスの輪のようではないか。自殺によってつながれた蛇の輪……まあ、象徴するものといえば、無限に連鎖する《死》だけだろうがな。それが原因で『天体観測部』は廃部したらしいぞ。部員がいなくなれば、部活動を存続できるはずもないのだからな。もっとも今は『天体観測クラブ』として鳴りを潜めているが……ふふふふふ、怖い怖い。凍鶴君も注意しないとだねえ」
そう言って名伽花魁は話を終えた。
屋上から見えるのは茫洋たる深山幽谷であった。山林は耀映とした蘇芳色に染まり、遥遠とした様子である。東の空は白く霞み、日和見村は夕焼けに染まっていた。誠に感じ入る情景である。
俺たちは屋上にいた。
本来ならば誰も立ち寄ることはできないのだが、幸い鍵は俺の手の中にある。それと鴇織姫の手にも。
錆付いたドアを開錠し、ひらけた大空が俺たちを出迎えてくれた。
名伽花魁は第六の怪談――【見下ろす屋上】に関する異彩なまでの委細を説明した。
森閑とした景色。俺はこの風景が好きだった。だから昼休みの時はたいていここで時間を潰す。頬を撫でる風が心地よくて、十重二十重に連なる山の頂は心を静めてくれる。日本情緒溢れる風景である。
『天体観測部』の廃部には様々な揣摩憶測が飛んではいたが、どうやらそう言うことらしかった。いつ『天体観測部』が廃部したのかは定かではない。ただその詳細を知る者はとっくに卒業していると思うし、知ったところで何も変わらないのだと思う。
「そんな経緯があったんですね」俺はペン回しのように、屋上の鍵をくるくる回した。「まさかそういう裏があるとは」
「世界は君の知らぬところで回っているのだよ」
「梅雨利みたいなことを言わないでください」と反論すると、名伽花魁は莞爾を浮かべた。この世の因果を司る何かを嘲弄するような、退廃的な笑みである。
「空子か……。あれで良い胸をしているからなぁ。あはっ、触りたくなってきたぞ。空子が恋しいなあ」
名伽花魁は軟体動物のように体をくねくねさせた。両腕を自身の腰に回し、悶々と呻吟する。「うふふ、君は空子の豊満な胸に触れたことがあるかい? あれはいいぞ。一発で天国に逝ける。魔法というやつなのだ。あれを揉み解すとだな、体の芯から興奮する。女の子の胸は国宝なのだ。私もこれまでにたくさんの胸を揉んできたのだが、空子のは特に絶品だった。我が生涯に悔いなしというやつだ。未だに深々と沈む手の感触が忘れられなくて困っているくらいなのだからな。ふふふ、自慰がしやすいのだ。胸は良い。胸さえあればとりあえず生きていけるのだ。凍鶴君。君も織姫ちゃんに、胸を触らせてください、と頼んでみてはどうだ?」
多分OKをくれると思うのだよ。
唇が鋭角的に歪む。先ほどから胸を揉む手ぶりが生々しい。あんたは本当に女なのか? なんて疑問に思うことが名伽花魁には多々ある。
「私のなら自由にしていいよ」
と。
「いや、辞退するに決まってるだろ」と鴇織姫の提案は否決となる。当然の成り行きである。