『悪徳転生姫と堕天使』
帝国歴310年3月。
内海の南岸に広がる『花の都ルミナリア』。その街を見下ろす聖なる山、エレスティアル山の麓には、荘厳なる白亜の巨躯が聳え立っていた。
『真理の光教団』の本山、エレスティアル大聖堂。
無数のステンドグラスから差し込む七色の光が、広大な礼拝堂の床を彩っている。その静寂に包まれた最奥の執務室で、一人の男が静かに羊皮紙の帳簿をめくっていた。
教祖『ゲンドラス・サイリュン』。
かつて亡国の宰相であり、僭王となって囚われていた男。
崔厳。
彼が主導する『真理の光教団』が設立されてから四年——その教勢は帝国のみならず周囲へと伸び、計画はすべて完璧なまでに順調に進展していた。
だが、この教団の真の姿を知る者はごくわずかである。
「——教祖様。相変わらず、お堅いお顔をして仕事をされていますのね」
前触れもなく、静寂を破って可憐な声が響いた。
結界と重厚な警護に守られた教祖執務室の真ん中で、空間が水面のように揺らぎ、澄んだ光の粒子とともに「それ」は現れた。
透き通るような金髪を揺らし、豪華なレースのドレスを纏った小さな少女。セシリアに生き写しの息を呑むような美貌と、宝石のように煌めく大きな瞳。今年で四歳になるセレスティア親王国の王女、ルシアであった。
ゲンドラスは驚く素振りすら見せず、静かにペンを置くと、椅子から立ち上がって恭しく深々と頭を下げた。
「これは……ルシア様。本日はどのようなご用件でしょうか。セレスティアからのお越し、歓迎いたします」
650㌔という距離を一瞬で飛び越える規格外のテレポート。この四歳児が秘める神のごとき異能を、ゲンドラスは熟知していた。
ルシアは小さな腰に手を当て、ふんっと鼻を鳴らして教祖の執務机へと近づいた。そして、ゲンドラスが座っていた豪華な革張りの椅子へ勝手に登り落ちると、ちょこんと腰掛け、小さな足をバタバタと揺らす。
「報告に来てあげましたのよ! サンブリアとアンチアルマに、言われた通り立派な大聖堂を作って差し上げましたわ! サンブリアの大聖堂はルシア宮の次に素敵ですの!」
「……感謝に堪えません。何年もかかるはずの大建築を、ルシア様は一瞬で成し遂げられた。まさに神の奇跡そのものです」
ゲンドラスの言葉に、ルシアはご満悦の様子で胸を張った。セシリア譲りの天使のような笑みを浮かべながら、高慢かつ天真爛漫に言い放つ。
「ふふん! ルシアにかかればこんなもの朝飯前ですわ! それでね、言われた通り司教もちゃんとスカウトして差し上げましたのよ!」
「ほう……どのような者を?」
「サンブリアには、元ダラーン王国の大臣だとかいう『スライロ・ハリス』という堅物な男を置いて差し上げましたわ! ぐだぐだ昔の言い訳ばかり言っていましたから、『やりなさい』っておしおきして配置しましたの!」
ゲンドラスの目が、かすかに見開かれた。 スライロ・ハリス。かつて「至高の頭脳」と称されながら流罪となり、隠遁していた傑物。崔厳の名を聞けば反発することは目に見えていた男を、ルシアは力技と我儘で瞬時に屈服させたのだ。
「……素晴らしいお手腕です。サンブリアは海洋貿易が頻繁で、経済の過熱によりインフレを起こしているノバージェの信者と、その膨大な富を取り込む格好の拠点。スライロほどの頭脳があれば、その資金流出入を完璧にコントロールできるでしょう」
ゲンドラスが感嘆を漏らすと、ルシアはさらに嬉しそうに頷いた。
「それから、アンチアルマには『ヴォルフラム・フェイ』という、剣を背負った歌う男を司教にして差し上げましたわ! ルシアの家来になるって、膝をついて誓わせましたの!」
「……ヴォルフラム・フェイ。かつてアクスアルブ義勇軍でブランガの片翼を務めた流浪の剣士ですか。……実に見事です。あそこは復興予算が毎年莫大に注ぎ込まれているため、悪徳官僚や役人どもの不法な横領が絶えない腐敗の地。そこにヴォルフラムを置き、民の信仰を集めつつ、裏の資金流れを教団が吸い上げる……」
ルシアはバタバタと足を揺らしながら、四歳児とは思えぬほど的確に、この広大な計画の「真意」を教祖へと言い含めるように口を開いた。
「そうよ! 覚えていますわね、教祖様? 吸い上げたお金は、全部ルシアのおうち……専属商取引をする『リヴィエール商会』の収益にして、税金として帝国の国庫にどーんと還元する仕組みなのですからね!」
ゲンドラスは静かに息を飲んだ。
教団の集金システム、不法な富の没収、そしてリヴィエール商会を経由した帝国国庫への還流。 政教一致による秩序の維持と、社会の歪みから生じた「富の欝屈」の吸収・循環。
この壮大な国家規模の経済・政治循環システムは、裏で教団を操るルシアの圧倒的な異能と、ゲンドラスの知略が噛み合って初めて成立するものだった。表向きは過激な新興宗教の台頭に見えながら、その実、帝国の経済を裏から支え、浄化するための巨大な「ポンプ」なのである。
「ルシア様のご構想通り、協力者たちには地位と名誉、そして正当な財を与えております。すべては順調に、完璧に回っておりますよ」
「ふふん! 当たり前ですわ! ルシアは世界で一番偉くて賢い姫君なのですから!」
ルシアは満足そうに高笑いを上げると、椅子からぴょんと飛び降りた。
「よし! 報告は終わりましたから、ルシアはお家に帰っておやつを食べますわ! ちゃんと働くのですよ、教祖様!」
「ははっ。しかと仰せの通りに」
ゲンドラスが深々と頭を下げると、ルシアは小さな手を可愛らしく振った。
「それでは、さようなら!」
ルシアが足をとんと鳴らした瞬間、執務室の空間がぐにゃりと歪み、眩いガラスのような光の粒子が舞い上がった。次の瞬間、可憐な少女の姿は影も形もなくかき消えていた。
静寂が戻った執務室で、ゲンドラスはゆっくりと顔を上げた。
部屋にはまだ、ルシアが立ち去ったあとに残された、かすかな光の残滓と甘い花の香りが漂っている。
ゲンドラスはルシアが座っていた椅子に歩み寄り、そこに残された小さな温もりと、先ほど彼女が語った恐るべき国家経略の完成度を思い返した。
ただの四歳の幼子。 我儘で、高慢で、天真爛漫な、天使のような美少女。 だがその身に宿すのは、この世界の物理的理を容易く踏みつぶし、国家の運命すら指先一つで捏ね上げるあまりにも強大な異能と、底知れぬ叡智。
人は彼女を愛くるしい姫と呼ぶ。 あるいは、奇跡を起こす神の使徒と拝むかもしれない。 しかし——政治の裏を歩み続けてきたゲンドラスの目に映るのは、それらとは全く別の「何か」だった。
「……ルシア……」
誰もいない部屋で、ゲンドラスの口からかすかな呟きが漏れた。
神の理をあざ笑い、光を纏いながら地上に降臨し、人間の世界を欲望もろとも自在に支配し循環させる、絶対的な存在。
「......救世主......」
「……堕天使? ……まさかな」
自嘲気味に呟いたゲンドラスは、首を小さく振った。 ただの考えすぎだ。どれほど恐ろしい力を持っていようと、彼女はおやつを楽しみに母親のもとへ帰っていく、セシリアの愛娘にすぎないのだから。
ゲンドラスは再び執務机につくと、ペンを取り、ルシアがもたらした新たな「戦果」——サンブリアとアンチアルマの大聖堂の帳簿を付けるべく、静かに羊皮紙へと向かい直すのだった。




