断罪される前に第二王子と駆け落ちしました!~破滅ルートを回避したら、十五年後には十二人の子宝に恵まれ、旦那様が大陸最大の商業ギルドのトップになっていました~
茜色に染まる放課後の温室は、むせ返るような薔薇と濡れた土の匂いに満ちていた。
硝子窓の外では、明日の卒業記念夜会に向けて職人たちが色とりどりの提灯を吊るし、浮かれたざわめきが微風に乗って届いている。
その爛漫たる夕景を背に、第二王子ユリウスは胸元に手を当て、陶酔しきった面持ちで熱弁を振るっていた。
「聞いてくれ、エレナ! 明日の夜会、僕たちはついに結ばれる! 大広間の中央で、あの血も涙もない公爵令嬢セシリアの悪事を暴き、声高らかに婚約破棄を宣言するんだ! そして僕の真実の愛は君だと、全貴族の前で証明してみせる!」
男爵令嬢エレナは、差し出された王子の手を握るどころか、額に青筋を浮かべて深々とため息をついた。
(……前世の社畜時代に嫌というほど見たわ。競合他社のリサーチもせず、根拠ゼロの強気な企画書をドヤ顔で役員会に通そうとする無能プロジェクトリーダーの顔だこれ)
エレナには前世の記憶がある。
激務の末に胃に穴を開けて倒れた中間管理職の記憶が。
そしていま目の前でキラキラした瞳を輝かせているユリウスは、典型的な「ざまぁ」されて首が飛ぶ側の哀れなピエロだった。
「殿下、ちょっとそこにお座りになって。お茶でも飲んで頭を冷やしましょうか」
「な、なぜだエレナ!? 君も僕と同じ気持ちのはずだろう!?」
「いいから座れ」
「はい」
冷気を帯びたエレナの低い声音に、ユリウスは思わず白いベンチへ腰を落とした。
エレナは腕を組み、仁王立ちで王子を見下ろす。
「殿下。今から明日の夜会のタイムラインを、順を追ってご説明いたします。よろしいですか?」
「タ、タイムライン……?」
「まず、壇上で殿下がセシリア様を指差し、『お前の冷酷非道な振る舞いは見過ごせん!』と怒鳴りますね」
「うむ! 大勢の貴族がどよめき、僕の勇姿に息を呑むはずだ!」
「呑みません。ドン引きするだけです。で、糾弾されたセシリア様はどうなさると思いますか?」
「ふっ、いつも澄ました顔を崩して、狼狽え、涙を流して許しを乞うだろうさ!」
「そんな人間いるかーッ!!」
温室のガラスを震わせる勢いで、エレナの怒声が炸裂した。
ユリウスが「ひゃんっ」と情けない悲鳴を上げて身を縮める。
「目を覚ましてください! 相手はあの公爵令嬢セシリア様ですよ!? 王妃教育は満点、領地の減税案を自力で起草して農民に拝まれ、私財を投じて孤児院を建て替え、果ては毒を盛られても『調理場の下働きに罪はありません』と微笑んで許したという、隙のなさすぎるパーフェクト超人ですよ!? 生きた大理石の彫像、人間味ゼロの歩く道徳教科書! そんな完璧聖女が、いわれのない言いがかりに狼狽えるわけないでしょうが!」
「う、うぐ……し、しかし、僕を無視して書類ばかり見ているのは事実で……」
「それのどこが国家反逆罪なんですか! 殿下が喚いた瞬間、セシリア様は完璧なカーテシーを決めて、こう仰います。『殿下、そのご主張を裏付ける公的証拠のご提示をお願いできますでしょうか。なお、こちらは殿下が講義をサボって温室で逢瀬を重ねていた全ログと、公爵家法務部が作成した名誉毀損の反論書にございます』ってね!」
「な、なぜそんなものを持っているんだ……!?」
「あの方は完璧ヒロインだから持ってるんです! そして国王陛下と公爵閣下が奥から無言で歩み出てきます。殿下はその場で廃嫡、僻地の修道院で一生写経生活! そして『真実の愛(笑)』の相手である私は、王子を誑かした希代の毒婦として、男爵家ごと取り潰されて処刑台行きです! 完全につむのが丸見えなんですよ!」
エレナがまくし立てると、温室はシンと静まり返った。
夕暮れの赤い光が、ユリウスの顔を青白く照らし出す。
「しょ、処刑台……? 僕が、廃嫡……?」
「ええ。殿下と私の首が、仲良く城門に並んで晒し首エンドです」
「嫌だぁぁぁぁぁぁッ!!」
ユリウスは頭を抱えてベンチの上で悶絶し、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「嫌だ! 死にたくない! 写経なんてしたくない! 僕はただ、セシリアの隣にいるのが息苦しかっただけなんだ! あんな完璧な人形みたいな女に、冷たい目で『殿下、また算術の課題を間違えておいでですわ』って正論で殴られ続ける毎日に耐えられなかったんだよぉ!」
泣きじゃくるユリウスの姿は、王族の尊厳など欠片もなく、ただの傷つきやすい十代の少年そのものだった。
だが、エレナはこの情けなさが嫌いではなかった。
正論だけで人の心を平気で踏み躙る完璧超人たちより、自分の弱さに怯え、人の痛みに涙できるこの男のほうが、よほど人間らしい。
エレナはため息を飲み込み、ハンカチで王子の鼻水を乱暴に拭ってやった。
「……だから言ったでしょう。あんな怪物相手に、正面から喧嘩を売る方がバカなんです。普通に公開婚約破棄なんてやったら、私たちがざまぁされる側に決まってるんですから」
「うぐっ……ひっく……。で、では、どうすればいいんだ……? もう、諦めてセシリアの操り人形として生きるしかないのか……?」
「いいえ」
エレナはふっと口角を吊り上げ、ユリウスの濡れた瞳を覗き込んだ。
「正面からぶつかって負けるなら、盤上から降りればいいのよ。明日の夜会、すっぽかします」
「……え?」
「置手紙一枚残して、夜会の開始と同時に王都を出ます。そう――」
エレナはユリウスの武骨な両手を、痛いほど強く握りしめた。
「わたしたち、かけおちします!」
「か、駆け落ち……!? 王位も、領地も、すべて捨てるというのか!?」
「そんなもの要りません! 殿下、ご自分を無能だと思っていませんか? 殿下は算術は苦手だけど、温室の庭師の名前を全員覚えていて、下働きの体調を気遣える人です。人の気持ちを大切にできるって、商人にとって何よりも強い才能なんですよ! 私の前世の知識と、殿下のお人柄があれば、どこでだって天下を取れます!」
「エレナ……っ」
ユリウスの瞳に、迷いが消えた。
王族としての重圧に押し潰されていた少年の顔が、一人の男の顔へと変わる。
「わかった。君が僕を信じてくれるなら、僕は王冠なんていらない。地の果てまで君についていくよ!」
「よろしい! 明日の夜会、誰も現れない壇上で、あの完璧なセシリア様が生まれて初めて『……は?』って素っ頓狂な顔をする姿を想像しながら、荷造りしましょう!」
それから十五年後。
王都から遠く離れた自由港湾都市エール。
潮風が心地よく吹き抜ける巨大な大理石の建物――大陸全土の流通を掌握する『エール連合商業ギルド』の本部前には、朝から長蛇の列ができていた。
「おい、次の案件はなんだい?」
執務室の窓際で、日に焼けた精悍な男が、腕をまくり上げながら帳簿にサインを走らせている。
かつての第二王子ユリウスだ。
仕立ての良い上着を無造作に着崩し、目元には笑い皺が刻まれ、かつての頼りなさは微塵も感じられない。
「頭取! 南方の小規模な織物工房から、大手貴族の買い叩きに遭って倒産寸前だと泣きつきが来ています!」
「すぐにギルドの資金から無利子で融資しろ。職人の腕は本物なんだろう? 数字だけを見て人を切り捨てるような商売はうちでは絶対に許さない。相手の生活とプライドを守るのが、商人としての筋だ!」
「はいっ、直ちに手配します!」
人の心の痛みが誰よりもわかる元王子は、エレナから叩き込まれた簿記とマーケティングを武器に、瞬く間に市民と職人たちから絶大な支持を集め、大陸随一の大商人へと登りつめていた。
ガララッと勢いよく扉が開いた。
「あなたー! お昼よー! 手を洗って!」
大皿に山盛りのローストチキンを抱えて入ってきたのは、貫禄のついたエレナだ。
そして、その背後から地響きのような大合唱が轟いた。
「「「お父様ーーっ!!」」」
「うおっ、待て待て、突撃するな!」
長男、長女、次男、次女、三男、四男、三女、五男、四女、六男、五女、そしてエレナの背中でキャッキャと笑う末っ子の七男。
総勢十二人の子どもたちが、我先にとユリウスの足元へ群がる。
「お父様、新航路の許可証取ってきたよ!」
「お父様、港の倉庫整理ぜんぶ終わらせた!」
「こら、順番! お父様が潰れちゃうでしょ!」
部屋中が子どもたちの歓声と笑い声で溢れかえる。
真実の愛を貫きすぎた結果、授かった宝物は十二人。毎日が戦場のように騒がしく、そして世界一温かい我が家だ。
「エレナ、今日も飯が美味そうだ」
「当たり前よ。あなたと子どもたちを太らせるのが私の仕事なんだから」
ユリウスがエレナの腰を抱き寄せて額に口づけを落とすと、子どもたちが「ひゅーひゅー!」と囃し立て、執務室はどっと笑いに包まれた。
そこへ、青ざめた顔のギルド秘書が、金文字の封書を持って滑り込んできた。
「と、頭取! エレナ様! 王都から特使が参りました! 現・王太子妃セシリア殿下からの直筆の親書です!」
一瞬、部屋が静まる。
ユリウスとエレナは顔を見合わせ、苦笑しながら手紙を開いた。
そこには、相変わらず寸分の狂いもない見事な達筆で、しかし切羽詰まった叫びが綴られていた。
『かつて夜会を無断欠席して失踪した愚弟ユリウス、ならびにエレナ殿。
あの日、完璧に整えられた大広間の壇上で、主役が現れず一人で放置された私の屈辱は、今なお昨日のことのように思い出されます。おかげで私は無能な貴方ではなく優秀な第一王子殿下と結ばれ、理想通りの完璧な国政を敷くことができました。そこまでは感謝申し上げます。
……しかし! 貴方たちの商業ギルドが我が国の全物流と食糧供給ルートを完全に押さえているせいで、王国の経済が干上がりかけております! 貴族たちの買い叩きを禁止しろだの、平民の関税を撤廃しろだの、ギルド側の要求をすべて呑みますから! どうか食糧の輸出を再開してください! 何卒、お慈悲を……!』
読み終えた瞬間、ユリウスとエレナは耐えきれずに吹き出した。
「ぶっ……あははははは! 見てあなた、あの感情のない石像みたいだったセシリア様が、手紙の最後で『お慈悲を』って泣きついてきてるわ!」
「ははは! セシリアも少しは人間らしい文章が書けるようになったじゃないか。あのとき壇上で恥をかかせたお返しのつもりだったが、まさか経済で王宮を兵糧攻めにする羽目になるとはね」
ユリウスは子どもたちとエレナの笑顔を見回し、満面の笑みで羽ペンを執った。
「さて、なんて返事しようか。『人の気持ちがわかるようになったら、喜んでお米を分けてあげます』とでも書いてやろうか?」
「ええ、ついでに『私たちは十二人の子どもに囲まれて最高に幸せです』って追伸をつけてやりましょう!」
かつて用意されていた破滅のレールを華麗に飛び出し、泥臭く愛を育て上げた二人は、賑やかな我が家で声高らかに笑い合っていた。完璧すぎるお人形劇など見飽きた世界で、これ以上なく人間らしく、痛快な勝利の味を噛み締めながら。
◇◇◇
拝啓
気高き王太子妃セシリア殿下におかれましては、寸分の狂いもない完璧な政務に明け暮れ、さぞかし胃壁を酷使なさっていることとお慶び申し上げます。
まずは十五年前、卒業記念夜会の壇上に殿下をお一人で残し、華麗にドロンいたしました失礼をお詫び申し上げます。
あのとき、殿下が人生で初めて浮かべたであろう「……は?」という素っ頓狂なお顔を直接拝見できなかったことだけが、私たちの唯一の心残りでございます。
さて、頂戴いたしました親書、拝読いたしました。
相変わらず惚れ惚れするほど整った達筆の末尾に、インクの滲みとともに綴られた「お慈悲を……」の五文字。思わず額縁に入れてギルド本部の正面玄関に飾りそうになりましたが、元王族としての最後の情けで思い留まりました。
我が『エール連合商業ギルド』による穀物供給の再開、ならびに物流封鎖の解除についてですが――条件付きで全面的に受諾いたします。
ただし、商売とは「人の心」と「信頼」で成り立つもの。
完璧な正論と数字だけで民の腹は膨らみません。つきましては、契約再開の条件として以下の三点を提示いたします。
**一、王都における平民および中小職人への不当な関税の即時撤廃**
数字の辻褄合わせのために汗水流して働く民から搾り取るのは、三流のやることです。帳簿の帳尻は、王侯貴族の無駄な夜会費を削って合わせてください。
**二、地方農家への買い叩き防止令の制定**
天候に祈りを捧げ、泥にまみれて小麦を育てる農民の痛みがわからない者に、パンを口にする資格はありません。適正価格での買い上げを法で保証してください。
**三、王宮内における「ため息」と「完璧主義」の禁止**
たまには課題を間違えた部下を叱るのではなく、「まあ人間だものね」と笑って温かいスープでも奢ってあげてください。殿下の周りの官僚たちが過労で倒れそうな顔をしているのが、港町まで噂で届いております。
以上の条件をすべて呑んでいただけるなら、明日の朝一番の潮に乗せて、王都の胃袋を満たす特級小麦と新鮮な海産物を満載した船団を出航させましょう。
追伸その一:
ユリウスは現在、港の倉庫整理で逞しく鍛え上げられ、かつて殿下に「算術が苦手」となじられた男とは思えないほど立派な頭取として、街中の民から愛されております。あのとき処刑台ルートから救い出して本当に良かったと、妻として胸を撫で下ろす毎日です。
追伸その二:
私たちの真実の愛が情熱的すぎた結果、授かりました子どもは現在**十二人**(男七、女五)となりました。
毎日が戦場のような騒がしさですが、長男はすでに新航路を一本任され、末っ子は元気に執務机をよだれで濡らしております。
子育ての相談ならいつでも乗りますので、あまり眉間に皺を寄せず、たまには肩の力を抜いて息をお吸いになってくださいませ。
殿下のますますのご健勝と、王国の経済がこれ以上干上がらないことを、自由の風が吹く港町より心よりお祈り申し上げます。
敬具
大陸商業連合ギルド 頭取 ユリウス
同ギルド 筆頭補佐(兼・愛妻) エレナ
◇◇◇
王宮の最奥、厳かな静寂に包まれた王太子妃の執務室。
壁一面の書架には法典と統計資料が隙間なく並び、磨き抜かれた黒檀の机の上には、定規で測ったかのように整然と書類の山が積まれていた。
執務机の前に座るのは、王太子妃セシリア。
乱れ一つない白金髪を結い上げ、氷のように透き通った青い瞳で、届けられたばかりの羊皮紙を一心に見つめている。
背後に控える侍女や護衛騎士たちは、まるで神殿の彫像を前にした信徒のように、息を殺して控えていた。
(……港町の商業ギルドからの返書。かつて逃亡したあの愚弟たちからの……)
セシリアは完璧な優雅さで、ペーパーナイフを滑らせた。
手紙を広げ、読み進める。
一行、二行。
彫像のように静止していたセシリアの眉が、わずかにピクリと跳ねた。
五行、十行。
完璧な陶器のようだった白い肌が、徐々に赤みを帯びていく。
そして、末尾の「追伸その二:子どもは現在十二人」という一文に視線が到達した瞬間――。
「…………っ!」
セシリアの手から、バサリと羊皮紙が滑り落ちた。
「お、妃殿下……?」
側近の官僚が恐る恐る声をかける。
次の瞬間、王宮が始まって以来の異変が起きた。
ドンッ!!
セシリアが両手で机を思い切り叩き、そのまま机の上に突っ伏したのである。
淑女教育の教科書を百回焼き払っても足りないような、生々しい、やけっぱちな音が部屋中に響き渡った。
「ひ、妃殿下ぁぁっ!?」
「セシリア様、ご乱心か!?」
侍女たちが血相を変えて駆け寄る。
だが、セシリアは机に突っ伏したまま、両手で完璧に結い上げたはずの白金髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「あいつらぁぁぁぁぁぁッ!!」
いつも鈴を転がすようだった涼やかな美声はどこへやら、部屋を揺るがす絶叫だった。
「なんなの!? なんなのよあいつら! 『額縁に入れて飾りそうになりました』ですって!? 『ため息と完璧主義の禁止』!? 数字の帳尻は貴族の夜会費を削れ!? 正論よ! ぐうの音も出ないほど完璧な正論だけど、それをあの二人に言われるのが一番腹立つのよぉぉぉッ!」
「ひ、妃殿下、お気を確かに……!」
「落ち着いていられるわけないでしょうが! 見てこれ、追伸! 『子どもは現在十二人』!? 十二人って何よ! 小隊でも編成する気!? こっちは第一王子(現王太子)の生真面目すぎて面白みのない性格に付き合いながら、胃薬をかじって跡継ぎ一人産むだけで死にそうだったのに! あいつら、愛が情熱的すぎて十二人って……なんなの、バカなの!? 幸せの暴力で殴りつけてくるんじゃないわよ!」
セシリアはガバッと顔を上げ、執務机の上にあった高級クッションを抱え込むと、そこに顔を埋めて「むぎゃぁぁぁぁ!」とくぐもった叫び声をあげた。
周囲の官僚や騎士たちは、完全に顎が外れたような顔で立ち尽くしている。
あの、生まれたときから氷の彫像のように完璧で、どんな修羅場でも微笑み一つ崩さなかったセシリア様が。
いま、年相応の女の顔をして、手足をバタつかせて悔しがっている。
(……人間だったんだ、この人……)
側近たちの脳裏に、全く同じ想いがよぎった。
やがて、ひとしきり暴れて息を切らしたセシリアは、のそりと顔を上げた。
髪は乱れ、瞳の端には悔し涙が滲み、頬は怒りで紅潮している。
だが、その表情には、十五年間見たこともないような、みずみずしい生気が満ち満ちていた。
「……はぁ。はぁ……」
セシリアは乱れた前髪を息で吹き上げると、床に落ちた手紙を拾い上げ、じっと見つめた。
『人の気持ちがわかるようになったら、喜んでお米を分けてあげます』
「……生意気よ。本当に、最高に生意気」
セシリアの唇から、ふっと自嘲気味な、しかしどこか晴れやかな笑みがこぼれた。
十五年前、完璧なシナリオを用意して壇上に立ったあの日。
予定調和の断罪劇をぶち壊して逃げ出したあの愚弟と男爵令嬢。
あのとき、もし自分が思い通りにユリウスを廃嫡し、エレナを断罪していたら――きっと自分は、今よりもっと冷酷で、孤独な「完璧な怪物」になっていただろう。
あのバカ二人に出し抜かれたからこそ、自分は今日まで必死に、泥臭く国を背負ってきたのだ。
「……財務卿」
セシリアは咳払いを一つして、すっと背筋を伸ばした。
まだ少し髪は乱れていたが、その瞳には王国の実質的な支配者としての鋭い光が戻っていた。
「は、はいっ!」
震え上がる財務卿に、セシリアは手紙を突きつける。
「要求通り、貴族の無駄な夜会予算を全額カットします。平民と中小職人の関税を即時撤廃。地方農家への買い叩き防止令の草案を、今日中に私の机に出しなさい」
「し、しかし貴族たちの反発が……!」
「文句を言う貴族には、この手紙を読ませて『文句があるなら港町のユリウス頭取に直接食糧をねだりに行け』と言いなさい! あの十二人の子どもたちに囲まれて門前払いされるのがオチよ!」
「は、ははーっ!」
セシリアは立ち上がり、窓の外――はるか南方の海へと続く青空を見上げた。
そこには、自分を人間にしてくれた、憎らしくて愛おしいバカ夫婦が生きている。
「……待ってなさいよ、エレナ。いつか絶対に、あなたの前でその十二人の子どもたち全員を私の完璧な教育論で手懐けて、泣かせてやるんだから」
そう呟いたセシリアの口元には、かつての冷たい作り笑いではなく、挑戦的で、最高に人間らしい不敵な笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
青く澄み渡る秋晴れの空の下、王都の外港には、地平線を埋め尽くさんばかりの白帆が連なっていた。
『エール連合商業ギルド』の旗を掲げた巨大なガレオン船団。
その甲板には、王都の民の飢えを癒やす黄金色の特級小麦と、干した海産物の俵が山のように積み上げられている。波止場に押し寄せた王都の民衆からは、地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こっていた。
その喧騒の中心、赤絨毯が敷かれた貴賓用桟橋に、王家の豪奢な天蓋付き馬車が滑り込む。
近衛兵たちが道を開ける中、降り立ったのは王太子妃セシリア。
仕立ての良い濃紺のドレスを纏い、背筋を一切の隙なく伸ばした立ち姿は、かつてと変わらぬ「完璧な彫像」そのものだ。だが、その冷ややかな青い瞳は、船のタラップへと向けられ、微かに揺れていた。
タラップを降りてきたのは、三人。
先頭を行くのは、陽に焼けた浅黒い肌に精悍な髭を蓄え、上着を無造作に羽織った偉丈夫――かつて温室で「写経なんて嫌だ」と泣きじゃくっていた第二王子ユリウスだ。その横には、華美な宝飾品こそないものの、上質な絹のドレスを堂々と着こなし、肝っ玉母さんのオーラを全身から放つエレナ。
そして二人の後ろには、父親譲りの整った顔立ちに母親譲りの油断ならない笑みを浮かべた、十四歳になる利発そうな長男レオが控えていた。
「十五年ぶりですね、セシリア様」
エレナが、昔の男爵令嬢時代には絶対に見せなかった不敵な笑みを浮かべて口火を切った。
その瞬間、セシリアの眉がぴくりと動く。
「……ええ。お久しぶりですわ、ユリウス元殿下、ならびにエレナ殿。あの夜会の壇上で私を一人ぼっちにしてくれた世紀の逃亡者たちを、まさかこのような形で出迎えることになるとは夢にも思いませんでした」
刺すような冷徹な声音。
並の貴族なら失禁して平伏する威圧感だったが、エレナはどこ吹く風で「おほほ」と笑い飛ばした。
「あら、十五年経ってもお美しいこと! でも少し目尻に小じわが増えました? やっぱり胃薬ばかりかじって完璧主義を拗らせていると、お肌に毒ですわよ」
「……っ!」
セシリアの青白い額に、くっきりと青筋が浮かんだ。
背後の護衛騎士たちが「ひっ」と息を呑む。王太子妃の容姿にそんな無礼を口にして、首が繋がっていた人間は過去に一人もいない。
ユリウスが慌てて割って入った。
「こらエレナ、セシリアに失礼だろう。……セシリア、手紙の条件をすべて呑んでくれて感謝しているよ。王都の平民の関税を即日撤廃したと聞いて、君の決断の早さには心から敬服した。さすがは昔から僕たちの何倍も優秀だったセシリアだ」
ユリウスが昔と変わらない、少し気恥ずかしそうな、しかし打算のない温かな笑みを向ける。
かつては「頼りない」「無能だ」と切り捨てていたその笑顔に、セシリアの胸がちくりと痛んだ。
今のユリウスには、かつての怯えも劣等感もない。
人を愛し、人に愛され、己の足で荒波を越えてきた男だけが持つ、本物の包容力と自信が宿っていた。
「……調子の良いことを。条件を呑まねば、王都を兵糧攻めにするおつもりでしたでしょう」
セシリアは小さく息を吐いて扇を開き、口元を隠した。
だが、その視線が、ユリウスたちの後ろに立つ少年――長男レオに向けられる。
「ところで……そちらの少年が、手紙にあった『十二人の宝物』の一人かしら?」
「はい、長男のレオです」
エレナが誇らしげにレオの肩を抱く。
レオは一歩前に出ると、王宮の作法に寸分の狂いもない、見事なボウ・アンド・スクレープを見せた。かつてセシリア自身が叩き込まれた王宮儀礼そのものの完璧な動作に、セシリアは目を丸くした。
「お初にお目にかかります、王太子妃殿下。エール連合商業ギルド第三船団長のレオと申します。母から『王都には、大理石を削って作ったような人間離れした完璧な美女がいる』と散々聞かされておりましたが……なるほど、母の言う通り、あまりのお美しさに息を呑みました」
淀みない口調、完璧な礼儀作法、そして相手を立てつつも呑まれない堂々たる商才の眼差し。
セシリアは扇を下ろし、呆気にとられたように少年を見つめた。
「……十四歳で船団長? そしてその王宮作法……エレナ、あなたが教えたの?」
「まさか! 私は前世も今世も野良育ちですから無理ですよ。ユリウスと、うちのギルドに拾った元落ちぶれ貴族の爺やたちが手取り足取り仕込みました。ちなみに算術と航海術はすでにユリウスの三倍できます」
「エレナ、それは言わない約束だろう……!」
頭を抱えるユリウスに、波止場にいた船乗りたちからドッと笑いが起こる。
その温かく、遠慮のない空気感。
セシリアは、自分が命がけで守ってきた「完璧な王宮」には決して存在しない、泥臭くも眩しい生の輝きを目の当たりにしていた。
「……ふっ」
突然、セシリアの口から微かな吐息のような音が漏れた。
そして――。
「ふふ……あははははは!」
セシリアは扇をパチンと閉じ、両手を腰に当てて、波止場中に響き渡る声で高らかに笑い出した。
側近たちが腰を抜かさんばかりに驚愕する。あの鉄の女、氷の聖女と恐れられたセシリアが、公衆の面前で腹を抱えて笑っているのだ。
「セ、セシリア様……?」
ユリウスが目を丸くする。
セシリアは目尻に浮かんだ涙を指先でぬぐうと、十五年前のあの夜会以来、初めて見せるような、晴れ晴れとした悪戯っぽい笑みを二人へ向けた。
「参りましたわ、ユリウス、エレナ。あなたたち、本当に最高のバカ夫婦ね。……あの夜会で無理やり私を悪役に仕立て上げて処刑台に送られるより、よほど痛快で、見事なざまぁ返しをしてくださったこと」
「セシリア様……」
「でもね、これで勝ったと思わないことよ!」
セシリアはレオをビシッと指差した。
「レオと言ったかしら。あなたのその才覚、商業ギルドだけに置いておくのは国家の損失よ。いずれ王立学院の特待生として王都へ引き抜き、私の手元で最高の官僚に育て上げてみせますから覚悟なさい!」
宣戦布告されたレオは、母親譲りの不敵な笑みを浮かべ、ふっと眉を上げた。
「お言葉ですが妃殿下、僕の初任給、王宮の大臣の倍はありますよ? 買い叩きは禁止のはずですが?」
「なっ……生意気なクソガキね! 親の顔が見たいわ!」
「あはは! 目の前にいますよ、セシリア様!」
エレナが大笑いし、ユリウスが困ったように笑い、セシリアもまた悔しそうに笑った。
かつて破滅と憎悪で終わるはずだった三人の物語は、十五年の時を経て、互いを認め合う最高の好敵手として、秋の青空の下で新しい航海を始めていた。
◇◇◇
潮風が吹き抜けるエール港の巨大なギルド本部。
頭取室の重厚な執務机の向こうに座っているのは、ユリウスでもエレナでもなく、ましてや長男レオでもなかった。
「――よって、南岸航路の香辛料関税は現状維持。ただし、現地の小規模農家から直接買い付ける契約を結ぶなら、うちの倉庫使用料を二割免除します。どうですか?」
手元の帳簿をパタンと閉じたのは、十三歳の長女クララ。
母エレナ譲りの栗色の髪を後ろで束ね、目元に鋭い光を宿した少女の前に、禿頭のベテラン商人が脂汗を流して平伏していた。
「み、見事なご提案で……! 頭取がお留守でも、まさかお嬢様がここまで数字に明るいとは……!」
「父の言いつけですから。『人の気持ちを大切にしない商売は、いずれ自分が干上がる』ってね。契約書にサインをどうぞ」
商人が頭を下げて部屋を出ていくと同時に、クララはふうと深く息を吐き、机に突っ伏した。
「あー、疲れた! レオ兄様がいれば三分で片付く商談なのに!」
すると、部屋の隅の長椅子から、二枚の羊皮紙をひらひらと揺らしながら声が飛んだ。
「泣き言を言わないのクララ姉さん。こっちの北国向け防寒具の在庫管理、三男のオリバーと四男のルーカスが港の倉庫で全部数え終わったよ。誤差ゼロ」
眼鏡を押し上げながら涼しい顔で報告したのは、十二歳の次男ノア。父の穏やかな気質と母の緻密な計算力を最も濃く受け継いだ、ギルドの歩く頭脳である。
「誤差ゼロ!? あの脳筋兄弟が!?」
「僕が『間違えたら今日の夕飯の肉パイは抜きだ』って言ったら、死に物狂いで数えてたよ。ほら、窓の外見てごらん」
クララが窓辺に駆け寄ると、港の波止場では、十一歳のオリバーと十歳のルーカスが、屈強な荷揚げ人夫たちに混ざって木箱を軽々と担ぎ上げていた。
「おい、そっちの荷は湿気に弱いぞ! 雨覆いをかけろ!」
「はいよ坊ちゃん! 相変わらずいい指示出すねえ!」
人夫たちと汗を流しながら笑い合う姿は、かつて下働きの名前を全員覚えて気遣っていた父ユリウスの生き写しだった。
「ふふ、あいつらもちゃんと父さんの息子ね」
クララが目を細めたその時、執務室の重い扉がドカーンと蹴破られた。
「た、大変だーッ! 事件発生! 大事件だよ!」
転がり込んできたのは、九歳の次女サラと八歳の三女エマ。
手には半分かじられた人参と、泥だらけの台帳が握られている。
「どうしたの二人とも!?」
「市場の悪徳ブローカーがね、王都の食糧危機に便乗して、うちの管轄の小麦粉をごっそり買い占めようと買い煽りを仕掛けてきたの!」
「なにっ!?」
クララとノアが同時に立ち上がる。
「父さんと母さんが王都へ行ってる隙を突いたわね……! うちが留守だからって、子ども相手なら騙せると思ったわけ!?」
「もちろん、ただじゃ転ばないよ!」
サラがニヤリと八重歯を見せた。
「四女のミア(六歳)と五男のテオ(七歳)がね、市場の八百屋のおばちゃんたちに『いま小麦粉を売っちゃうと、お父様が帰ってきたときに特製ジャムがもらえなくなるよ〜』って泣きついて回ったの! おばちゃんたち全員、悪徳ブローカーを箒で追い払ったよ!」
「さらに!」
エマが胸を張る。
「六男のフィリップ(五歳)と五女のソフィア(四歳)が、そのブローカーの馬車の車輪に特製の粘着水飴を塗りたくって、港の広場から一歩も動けなくしてあるわ!」
「……あの子たち、母さんの悪知恵をどこで覚えたのよ」
クララは呆れつつも、思わず吹き出した。
「よし、トドメを刺しに行くわよ! ノア、違約金と営業妨害の請求書を大至急作成して!」
「もう出来てるよ。法務官のサインも、父さんの代筆(公認)でバッチリ取ってある」
「仕事が早くて助かるわ!」
総勢十人の兄弟姉妹が、ドタドタと足音を響かせて階下へと駆け下りていく。
その先頭を行くクララの腕の中には――。
「きゃっきゃっ!」
満面の笑みでよだれを垂らしながら、ギルド頭取の特製黄金印章をガラガラ代わりに振り回す、一歳の末っ子・七男トビーがしっかりと抱きかかえられていた。
「トビー、あんたも現場監督よ! お父様とお母様が王都から帰ってくるまでに、この港町の平和を完璧に守り抜くわよ!」
「「「おーっ!!」」」
王宮の完璧令嬢セシリアが知ったら卒倒しそうな、泥臭く、逞しく、そして愛に満ちた十一人(+乳児一人)の包囲網。
親譲りの「人の心」と「強靭な商才」を武器に、小さな怪物たちは、今日も賑やかに港の悪党を叩き潰しに出撃していくのだった。
◇◇◇
夕暮れの茜雲を映すエール港に、王都からの帰還船が舳先を滑り込ませた。
タラップを踏みしめたユリウスとエレナ、そして長男レオを出迎えたのは、整列した衛兵でも格式張った歓迎の辞でもない。
「「「お父様ーーっ! お母様ーーっ!!」」」
地鳴りのような歓声とともに、波止場の石畳を揺らして突撃してきた十一人だ。
「うわっ、待て、全員で突っ込むな!」
ユリウスが屈強な腕を広げた瞬間、上は十三歳の長女クララから下はよちよち歩きまでが一気に胸元へ雪崩れ込み、元第二王子はあっけなく仰向けにひっくり返った。
「あはは! あなた、十五年鍛えても子ども十一人の質量には勝てないわね!」
エレナがお腹を抱えて大笑いしながら、両手を広げて待ち構える。そこへ四女ミアと五女ソフィアが飛びつき、抱き上げられた末っ子トビーが満面の笑みでエレナの頬をべっとりと舐め回した。
ギルド本部の大広間に戻るや否や、子どもたちによる「留守中業務報告会」という名の武勇伝合戦が始まった。
長テーブルの上には、次男ノアが整然とまとめた帳簿と、なぜか半分乾いた水飴の壺、そして悪徳ブローカーが涙ながらに署名した違約金の証文が並んでいる。
「……ちょっと待って。順を追って説明してちょうだい」
エレナが眉をひそめつつ証文をつまみ上げた。
「まずね、お母様!」
九歳のサラが身を乗り出す。
「王都の食糧危機を聞きつけた悪徳ブローカーが、うちの小麦粉を買い占めようと市場で煽り立てたの! だからミアとテオが、八百屋のおばちゃんたちに『お父様特製の柑橘ジャムが届かなくなるよ〜』って泣き落としをかけて、市場全体でそいつを完全包囲したんだよ!」
「人の感情に訴えかけて包囲網を作る……完全に私の手口じゃないの」
エレナが額に手を当てると、横から八歳のエマが胸を張った。
「それだけじゃないわ! 逃げようとした馬車の車輪に、フィリップとソフィアが特製の粘着水飴を塗りたくって足止めしたのよ!」
「水飴!? 馬車に!?」
ユリウスが目を見張ると、十二歳のノアが眼鏡をクイと押し上げて書類を差し出した。
「ええ。動けなくなったところへ、道路の不法占拠とギルドへの営業妨害、それに不当買い占め未遂の違約金を請求しました。法務官のサインも僕が父さんの筆跡で代筆しておいたので、法的に一点の隙もありません」
「お前……私のサインを完璧に真似られるのかい……?」
ユリウスが戦慄の面持ちで我が子を見つめる。
トドメとばかりに、長女クララがふふんと鼻を鳴らした。
「そのブローカーが持ってた買い付け資金は全額没収、うちの倉庫使用料として帳簿に計上してあるわ。南岸航路の香辛料農家への無利子融資に回しておいたから!」
一瞬の静寂。
そして――。
「ぶわっはっはっはっは!!」
ユリウスが膝を叩いて豪快に爆笑した。広間の硝子窓がビリビリと震えるほどの、底抜けに晴れやかな笑い声だった。
「すごい! 素晴らしすぎるよ、お前たち! 悪徳商人を手玉に取って、市場の仲間を守り、その上しっかり利益を困っている農家へ回すなんて! 誰一人怪我もなく、全員で力を合わせたんだな!」
ユリウスは子どもたちを片っ端から抱き寄せ、頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「十一歳のオリバーも十歳のルーカスも、倉庫の荷降ろしを完璧に仕切ったと聞いたぞ! みんな、父さんの誇りだ!」
「へへっ、お父様、くすぐったいよ!」
少年たちが照れくさそうに笑い声をあげる。
エレナもまた、腹筋がよじれるほど笑い転げたあと、しみじみと証文を撫で下ろした。
「まったく……あんな完璧すぎて人間味のないセシリア様に見せてやりたいわね。『これが、泥臭く生きてる我が家の教育の成果よ!』って、この証文をあの人の額に貼り付けてやりたいくらいだわ」
「母さん、それはさすがに国家反逆罪になるよ」
長男レオが苦笑しながら、王都から持ち帰った木箱をテーブルの上にドンと置いた。
「ほらみんな、王宮の特級料理長が焼いた最高級のマカロンと焼き菓子だ。セシリア王太子妃殿下が『子どもたちに分け与えなさい、ただし行儀の悪い子にはあげません』って、ツンツンしながら持たせてくれたお土産だよ」
「「「わあぁぁぁっ! 王宮のお菓子だーーっ!!」」」
十一人の手が嵐のように伸び、テーブルの上は一瞬で戦場と化した。
「待て、トビーの分は僕が確保する!」「クララ姉さん二個取ったでしょ!」「早い者勝ちよ!」と怒号と歓声が飛び交う。
その狂騒の真ん中で、ユリウスとエレナは顔を見合わせ、そっと肩を寄せ合った。
「ねえ、あなた」
「なんだい、エレナ」
「十五年前、あの夜会をすっぽかして、本当に良かったわね」
ユリウスは優しく目を細め、愛妻の手を力強く握りしめた。
「ああ、心からそう思うよ。あの日、君が僕の手を引いて『かけおちします』と言ってくれたから――僕たちの最高の王国が、ここにあるんだ」
窓の外では、夜の帳が下りた港に温かな灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。
泥臭く、騒がしく、誰よりも人間らしく笑い合う家族の城は、今夜も世界で一番幸せな光に包まれていた。
◇◇◇
王都の焼き菓子を一瞬で平らげた大広間には、今度は香ばしい香草と炒めた玉ねぎ、そして濃厚な魚介スープの湯気が濛々と立ち込めていた。
厨房から運ばれてきたのは、もはや家庭用とは呼べない、船の錨でも鋳造できそうな特注の巨大真鍮鍋。
それを力自慢のユリウスと、十一歳のオリバー、十歳のルーカスが三人掛かりでテーブル中央の耐火レンガの上へ「せーの!」と下ろした。
ドスン、と小気味よい重低音が響き、鍋の蓋が開けられる。
「うわあああぁぁぁっ……!」
十四人分の歓声が天井を突き抜けんばかりに響いた。
黄金色に澄んだスープの中で踊るのは、今朝獲れたばかりの巨大な白身魚の切り身、殻付きの海老にムール貝、そして大振りに切られた甘い根菜と手作りの肉団子。エレナが前世の記憶を頼りに調合した、港町特製のブイヤベース風大鍋料理だ。
「はいはい、席に着いて! パンは一人二個までよ、焦げたのはオリバーね!」
エレナがエプロンを翻しながら、山盛りの焼き立てパンの籠をドンと置く。
「えーっ、母さん、なんで俺が焦げパンなの!?」
「荷揚げで一番汗かいたんだから、炭素摂って丈夫になりなさい!」
「どんな理屈だよ!」
大爆笑が起こる中、ユリウスが立ち上がり、大きな木製ジョッキを掲げた。
「よし! 留守を守り抜いた頼もしい子どもたちと、最高の妻、そして無事に戻った私たちの航海に――乾杯!」
「「「かんぱーーい!!!」」」
カラン、コロンと木や陶器の杯がぶつかり合い、一斉に木のスプーンが鍋へと伸びた。
「熱っ、うまっ! 魚の出汁がすっごく出てる!」
長男レオがパンをスープに浸して頬張り、十四歳らしからぬ幸福そうな溜息を漏らす。
「王都の貴族の飯はどれも上品すぎて味が薄いんだよ。やっぱり母さんの飯が一番だ」
「当たり前でしょ、王宮の澄まし汁でこの十二頭の怪獣たちの胃袋が満たせるわけないじゃない」
エレナが笑いながら、末っ子のトビーに裏ごしした野菜スープをフーフーと冷まして食べさせる。トビーは短い手足をバタバタさせて「まんま! まんま!」と催促が止まらない。
その横では、十三歳の長女クララと九歳のサラが、鍋の底に残った最後の海老を巡ってスプーンで激しいフェンシングを繰り広げていた。
「サラ、年上を敬いなさい! この海老は今日一日頭脳労働した私のものよ!」
「ずるい! 悪徳ブローカーの足止めを思いついたのは私だもん! 頭脳なら私の方が使った!」
「二人ともやめなさい、半分こにするよ」
十二歳の次男ノアが、冷徹な手付きでナイフを滑らせ、海老を一分の狂いもなく真っ二つに両断した。
「「ちぇっ」」
「ははは! ノアの公平さは相変わらずだな!」
ユリウスが豪快に喉を鳴らしてエール酒をあおり、エレナの皿に大振りの白身魚をよそってやった。
「ほらエレナ、君も食べなさい。今日は本当に疲れただろう」
「ありがとう、あなた。……ふふ、やっぱり家が一番ね」
ふうふうと息を吹きかけ、熱々の魚を口に運ぶ。
口いっぱいに広がる豊かな潮の香りと、野菜の優しい甘み。身体の芯から温まるその味に、エレナの表情がふわりと緩んだ。
周りを見渡せば、スープを服にこぼして騒ぐ五男のテオ、それを叱りながら自分のパンをちぎってやる八歳のエマ、こっそりお父様のエール酒に指を突っ込もうとしてレオにデコピンされる六男のフィリップ。
誰一人として行儀が良いとは言えない。
王立学院のテーブルマナー講師が見たら、卒倒して即座に退学を言い渡すような食卓だ。
だが、ここには誰も飾らない。
誰かを蹴落とすための陰謀も、完璧を装うための冷たい仮面もない。
湯気と笑顔と、遠慮のない怒号と歓声。
「ねえ、あなた」
エレナが横に座る夫を見上げた。
「ん? どうしたんだい、エレナ」
スープで口の端を少し汚したユリウスは、かつて王宮で怯えていた面影などどこにもなく、太陽のように温かい笑顔を返してくる。
「ううん。ただ……美味しくて、あったかいなと思って」
「ああ、世界一美味いよ」
ユリウスはそっとエレナの肩を抱き寄せ、耳元で悪戯っぽく囁いた。
「明日の朝一番で、セシリアにこのスープの壺を王宮便で送ってやろうか? 『これが本当の幸福の味です』って手紙を添えてさ」
「やめなさいってば。あの人、悔しさのあまり鍋ごと叩き割って、そのあと一人でこっそり完食しちゃうから」
「あはは! 確かにやりそうだ!」
二人が顔を見合わせて笑い転げる横で、「お母様ー! 鍋のスープなくなっちゃった! おかわり作ってー!」「肉団子追加ー!」と、底なしの胃袋を持つ怪獣たちの大合唱が響き渡る。
「はいはい、今追加の野菜刻むから待ちなさい!」
エレナは腕をまくり上げ、立ち上がった。
窓の外に広がるエール港の夜空には、満天の星が優しく瞬いている。
真実の愛を選び、泥だらけになって築き上げたこの賑やかで騒がしい王国は、今夜もどこまでも温かな湯気と、途切れることのない笑い声で満ちていた。




