第十一話 五月五日
世界には《常識》というものがある。
それは倫理であったり、法律であったり、社会通念であったりと、実に様々なものに反映されている。
人のものを盗むなであるとか、放火してはいけないだとか、殺人はダメであるとか。
そう言った人間が守るべき最低限のルールこそが、《常識》なのである。
つまり。
《常識》がなければ、人は生きていけない。
ということ。
話は変わるが。
そりゃ、嘘だ。
――The water of the pond is red.
世間ではゴールデンウィーク最終日。時季的に言えば端午の節句である。
俺こと凍鶴楔は、バスに揺られていた。睡魔を誘う心地よい振動。窓ガラスに頬をつけて、移りゆく風景を眺める。
始まりは一通のメールからだった。
今すぐ病院に来て。
梅雨利空子からのメールにしては簡潔にして明瞭だった。
梅雨利には好き嫌いがある。
梅雨利は“無駄”という概念が好きだ。それも意味のない無駄ではなく、意味のある無駄を何よりの至上とする。嗜好性も指向性も志向性も意味不明だが、とにかく奇を衒う。当たり前のように奇を衒い、とりあえず奇を衒い、なんだかんだで奇を衒う。とにかく奇を衒わずにはいられない、非常識な人間なのだ。
そんな梅雨利にしては珍しい文面。全く奇を衒ってないあたりが、普段とは違う違和感を醸し出している。
まあ、奇を衒わないが故に、いかにも奇を衒った感を出せるのが梅雨利の凄みだが。
病院というのは、我が村唯一の総合病院、日和見病院のことを指しているのだろう。三週間くらい前に梅雨利が入院した病院だ。何でも放課後に階段から落っこちたらしい。それで全治一カ月の大怪我にまで発展したのだ。梅雨利らしからぬ不注意である。おかげで始業式は不参加じまいで、授業は全て欠席している。
日和見総合病院周辺の地理は前に見舞いに来ていたので、大体の位置は把握している。あのときは名伽と共に葡萄と梨をプレゼントしてやったが、今回は手土産なしだ。朝の七時頃にメールが来たのだから、そこら辺は勘弁してほしい。ちなみに今は午前九時だ。そして名伽といえば、剣道部の合宿で不在である。
考えてみれば、非常識な時間にメールをしてきたものだ。
「……てか早朝じゃねーか」
と嘯かずにはいられない。相変わらず非常識な奴だ。梅雨利には他人に迷惑をかけるという概念がないのだろうか?
否。
梅雨利はそれを見据えたうえで、それを看過したうえで、それを理解してうえですっとぼけるから手に負えない。
かく言う俺も、これまでの付き合いで散々思い知ってきたが。
梅雨利空子。
気真面目が体現したような名伽意味奈と対極の位置にいる人種であり、悪い意味で自由奔放だ。
制約に囚われない。
規則に縛られない。
定石に収まらない。
ベクトルは違うが、鴇織姫と似たり寄ったりの人間である。
バス席はほとんど埋まっていた。ゴールデンウィークともなれば、鄙びた村とはいえ活気づく。熱気のようなものが辺りに漂っていた。
田園風景からそれっぽい商店街へと変貌する。活気や喧騒に満ちた日和見商店街だ。
日和見病院は村の中枢である日和見商店街の隅にある。赤十字の看板が目印で、それなりの規模を誇っている。
俺は運賃を払い、降車する。
清掃されたアスファルト。紀一郎おじさんが村長になったのは五年くらい前だが、いつ見ても商店街は小綺麗だ。これもおじさんの努力の賜物だろう。栄光欲だろうか。家族が立派に仕事をやり遂げていると、なんだか嬉しくなる。
今日は珍しく鴇織姫と一緒にいない。
右梨祐介の自殺により休校になってそれからというもの、俺と鴇織姫は番みたいに二人で一つだった。鴇織姫が強引に自宅に誘い、この一週間ずっと二人きり。粘着テープで固定されたようにべったりだった(一方的だったが)。
寝起きも食事も何もかも鴇織姫がつきっきり。夫唱婦随とは聞こえはいいが、実態は全く違うのである。時折愛を確かめ合うような行為を強制されたが、どうにかかわし難を逃れた。
今までに何度か、起床したベットに鴇織姫が潜り込んできたことはあった。しかし今日に限ってはそれもなく、家に置手紙があるだけだった。
私用で出かけます。
これまでに鴇織姫が無断で家を開けることは前例にない。何かあったのだろうか? 首をかしげていると、携帯電話のランプが点滅していることに気付く。
それが。
今すぐ病院に来て。
梅雨利である。
起床時間は七時半。タイミングが良すぎると思いながらも、朝食を食べ鴇家を後にした。鴇家の合鍵はすでに貰っているので、施錠はしておいた。
歯車がかみ合うような感覚。自分が誰かのシナリオ通りに動いている気がしてならない。
俺はポケットに片手を突っ込み、商店街を闊歩した。
○○○
さすがに手ぶらじゃマズイかなと思い、持ち合わせをはたいて林檎を購入した。
日和見病院は七階建てである。
梅雨利空子は三階の304号室に通院している。エレベーターを使い、三階へと向かう。
消毒されたリノリウムの床、すえたような臭い。往来する患者や看護師。「こんにちわ」と挨拶され、十度の角度で頭を下げる。「こんにちわ」
「失礼します」
一言いれて、ドアを開ける。
そこにはベットで上体を起こした梅雨利と、パイプ椅子に座る鴇織姫がいた。梅雨利空子は囚人服のような衣服を着用していて、鴇織姫は涼しげなワンピースを着ていた。そのワンピースは、折れてしまいそうな柳腰を強調させ、どこか儚げな雰囲気を協調させる。痩躯で華奢だが、底知れぬ何かを感じさせる相様である。それは冷然とした覇気か、陶然とした狂気か。どちらにしろ近寄りがたい何かが横溢していることに変わりはないのである。
と。
素朴な疑問に突き動かされ、思ったことをそのまま口にしてしまう。「何で」手に持ったポリ袋を落としそうになる。「何で鴇が?」
それを受けた梅雨利空子は、笑いを噛み殺しながら言った。「状況が飲み込めない、って顔してるね。無理もないか。まあ、座りなよこの色男!」
右足にギブスをはめた梅雨利は、割と元気そうだった。怪我人であることを感じさせない言動。心配して損した。
またその際、反論の言葉はいくつも浮かんだが、黙殺した。いちいち梅雨利の戯言に反応していたら、きりがないからである。
黙って梅雨利の言う通り、収納されていたパイプ椅子を持ち出して広げる。
「あれ、それは林檎かな? 禁断の知識と英知の詰まった恐るべき果実。気が効いてるうえに、エスプリも効いてるねえ。さすがは織姫の恋人だよ」と狼のように老獪と笑い、「こう来ると思って、果物ナイフは机の中に入ってるから、使って構わないよ」と備え付けの机を指差す。
引き出しを開けてみれば、確かに小ぶりのナイフが入っていた。「借りるぜ」といって、林檎に刃を当てる。しゅるしゅると、ナイフが円を描く。
俺はこれでも林檎剥きが得意だ。長年の擬似一人暮しのおかげで、大体の技能はいつの間にか習得していた。過去にも見舞いに来た時に梨を剥いていて、名伽と梅雨利と俺、三人仲良く山分けした経験がある。
「なあ、梅雨利」俺は鴇織姫の方を見て、こう尋ねた。「何で鴇織姫がここにいる?」
すると梅雨利は、ネイティブがするようなジェスチャーをした。見えない天井を持ち上げるようなポーズ。それが、呆れてものも言えない、という意味であることは瞬時に理解できた。
「愚問だね。頭の切れる君らしくない愚問だよ」梅雨利は憫笑に近いものを浮かべ、「それよりも林檎剥いて。お腹すいちゃった」とかわいらしいことを言う。
「はいはい」俺も天井を上げるポーズをして、林檎の皮を剥く。
「それよりも聞いたよ、凍鶴君。とうとう君にも春が来たんだねえ」
今はもう五月である。旧暦でいえば夏に当たる時季だ。
黙っていると、梅雨利は嘯いた。「けどちょっと遅い迎春かな。織姫は高校に上がる時からずっと、君のことを見ていたのに」深紅のリボンで結えてある黒髪が揺れる。「いくら君が傍観に特化している人種でもね、そういうのには鈍感だよねえ。この罪作り!」と言って、二秒後にこう言い直す。「いや、この場合は鈍感男か」
「……それだけ喋れるなら、体調の方は大丈夫だな」安堵のような諦観のような溜息をつく。それは延々と退屈なショーを見せられた観客の反応と似ていた。「それだけ観察できるなら、心配いらねーか」
「やつれてるねえ。織姫の話を聞く限り、凍鶴君は全然織姫に応えていないようだけど、家内は大事にしてやんなよ?」
「紀一郎おじさんは大切にしてるよ」
「……このバカ」
理不尽な罵倒。「俺はバカじゃねえ」と不貞腐れても、悲しくなるだけだった。自分の愚鈍さを自覚してはいるが、これくらいの弁解は許容範囲だろ、と自分を納得させる。こうやって自分を偽っていくんだなと思った。
自分を信じなくて、誰が信じてくれるんだ?
誰も信じてくれねーよ。心の中の独白を一蹴する。
梅雨利は鴇織姫の頬を手で撫でた。「こんなにかわいい超絶美少女が愛してくれてるのにさあ、据え膳食わぬは男の恥って言葉知ってる? 賽の河原で石ころでも積んどけ、この恥さらし男!」
「…………」
豊富なバリエーションで攻めてくるな、と思った。しゅるしゅる。ナイフと林檎の接触音が病室に響く。
「これは私の勘っていうか、一連の観察結果だけど、将来凍鶴君と織姫は間違いなく婚姻を結ぶと思うね。それも近いうちに」鋭利に細められた瞳は、俺をまっすぐ見つめていた。いつになく真剣な態度。梅雨利空子は割と友達思いなので、こういった表情を作ることは珍しくない。
常識から超脱しているけど。
倫理から解脱しているけど。
これでも梅雨利の座右の銘は、「三度の飯より義理人情」である。少なくとも人と言うカテゴリーからは逸脱していない。ただ冷徹に心情を爆発させ、冷静に信条を翻意する梅雨利は、決定的に人としての本質を欠いているのだろう。
本能で理性を制御し、理性で本能を制御する。
梅雨利空子は理性と本能とが等号で結べる人間なのだ。
そんな破天荒な女は言う。「少しは織姫の純情を慮ってくれてもいいじゃん。これは親友たる織姫の代弁でもあり、同胞たる君での忠告でもある。私は君みたいな、乙女を困らせる優柔不断男が嫌いで嫌いでしょうがないんだよね」
と。
梅雨利空子は。
鴇織姫の方をちらりと見る。その後改めて俺の方に目を向ける。
対する俺はというと、林檎の皮を完全に剥き終わっていた。後は食べやすいサイズに切るだけである。
「これでも私、君のことけっこう買ってるんだからさあ、クズみたいな人間の中でも価値のある人間だと思ってるんだからさあ、君なら織姫が惚れても無理ないかなって思ってるんだけどさあ、それはあんまりでしょ? もしも織姫を泣かせるようなことしたら私。――君殺しちゃうかも」
解放された窓から風が吹いてきた。
静寂。
あは。
笑い声がしたと思ったら、それは梅雨利の声だった。
「ごめんごめん、これ嘘。嘘だから気にしなくていいよーん。もしかして凍鶴君マジになってたりするの? このヘタレ男! 私がそんな物騒なこと言うわけないじゃん」
「梅雨利」
「なあに?」
「林檎」俺はほぼ切り終わり、十六等分に分担された林檎を梅雨利に投げた。「食えよ」
それをキャッチした梅雨利は淫猥に笑う。「食べる。織姫は?」
「クーちゃんのものなら何でも欲しい」
「健気だねえ。クーちゃんだってよ、クーちゃん。ああ、いじらしい!」
勝手に悶える梅雨利は無視するとして。
俺は鴇織姫に小さくなった林檎を手渡そうとする。俺にしてみれば、一度として会話に言葉を挟まなかったことが不可解だった。
梅雨利は巧みな話術を弄して一度も、「なぜ鴇織姫がここにいる?」という問いに答えていない。
俺はいつもの調子で尋ねる。
「鴇」
「クーちゃん」
細切れになった林檎。そいつが俺から鴇織姫の手元に移動しようとしたその瞬間。
鴇織姫は。
俺の手首を掴んで。
ものすごい力で。
俺を。
抱きしめた。
「クーちゃん」俺の頬に頬をくっつけて、耳元で囁く。「私を愛してくれてる?」全身が総毛立つという表現は、まさにこの時のためにあるのだろう。
今までとは違う、静かな声。口調は極めて落ち着いている。それが逆に鴇織姫の思いの激しさを表しているようだった。
俺の背中に手を這わせて。
耳に甘い息を吹きかけて。
痩躯を小刻みに震わせて。
足を俺の足とに絡ませて。
鴇織姫は滔々として語る。
「今まで私、結構頑張ってきたんだよ? 出来る限りクーちゃんを愛しようって。生活を全てをクーちゃんに捧げようって。この人のために命を賭けようって。だって、好きで好きでしょうがないんだもん。私こんなに人を想ったの初めて。この人のためなら死んでもいいって思ったの初めて。そんなかけがえのない人、凍鶴楔。けどクーちゃんは、私を拒む。婉曲的に遠ざける。私の愛を受け入れてくれない。クーちゃんにとって私はその程度の人間だったの? 私は違うよ。まず第一にクーちゃんのことを考える。私は絶対にクーちゃんを裏切らない。だから少しでいい。ほんのちょっとでいいから、私を受け入れて。確かに今までちょっと行き過ぎたかなって思ってるの。いきなりあんなことされたら誰でも驚くよね。けどしょうがないもん。体が勝手に動いて、理性が追いつかないんだもん。私の心がクーちゃんの体を欲してるもん。クーちゃんなしで生きていけないもん。クーちゃんは私の全てだもん。だからお願い。お願いだから、私を受け入れてよぉ!」
そっと。
鴇織姫は。
そっと体を離した。
まっすぐ体が向かい合う。
凛然とした表情。けれどどこか壊れそうで。触れるだけで何かが終わってしまうような気がして。
瑠璃色の瞳。
癖のない茶色っけのある髪。
真剣な瞳。俺は鴇織姫から目を離すことができなかった。それが威圧感からくるものなのか、罪悪感からくるものなのか、なんて判断する余裕は俺にはなかった。
「好きなようにしていいから。この際、私を便利な道具だと思っていいから。コンビニみたいに利用していいから。私のことをちゃんと考えて。一人の女として考えて。私何でもするから。この体、クーちゃんのために捧げるから。けど、もしよかったら――クーちゃんの一番にしてほしい。クーちゃんが心底私を愛してくれたら、私何もいらない。こんなに優しくてカッコいい人、ほかにいないもん」
狂ったように真っ白な病室。
俺は視線の先に見える梅雨利のしてやったりの表情を見て悟った。
はめられた。
なぜ鴇織姫だけが先に来ていたのか。
それはおそらく作戦会議。鴇織姫がつれない俺に業を煮やして、親友の梅雨利に相談したのだろう。
で。
その対策が。
ストレートに言葉をぶつける。
なるほど。
やはり梅雨利は円熟の観察者だ。手口が巧妙で、まさに寸鉄人を殺すである。
俺の弱点を的確に把握している。
まっすぐ訴えかけてくる思いに弱いことを知っている。
権謀術数にかけて梅雨利空子に右に出るものはいない。
それは、梅雨利が極めて非常識な人間であるのと同時に、ものすごく、その、いい奴だってことで。
俺は鴇織姫の手にある林檎を強引に掴んだ。
そして。
「あーん」
「……クーちゃん?」
「織姫。あーん」
「……え? あっ、うん」
かわいらしく顔を開ける鴇織姫。少し戸惑った風に上目遣いで俺を見る。
顔が赤い。
勿論。
俺がだ。
正直死ぬ。まさか第三者の前でこれをすることになろうとは。
あーん。
恐るべし。
鴇織姫は喉を鳴らして、林檎を食べる。猫じゃらしを与えた猫のようだった。思わず頭を撫でたくなるけれど、自粛する。そんなことを考える自分はどうしてしまったのだろう。歳月は人を変える。たった一ヶ月で? と心の中の誰かが言った。
「おいしいか」
「うん。甘い」一転、鴇織姫はニコニコ笑いながら言う。「もう一個、欲しい」
「俺の触れた果実は糖分が約三割上昇するっていう噂だからな。ほら、口開けて」
「えへへ、クーちゃんがいつになく優しいよぉ。にゃんにゃん、ごろごろ」
鴇織姫は椅子を近づけて、俺の肩に頭を乗っける。それでも重量はほとんどなく、なんか、ちょうどいい。まるでそれが当たり前みたいな感じ。むしろ落ち着く。心が穏やかになる。
「うわぁ、バカップル! こんな公然の場でラブラブだぁ! お姉さん恥ずかしい!」
梅雨利。
黙れ。