第一話 四月二十二日
始まりと終わりは驚くほど類似している。
胎動とは終焉であり。
終焉とは胎動であり。
人は力強く生きる。
始めたときには全てが終わっているというのに。
――The booking has already started.
神隠し……天狗隠しともいい、人間がある日忽然と消え失せる現象。古来、神域である森や山で、人が行方不明になったり、町や里から何の前触れもなく、失踪することを『神の仕業』と考えたことを指す。本編にて記述。
○○○
「またか」
俺の朝は、決まって溜息から始まる。
清涼とした朝であった。
人智の及ばぬ神秘を感じさせる山の稜線は緩やかに弧を描き、青竹色の忘れな花は岸辺で奥床しくそよいでいた。
北方では、遠目からでも注連縄が張られている社が見え、どこか浮世離れした空間を作り上げていた。日和見神社である。その奥では、白と猩々緋の色彩に身を包んだ巫女が、境内を竹箒で清掃していた。
俺は郵便箱から覗く、もう一人の俺を見て再度溜息を吐く。
俺は郵便受けから、大量の写真を掻き出した。たちまち有象無象と化した無数の写真。当然それらは下方に落ち、地面の上で無造作に散らばった。
無意味な行動。こうなってしまっては、回収するのに無用な体力を費やすだろう。
膨れ上がった感情は風船のように萎んだ。表裏を成して広がる倦怠感。俺は自らを嘲笑し、乱雑に散らばる写真を回収しにかかった。もはや、朝の習慣となってしまった行動である。
俺こと凍鶴楔には、ある悩みがある。
ストーカーだ。
断わっておくが、俺は一顧傾城の美女でも、人気上昇中の歌手でもない。見え透いたことだが、俺は男だ。年齢は十六歳。公立雨稜高等学校に通う、普通の高校二年生。
俺の住む日和見村は、一牛鳴地の超田舎である。辺りには深緑色の田園風景が広がっており、なんかもう圧倒的に辺鄙な町だ。
天狗が住むような山岳に四方八方囲まれているので、当然ながら交通量は壊滅的。それに対する反論を述べるとすれば、トラクターや軽トラックが通るからいいもん! ……つまりは萎靡沈滞であるということだ。
そして、この村ではなぜか異様に“神隠し”が多発する。それ故に、この村は『神隠しが起こる町』という悪しきレッテルを貼られている。
山姥の気紛れか狐の悪戯か、それとも鬼の悪行か。古くからこの地域では妖怪や隠れ神の存在が信じられており、山岳信教や神道が幅を利かせている。それ故か、神職や僧坊の権威は絶大で、中には神格化された者まで存在する。
どちらにしろ、神憑り的な何かがこの村に住んでいるに違いない。というのが、住民共通の見解である。
そして、俺のすぐ近くにも得体の知れない何かが潜んでいるのだろう。
様々なアングルで撮られた写真。全てにおいて俺が映っている。制服や私服の写真は勿論、下着姿やバスタオル一枚だけってのもある。シチュエーションにしても、スーパーや学校内は当たり前で、自宅から盗撮されたものまで。
こういったストーカー写真が家には何千枚もある。多分、俺の観察日記が作れるくらいの数に上るだろう。
いつも君のこと見てます。
純白の便箋に内封されていた一枚の書簡には、血液で書かれたであろう一文がゆらゆらと瞬いていた。まだ真新しく、仄かな温もりすら感じることが出来る。
換言すれば、この一唱三嘆の文はストーカーの温血で書かれており、俺の起床時間を精密に計算して、郵便受けに投函していることとなる。
絶妙なタイミングで俺がこの手紙を受け取るように、だ。
背筋に嫌な汗が流れ、本能に訴えるような恐怖が俺を襲う。
他にも自分の持ち物がいつの間にか紛失していたり、怪しげな小瓶が送られていたりex……
有体に言ってしまえば、俺は紛れもないストーカー被害に陥っていた。
「……学校に行くか」
俺は本日三度目になる溜息を吐いていた。
「学校に行くのかい?」
俺が学校への身支度をしていると、障子を一枚隔てて声が聞こえた。
俺の家は、檜や杉などの耐久力に優れた木材を使用した日本家屋である。木枠に和紙をあしらえた明障子や、富士を拵えた襖で仕切られた様はまるで格式高い邸宅のようである。ただ、この文脈にはある語弊がある。
実は、この家は俺の所有する家でないということだ。正しく言えば、俺は村長の雛道紀一郎に扶養されている身である。つまりは養子に近い関係だ。
俺の両親は幼いころに死去している。
年端のいかない児童。余りにも厄介な存在だ。扶養しても無駄な出費が増えるだけ。冷淡な親戚一同は、巧妙な言い訳で手練手管と俺を引き取ることを断わり続け、俺は幼くして一人になった。
遠回しに疎外され、自分の存在が面倒なものであると無意識に自覚する俺。そんな俺を助けてくれたのが、紀一郎おじさんだった。
親類一同驚きはしたものの、誰も異議を唱えることなく、俺は紀一郎おじさんの養子になった。そして、東京からおじさんが居住する日和見村へと引っ越した。
「うん。おじさんは今日仕事?」
「勿論だとも。村長さんに休みなんていう高尚なものはないさ。老体には堪えるよ」
紀一郎おじさんは、今年で六十路を迎える老翁である。当然のことながら、肉体は衰え持病こそ抱えてはいるが、その鋭い眼光と鋭敏な頭脳はいまだ衰えを知らずである。
「もう年なんだから、健康には気を配って。きつい時はすぐに休むんだよ」
すると、紀一郎おじさんは朗らかな笑みを浮かべた。「楔よ。そんなに慎重にならんでも、私のことは心配いらんよ。楔は楔で学業に励めばいいのじゃ」
「……ありがとう。けど、くれぐれも腰の持病には注意してね」
「分かっとるわい」
きっと、紀一郎おじさんは安らかな目で微笑んでいることだろう。腰の辺りを擦りながらね。
障子一枚を隔てての会話。俺は学ランの裾に腕を通した。
○○○
俺の通う雨稜高等学校は、全校生徒三百人余りの小規模の学校である。
日和見村には雨稜高校以外の高等学校は存在しない。というより、いらない。
過疎化が原因だからである。
また、それとはまったく趣向を異とする要因もある。
――神隠し。
近年、日和見村では神隠しが急増している。老若男女、性別や年齢を問わず、だ。
考えてみればおかしなことだ。
この村では、神隠しによる事件で人口が減っているのだから。それが過疎化を加速させる原因となっているのだ。
噴飯ものである。
とはいえ、こんな錆びれた村でも警察はある程度機能している。しかし、いくら警察でも神隠しの真実を解き明かすことは出来なかった。そして、問い質される物の怪説。警察の不祥事によりその仮説は一層熱を帯び、山の最深部にはいくつも禁足地が設けられた。また、鉦鼓や太鼓を叩いて失踪者の名を呼ぶ『神追い祭り』という行事が年に二回行われている。物の怪を追いやり、失踪者を救済することが趣旨らしい。そして、それを一笑に付することができないのだから、笑えない。
幾重にも変遷を得た日和見村。いつしかこの町は『神隠しが起こる町』となった。
○○○
――さて、ストーカーをどうするか。
田圃のすぐ横にある畦道。自然の潤いが蓄えられた豊饒な土壌。
それをわき目に、俺がストーカーの件について考え込んでいると、不意に後ろから人の気配がした。
後ろを振り返ると、俺と同じ制服を着た女――名伽意味奈がいた。その距離約五メートル。
俺に気付いたのか、銀に近い白髪を靡かせゆっくりと歩を進める。背中には朱子織の布に包まった竹刀。彼女に合わせるように東風が吹き、生き生きとした若葉が腰を曲げた。
様になる光景である。
「気持ちの良い微風だな」
黒橡の切れ目は、艶然として丸みを帯びた。
「たかが風だろ」
「君は時々、口が過ぎるところがあるな。晩春の兆しを感じさせる風だ。私の知る凍鶴楔という男は、風雅を軽んじる男ではなかったはずだぞ」
俺は苦笑を漏らす他なかった。「分かった。分かったから、溜飲を下げろ」
すると、彼女は横長の目をさらに細め、「す、すまない。見苦しいところを見せた」丁重に頭を上げる。
「頭を上げろよ。女性が気軽に頭を上げたらいけないだろ」
「凍鶴は優しいな」名伽は玉繭のような白髪を翻し、「至極恐悦だ」頭を下げた。
俺は後頭部を掻き、「ついさっき、頭を下げるなって言ったんだけどなあ」口角を緩めた。
「それが野暮なのだ。――けど、まあ、私は頭が柔いものでな。以後気を付ける」ふっと笑みを溢す。照れ隠しなのか、名伽は視線を青空にやった。なんとなく自分もそうした方がいいような気がして、名伽同様、思考を天空に馳せることにする。
それは紛れもない春の空だった。田畑の準備が整い、穀雨が降り出した後のようで、生命の息吹を感じさせる。そして、輝くように吹く風。名伽の長い白髪がパタパタと翻る。
風光るとはまさにこのことで、流動的ながらも確かな存在を感じさせた。手を伸ばせば、柔らかに光る風の塊が掴めそうなくらいに。
名伽は紅色の唇を締め、凛呼とした態度を取った。切れ長に伸びた瞳は漆黒の夜色で、背筋はピンと伸びている。
名伽の家柄は、江戸時代のそれとさほど変わらない武家の嫡流だ。厳格な家庭に育った名伽。華道や武道を重んじる精神は、名伽家の封建制度じみた教育の賜物である。そして、その副産物が妙に武士っぽい言葉使い。名伽家では言葉には魂が宿るという、言霊を信じている故だ。
俺は前から気になっていたことを訊いた。
「そういえば、名伽。前からずっと気になってたんだけどさ、その喋り方で疲れないのか?」
「それは人に物を食らうな、というようなものだ。それはいささか酷だろう」
名伽意味奈は莞爾とした笑みを浮かべて言った。
それもそうだなと思い、俺は前言撤回の意を表する。
「別にいい。私に至らぬところがあれば、遠慮なく言え」名伽は綺麗な笑みを浮かべた。
「至らないところなんてない。喋り方は一種の個性だからな。無理に矯正する必要なんてないさ」先ほどの言葉と矛盾しているような気がする。「名伽らしくていいと思う。無責任な話だけどよ」その通りだと思う。
しかし、その言葉に名伽は感銘を覚えたのか、しきりに目を輝かせている。「無責任ではない。私のことを衷心から考えているのだろう。嬉しい」紅顔した頬。熱っぽい視線が俺に絡みつく。
卯の花が咲く月。
畑の脇の畝は土色で、上の電信柱の電線には数羽の烏が止まっていた。