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「たまご焼き(青海苔入り)」 【過去作 リメイクなし】

掲載日:2026/02/21

 奈津子が中学生のときに建てられたという白くてきれいなその家には、海水浴場に訪れる誰の目も向いている。その視線の先に自分の姿があるのを奈津子が幸福だと感じていられるのは、そこに住んでいる麻衣と高校で知り合うことができたからだ。

 奈津子の方から声をかけた。麻衣が白い家に住んでいると知ってからすぐのことだった。白い家が目当てで近づいたと悟られないよう気を配った。けれど、気づかれた。無意識のうち、麻衣の後ろにあの家を思い浮かべてしまっていた。眺めるだけではなく、中に足を踏み入れることができるかもという強い気持ち、それを胸に抱きながら麻衣に話しかけていた。それは正直なところだった。

 しかし、それだけではなく、奈津子は、麻衣のどこかに惹かれたところがあったのだろう。麻衣は、都会で生まれ育ったこともあって、田舎育ちの奈津子たちとはどこか違っている。それを奈津子は、お嬢様のような、と感じている。家で着ている服もそういったものが多いし、麻衣を取り巻いている空気というか、たたずまいというのだろうか、それがまったく異なっているのだ。それだからどこにいても、彼女にだけは光が当たっているようだと奈津子には見える。引っ込み思案なところもあるから、学校ではどちらかというと多くの生徒の中に埋もれてしまいがちな麻衣なのだが、奈津子にはすぐに彼女の姿を見つけることができる。それは、そのためなのだろう。


  ◇


「吉沢くん。この続き、もう書かないんですか?」


「たぶんな」


 同じクラスの吉沢輝樹くん(中学二年生)は、ときどきノートに何かを書いています。創作の物語というか、小説というのか、そういったものを。私は、ひそかに物語が書かれるのを心待ちにしているのです。でも、たいがい物語が完結することはありません。それはこの日の話もそうで、途中までとなっていました。


「でも、このあと、主人公の女の子と友だちの麻衣って子が、海辺の白い家で何かするとか、どうにかなってしまうとか、そういうこと、あるんじゃないんですか? ……気になってしかたないのですけど……」


「あー、当初、考えてたのは……なんてぇかな、白い家、麻衣の存在っていうのは、誘い水っていうのかな、一種の誘惑ってことでさ。ほんで、その家で、麻衣や麻衣のお父さんがさ」


「お母さんはいないんですか?」


「ああ、麻衣にお母さんはいない。死んでてな、あとでわかるけど。んで、頻繁に麻衣の家に行くようになってって、ある日、お泊まりがあるわけな」


「それで? 主人公の女の子を殺しちゃうとか、ですか?」


「いや、そうじゃないんだけど……んー、ま、人は殺すんだ。山奥に住んでる、誰も知らないような人、連れて来てさ、何人もな。何人もって言っても、いっぺんにじゃなくって、一回に一人なんだけど」


「何回もやるんですか。それで?」


「で、そのお泊まりのときに、実はね、ってことで、麻衣が話をするわけ。それで、麻衣たちが人を殺すところを目の当たりにするのな、奈津子が。ああ、主人公の女の子な。当然、口止めされて、というか、まあ、誰かにそのこと言ったらさ、自分が殺されちゃうってわかるじゃんか。それをわかってるわけ、奈津子は。相手、人殺しなんだし、人が死ぬことになんも感じないような連中で、っていうか、ほんと興味本位からの始まりなんだ。人を殺す感覚ってどんなもんなのかな、みたいなな。それがだんだん快感になってってさ。ま、快楽殺人っていうのか? そういうことな。でさ、すごく悩んだり、どうしていいんだか、っていろいろと葛藤があるわけ、主人公は。なんだけど、何度も何度も人の殺されていくとこを見ることで、『なんだかおもしろそうね。私も仲間に入れてよ』みたいな感じになってって……」


「へー、そうなんですかあ……あ、もしかして、お母さんがいないの、死んだというか、麻衣たちに殺されたってことなんですか?」


「そうそう。そういうことな」


「いいじゃないですか。それを書いてください」


「いや、そうは言っても、ちょっと無理あるだろ。女子高生とそのお父さんが何人も人殺すとか、殺したあとその死体をどう処理するんだ、とかさ。無理くり話続けてもな……だから、それはもうやめだ」


 いつもこんな感じで、私の意思に反して、続きが書かれることは、ほとんど永遠にないのです。


「でも、吉沢くんの書いてくれるお話に期待してるって人も、中にはいるんですよ」


「そうなのか? そりゃあうれしいけどな」


  ◇


 あれは、三学期が始まって二日目の朝でした。登校して、自分の席(窓際の一番前)で本を読みながらホームルームが始まるのを待っていたとき、


「おい、布施」


 私は返事をしませんでした。自分の名前だとはわかったのですが、滅多にクラスメイトから声をかけられることなんてないので、一瞬、なんのことだかわからなくて。


「おい、布施」


 私は返事をしませんでした。冬休みのあいだに図書館から借りてきた本がまだ読み終わっていなかったので、学校に持ってきて読んでいました。本から顔を上げると、隣の席の吉沢くんが席に座ったまま体ごと私の方を向いていたので、呼ばれたのだとそこでしっかり理解しました。


 ですが、理解してもなお、私は返事をしなかったので、


「おい、布施」


 吉沢くんは、もう一度、私を呼びました。怒っているわけではないとはわかったのですが、一度目、二度目のときよりも少し声が大きいように感じました。


「は、はい。なんですか?」


 視界の隅っこでやっと吉沢くんを捉えられる程度に顔を向け、恐々という感じに返事をしました。


「お前、目、近いぞ。もっと本から、目、離せ」


「は、はい……でも、こうしないと……」


「つってもお前、本読んでるんだか、本のにおい嗅いでるんだかって感じだったぞ」


「は、はい……すみません」


「謝れなんて言ってないけど」


 吉沢くんは、黒板の方に向き直ってしまいました。


 それからすぐに、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴りました。


 先生が教室に来るまでのあいだ、私の胸は、不思議と鼓動が高かったように思いました。でも、それは、普段話しかけられることのない私に、クラスの、それも男子が声をかけてきたという、単にその程度のことからだったろうと思っていました。


  ◇


 その日の一時間目が終わったとき。


「おい、布施」


 私は返事をしませんでした。


「おい、布施」


 やっぱり私は返事をしませんでした。このときも私は、借りてきた本を読んでいました。本から顔を上げると、今朝のときと同じように、吉沢くんが席に座ったまま私に体を向けていました。


「な、なんですか?」


 私の声は、吉沢くんに聞こえているのかが不明というような小さいものでした。でも、聞こえていないのならそれでもいいと思っていました。


「布施。お前、さっきの時間、ノートとってなかったろ」


「……は、はい。だって……」


 続きを言おうかとしていると、吉沢くんが自分のノートを私の机に放り投げてきました。ばさっと音が立ったあと、ノートは私の机の上をすべっていって、止まらず床に落ちてしまいました。


「あ、わりいな」


 私が小さい体を大きく傾けて床に落っこちたノートを拾っていたら、


「それ、やるよ」


 吉沢くんは言いました。

 体を戻してから、


「やるって……吉沢くんはどうするんですか? 大切なノートですよ」


 私が言うと、


「もう、覚えたよ」


 吉沢くんは黒板へと向き直って、机から教科書を出しました。たぶん、次の時間に行われる理科の教科書だったと思います。


「あ、あの、吉沢くん……」


 言ったのですが、吉沢くんは、後ろの席の男子と話を始めてしまったので、私はそれ以上、言葉を続けられなくなってしまいました。


 多少迷惑に、そして、不思議に思いながらも彼の放ってきたノートを軽くめくってみました。吉沢くんの書いた彼らしいきれいな文字がびっしり書き連ねられていて、重要と思われるところには赤や青のラインが定規を使ってこれまた丁寧に引かれていました。


  ◇


 二時間目の理科の授業が終わったあとも、吉沢くんは私を呼びました。


「おい、布施」


 と二回呼んで、二回目のときに私は彼の方を向きました。そして、吉沢くんは一時間目が終わったときと同じように、ノートを私の机に放り投げてきたのです。三時間目のあとも、五時間目のあともそうでした。四時間目が終わったあとそれがなかったのは、その時間が体育の授業だったからでした。


  ◇


 翌日、ホームルームが始まる前、私は、吉沢くんにノートを返しました。


「よ、吉沢くん、ノートありがとうございました。とても助かりました」


「いや、それは、お前にやったやつだから、返さなくていいぞ」


「い、いえ、そういうわけにはいきません。昨日、帰ってから全部写しましたから、大丈夫です。それと、もう、こういうことしてくれなくていいですから」


「まあ、そう言うなよ」


「いえ、ほんとにいいですから」


 いくらか強く言ったので、それ以上、吉沢くんは何も言ってきませんでした。


  ◇


 私は、授業中、睨みつけるように黒板を見、ノートをとりました。とても目が痛くなりました。一時間目、二時間目まではそれでもまだよかったのですが、三時間目あたりになると、ぼやけてきて、なかなか上手く見ることができませんでした。書いている途中で字を消されてしまったことも何度かあって、きちんと写すことができませんでした。


  ◇


 その日のお昼、私も吉沢くんも、自分の席でお弁当を食べていました。


「おい、布施」


 そのときは、返事ができました。


「は、はい」


「お前さ、餅、いくつ食べた?」


「え?」


「餅だよ。正月にさ」


「あ……あまり食べなかったです」


「そうか。嫌いなのか?」


「い、いえ、そうではないのですけど……」


「俺さ、焼いたのに海苔巻いてさ、しょう油つけて食べんの好きなんだ。お雑煮もいいけどな」


「おしょう油ですか……私の家では、ただ焼くだけなので……」


「なんで? しょう油つけないのか?」


「おしょう油つけたら、美味しくていくつでも食べられちゃうからって……だから、つけないようにって、お母さんが」


「ふーん……よくわかんないけど」


 言って、吉沢くんは、おにぎりを口に放り込みました。


「……よ、吉沢くん、おにぎりだけですか?」


「ああ、俺が作ったんだ。ダメか?」


「い、いえ、ダメじゃないです……いつも自分でですか?」


「ん? まあ、だいたいな。俺の家、親二人とも忙しいから、自分のことはなるべく自分でなんだ」


「売店とか、コンビニで何か買うとか……」


「学校の売店はさ、いつも混んでるじゃんか。コンビニは、まあ、たまに食べるけどな、コンビニの弁当。でも、美味くねえよ、あれ。それよか自分で作った方がまだいいって」


 それを聞いて、私は、お弁当箱のフタにたまご焼きを載せ、吉沢くんの前に置きました。


「なんだよ?」


「た、食べてください」


「いいのか?」


「ノートのお礼というか……少しでごめんなさい」


「ん? なんだ? このたまご焼き、中になんか入ってんのか?」


「青海苔です。ダメでしたか?」


「いや、そうじゃない。たまご焼きに青海苔入れてんのなんて初めてだからさ」


「あの、美味しくないかもしれませんけど……すみません」


 吉沢くんは、フタを手にし、載っているたまご焼きに鼻を寄せてにおいを嗅いでいました。どきどきして、少し不安でした。


「ねえ、輝樹」


 そうやっている吉沢くんの前に、クラスでも、そして、学校中でもとても人気のある高木多恵子さんがやって来て、


「あれ? たまご焼き? 輝樹、自分で作ったの?」


 吉沢くんにそう言いました。


「いや、布施からもらった。いいにおいなんだぜ。美味そうだろ」


 吉沢くんの関心は、私から高木さんへと移っていきました。


 高木さんは、整った顔立ちで、すらっとしてスタイルもよく、背も女子の中では高い方です。長くて真っ直ぐな髪がとてもきれいです。勉強もよくできるみたいで。それだから、人気があるのも、そして、男女問わず彼女のもとに多くの生徒が集まってくるのも頷けます。何から何まで私なんかとは大きく違っていて、とても羨ましく思います。


「ふーん……そうなんだ……」


「なんだよ多恵子? なんかあったか?」


「ううん、いいの……じゃね」


 高木さんは行ってしまったのでしたが、去り際、一瞬、睨まれたような気がしました。


「おお、うめー。おい、布施。すげーうめぇぞ、これ……おい、布施。聞こえてるんだろ? 返事しろよ」


「え、あ、は、はい」


 吉沢くんは、指をぺろぺろと舐めていました。


「あ、す、すみません。楊枝、刺しておけばよかったですね」


「いや、いいよ……それよか、どした? なんかあったか?」


「い、いえ、その……高木さん……」


「ああ、あいつさ、ああ、高木多恵子のことな、あいつとは、小学校のころからずーっとクラス一緒でさ、六年間も」


 そういったことを訊いたつもりではなかったのでしたが、吉沢くんは、高木さんについてあれこれ話し始めました。なんでそんな話を、と思って、あまり聞きたくはなかったです。


「中学に来てもなんだよな。自然と仲もよくなってさ」


「……仲いい……ですか……」


 私なんか、と思いましたし、高木さんの方が、吉沢くんと上手く釣り合っていると思いました。吉沢くんも、背が高い方だし、明るい性格のように思えるし、頭もいいみたいだし。だから、外見上のことにしても、中身にしても。


「つったって、付き合ってるとかはないけどな。よく勘違いされるけど。お似合いだ、とかなんとかな。でも、俺とあいつとのあいだにそういうことはないな、たぶん。いや、絶対ない」


 不思議と少しほっとしました。


  ◇


 放課後、私は一人で教室の掃除をしていました。


「おい、布施」


 教室の後ろの入り口から、私を呼ぶ声が飛んできました。


 振り返り、目を凝らして見てみました。短髪の、やや高い身長、着ている服がセーラー服ではなく学生服であること、などから男子であるのはなんとなくわかったのですが、誰なのかまではわかりませんでした。


「おい、布施」


 もう一度、呼ばれました。


「は、はい」


 返事だけはしておきました。


 その男子は、ずんすんとものすごい勢いで私に近よってきました。怖くなってしまい、私は、ほうきを両手で胸の前に抱えたまま体を硬くさせ、顔だけを下に向けました。頭だけでお辞儀をするみたく。


「痛て」


 男子が声を上げました。同時に、私の頭の天辺にも何かが当たった感触がありました。金属のように思いました。


 下を向いたまま目を開けると、肩にかかるかどうかといった長さの私の髪がばさっと垂れていて、その隙間から男子の上履きが見えました。上履きには、名前が書いてあって。


「あ……よ、吉沢くんでしたか」


 私は、顔を上げて言いました。吉沢くんは、上から三つ目の胸の金ボタンを手で触って、というか、軽くなでていました。


「急に頭下げるから、お前の頭が当たったぞ」


「す、すみません。でも、誰だかわからなかったから怖くって……それに……」


 なんでだったのか、体が少し言うことを聞いてくれませんでした。


「それに、なんだよ?」


 私は、なんとか二、三歩後ろに下がりながら、


「ちょ、ちょっと近すぎです」


 言って、


「ああ、わりい。なんだけど、これくらい近くないと、あれかなあと思ってな」


 吉沢くんは、できたその距離を軽く縮めてきました。


 私は、体を少し丸めながら、


「い、いえ、そこまで近くなくても……」


 言いました。


「ふーん、そうか……それにしても、声で誰だかくらい当たりつけろよ。隣同士なんだぞ、席」


「す、すみません」


「それで、なんでお前、一人で掃除してんだ? ほかの奴らは?」


「み、みんな帰ってしまいました」


「なんで?」


「なんでかは知らないですけど……何か用事でもあったんじゃないですか?」


「用があるったって、掃除当番はやらなきゃだろ。昨日もか?」


「昨日は、いましたけど……」


「ふーん……お前も帰っちゃえばよかったのに」


「でも、それだと……誰かがやらないといけませんから」


「それはそうだけど、それがお前じゃないとダメってことはないんじゃん?」


「私であってもいいと思います」


「……よくわかんないけど……まあ、いいや、早いとこ終わらせて帰ろうぜ」


「え、あ、は、はい」


 吉沢くんは、私と一緒に掃除をしてくれました。


  ◇


 掃除を済ませ下駄箱に行くと、


「おい、布施」


「よ、吉沢くん」


「いまのは声でわかったのか? それとも、振り返ってからわかったのか?」


「え、あ、その……」


「ま、いいや。一緒、帰ろうぜ」


「は、はい……でも」


「おい、早くしろよ」


「は、はい。すみません」


「お前、謝ってばっかだな」


「え?」


「すいません、すいませんばっかでさ」


「す、すみません」


「また……いいから、早くしろって」


 上履きを脱いで靴を出そうと自分の下駄箱を見たら、中に何冊かノートが入っていました。ノートの表紙には『吉沢輝樹』と書かれていて。


「よ、吉沢くん、ノートはいりませんと言ったはずです」


「そうは言っても、お前、ちゃんと写せてなかったんじゃないか?」


「そ、それはそうなんですけど……」


 うれしいのはうれしいのですが、ノートを返そうと、彼に差し出しました。


「よ、吉沢くん、ノート返します」


「ダメだね。手に持った以上、もう、それはお前のもんだ」


「そんなこと言っても、ちゃんと吉沢くんの名前が書いてあります」


「そんなことは知らないね」


「もう。いい加減にしてください」


 私は靴に履き替えると、吉沢くんのノートを手に、彼を追いかけました。全力で走ったのですが、まったく吉沢くんとの距離を縮められませんでした。


 学校の門を出てから、吉沢くんは土手沿いの道へと進んでいきました。真っ直ぐのその道で、吉沢くんは何度か私の方を振り返ってきました。一定の間隔を保つように速度を調整しているようでした。ときどき、ジャンプもして余裕のあるところを見せていました。その姿は、とても楽しそうでした。彼に追いつき、ノートを返すために走っていたのでしたが、じゃれ合いか何かをしているようで、目的を忘れ、私の心も弾んでいきました。


 ですが、結局、私は諦めて、土手の脇のベンチに座って休むことにしました。


「おい、布施」


 遠くで吉沢くんが声をかけてきました。


「おい、布施」


 言いながら、素早く寄ってくると、吉沢くんは私の横に座りました。彼の息はとても白かったです。


「なんで追いかけてこないんだよ」


「つ、疲れました」


「なんでだよ。疲れんなよ」


「そ、そんなこと言っても……吉沢くん……足、速いから……追いつけません」


「ま、でもよ、こうやって走るのもいいよな、たまには」


「体育の授業、あるじゃないですか」


「それはそうなんだけどな」


「そ、そんなことより、ノート……」


「まあ、いいじゃんかよ」


「そういうわけにはいきません……あ、あの、聞いてますか?」


 吉沢くんのはるか後方に見える鉄橋の上を、電車が通っていました。そのため、私の声は、吉沢くんにはよく聞こえていないようでした。


 吉沢くんは振り返り、


「うるせー」


 と、楽しそうに怒鳴りました。


 土手を行く人の姿はちらほらとしかなかったのですが、その人たちは、みんな、吉沢くんを不思議そうに見ていました。


「あ、あの、吉沢くん」


「なんだよ?」


「吉沢くん、小説か何か書いてるんですか? ノートに……」


「ん? ああ、読んだのか?」


「す、すみません、勝手なことして……」


「いや、いいんだけど……つまんなかったろ?」


「いえ、そんなことないです……続き、気になって……」


「ふーん、そう……」


「できたら……書いてほしいかな……続き……」


 何、言ってるんだろ私、と思い、ちょっと恥ずかしくなってしまって。それでベンチを立って、勝手に歩きはじめました。早足になっていたと思います。


「なあ、布施の家って、どこらへん?」


 追いついてきて吉沢くんが言いました。


「あ、あの鉄橋の少し先を入ったところです」


 指を差して教えてあげると、


「ふーん……けっこう遠くなんだな」


「あ、あの、吉沢くんの家は、こっちの方なんですか?」


「いや。全然、反対方向」


「じゃ、じゃあ、どうしてですか? 無理に一緒に帰ってくれなくていいんですよ」


「別にそういうんじゃねぇって……ああ、あれだ、こっちのコンビニの方が弁当美味いらしいって」


「そ、そうなんですか?」


「いや……知らないけど……」


 吉沢くんの声は、なんだか小さかったです。


 そのとき、


「うるっせーっ」


 学校帰りの小学生(五人くらい、みんな女子)のうちの一人が、すれ違うときにものすごい勢いで叫びました。


 しばらくして、


「ああいうの、なんか嫌だな」


「え? 何がですか?」


「さっき、小学生がさ。なんっか、軽く吐き気したよ」


「でも、吉沢くんだって『うるせー』って……」


「いや、そうなんだけど……なんてかさ、女がああいうのはさ。俺は、ほら、男だから、まだいいかなって……男女差別か? これって」


「いえ、言いたいことは、なんとなく……」


「そうか。ならよかったよ」


「……あ、あそこのコンビニですか?」


「あ……ああ、たぶん、そうじゃねぇの……ん? なんかあれ、喧嘩してんのか?」


「え? どこですか?」


「店の脇。ほら、あそこ」


「……ああ、はい……喧嘩……そういうふうにも見えますね」


 私たちは立ち止まって、コンビニ横の路地にいる男女の様子を見ていました。


「なんか、空気の重たさがここまで伝わる感じな。生々しいな。なんだろ? 男の浮気が原因とか? いや、女の方が二股? どっちもしてそうだな、そういうこと。ま、いまは何でもありの風潮があるしな」


「あまりジロジロ見てると……それに、そういうの……」


「や、そうなんだけどな、ほら、いろいろネタになるかな、とかさ」


 歩き出しながら吉沢くんがそう言って、


「物語のですか?」


 たったったっ、と彼を追いかけ、並びかけながら私はそう訊きました。


「そうそう。いろいろと書いてみたくってなあ……あるはあるんだけど……」


「じゃあ、いろいろ書いてください」


「簡単に言うなよ。構想とか、後々の展開のこととか、そういうのまったく考えないでとりあえずでやっちゃうから」


「とりあえずでいいじゃないですか」


「最初のうちはそれでもいいかって思ってたんだけど……書いてて行き詰まっちゃうんだよ。ちゃんと先々のこと考えないと。やっぱいけないだろ、考えなしにやるのは。何事もそういうのはよくない……なんか、人生と同じだな」


 そう言って、吉沢くんは笑っていました。


  ◇


 しばらく、そんな感じでした。そんな感じ、というのは、毎日ではないにしても、吉沢くんがノートを貸してくれ、次の日に私が返し、お礼にと少ないながらお弁当のおかずをあげるといったこと。そして、ほんのときどき、私が一人で掃除をしていると、どこかからやって来て、吉沢くんが手伝ってくれ、一緒に帰るといったようなことです。


  ◇


 ですが、二月上旬のとある日のことでした。


 朝のホームルームが始まる前、


「ちょっとさ、あんた、なにいっつもあたしのこと睨んでんのよ。言いたいことあるなら言えばいいでしょ」


「いえ、あの、そういうのでは……」


 言ったのですが、一人の女子に激しく突き飛ばされてしまいました。その女子はソフトボール部の正捕手で体格がいいというのもあったし、まさかそんなことしてくるとも思っていなかったから、椅子から転げ落ちてしまいました。椅子から落ちたことで、打った腰の痛みが強かったのを覚えています。


「布施さん、大丈夫?」


 後ろの席の女子が私に言ったそれは、心配しているふうがまったく含まれていませんでした。私が突き飛ばされ、一瞬、わっと湧いたあと、さぁーっとクラス中が静まり返っていって。私がそうされたのなら、それは当然でしょ、というような感じがクラス中に漂っていたので、後ろの席の女子が言ったその言葉は、念のために声でもかけておいた方がいいのかな程度の、ううん、多少、嘲笑の意味もあったのだと思います。その証拠に、軽く声をかけてくるだけで、私を起こしてくれる生徒は一人もいませんでしたし、私と私を突き飛ばした女子とのあいだに入ってくれる人もいませんでした。


 私は、片足が椅子に乗っている状態で、目に見える範囲から状況を確認しました。私を突き飛ばした女子は、私の前にいるだけで、追加の攻撃を加えてはきませんでした。ですが、いまにも襲いかかってくるかというような雰囲気が、彼女の苛つきから十分に判断できました。


「おーい、どした? なんか、いつもとさ……」


 教室の入り口の方から声がしました。吉沢くんのものでした。


「おい、布施。どうした? 大丈夫か? とにかく、起きろ」


 吉沢くんは、手を貸してくれ、なんとか私は起き上がることができました。


 私を起こすと、吉沢くんは、私を突き飛ばした女子に向かって、


「おい、お前がやったのか? おい、布施に謝れよ」


 もの凄い勢いでした。


「は? なんでよ?」


「吉沢くん、やめてください。私に責任がありますから」


「お前は黙ってろ。おい、布施に謝れって言ったの聞こえなかったのかよ」


「なによ。関係ないでしょ、あんたには」


「関係なくない」


「なに、彼氏面しちゃって。引っ込んでてよ」


「彼氏面……そう言うんなら、こういうことにする。俺と布施は、いまこのときから付き合う。俺は布施の彼氏だ。関係なくはないんだ。これで文句ないだろ。早く布施に謝れ。俺の彼女に謝れ」


「なんなの? なに、ムキになっちゃって、バカなんじゃない」


「うるせぇ、いいから謝れ」


 私を突き飛ばした女子は、腕を組んでそっぽを向いてしまいました。


 すると吉沢くんは、


「おい、多恵子」


 言って、高木さんの前に進んでいったのです。


「なに?」


「お前なんだろ」


「何がよ?」


「お前がやらせてんだろ」


「だから何をよ? 何、言ってんの? わけわかんないんだけど」


「布施が掃除当番のとき、あいつはいつも一人でやってる。それはお前がクラスのみんなにそうするように言ってたんじゃないのか? 俺はそう読んでる。今回のことも、裏にお前の姿が見える。俺にはそう感じられる」


「……そうだとして、その証拠はないわよね?」


「証拠? そんなの、お前の心の中にちゃんとあるだろ。何年、お前と同じクラスだと思ってんだよ。お前がクラスの中でどんなふうに立ち回ってるのか、そんなことよく知ってるし、お前がどんなこと考えてそうかってことくらい、俺はわかってるよ」


「あたしのことわかってんだったらさ……」


 高木さんは、勢いよく席を立つと、鞄を持って教室を出て行ってしまいました。


  ◇


 その日の放課後。


「おい、布施。一緒、帰ろうぜ」


 下駄箱に吉沢くんがいたのですが、私は無視しました。


「おい、布施」


 学校の門を出ても、土手の道を歩いていても、吉沢くんの声が私を追ってきていました。


「聞こえてんだろ? おい」


 私は返事をしませんでした。


「ったく……おい、布施。お前、なんか落としたぞ」


「え?」


 振り返ると、吉沢くんは、屈んで何かを拾い上げようかとしていました。そのあるものを拾い上げると、


「……と思ったけど、落ち葉だった」


 からかわれたと思ったので、向き直って、また歩きはじめました。いつの間にか、吉沢くんが私の前を歩いていました。


 しばらく行って、吉沢くんは、土手の道の脇にあるベンチに座りました。私の方をじっと見ていて、目だけで私に座るように言いました。私は、その目に言われるまま、ベンチに座りました。


「……ごめんな」


「いえ……というか、吉沢くんが謝ることではないです」


「でも、誰もお前に謝ってないだろ。だから……」


「誰のせいでもないです。もちろん、高木さんのせいでも。みんな、私のせいですから。ほんと、ありがとうございます。もう、それだけで十分です」


「いや、自分のせいってさ……」


「あの……吉沢くん……」


「ん?」


「あれ、ウソですよね? そんなこと、ほんとは思ってませんよね? ああいう気持ち、吉沢くんにはありませんよね?」


「……何が?」


「……付き合うって……」


「あ……ん……なんというか……ま、そう……だな。うん……」


 最後の「うん」が、とても小さなものでした。


「……また、こうなってしまいました」


「え? 何が?」


「もう、わかってると思いますけど、私、極度に目が悪いんです。人の顔を見るときは、目を思いっきり細めて、ものすごく目を凝らさないとダメで……そうやると、相手の人は睨まれてるように思うらしくって。もちろん、私は睨んでるつもりなんてないんですけど……よく、いじめられました。可愛げのない子だと言われたのだってたくさんあります。小学生のときも、中学に来てからも、友だちは一人もできなくて……作ろうと努力しても、みんな離れてくから、自分から距離を縮めるなんて意味ないのかな、とか……ああいった状況でも、私に味方してくれる人、一人もいなくて……嫌われてます、私は。私といることで、吉沢くんまで嫌われてしまいます。そうなってほしくないです……私がメガネをかけていれば、こうはならなかった……ううん、メガネをかけてても、私がもう少し美人であったとしても、こうなっていたのかも……でも……あんなに強く突き飛ばされるって、そんなの初めてだったから……そんなになんだって……なんだか、もう嫌になりました」


「……ごめん。正直言うと、俺も、てっきり……睨まれてるんだとばっか……最初のころな……でも、そうじゃないみたいだな、って自分なりにさ。だから、安心してさ……でもよ、どうしてメガネしないんだよ? メガネすれば解決だろ?」


 私は、首を大きく横に振って吉沢くんに答えました。


「なんだよ? ダメなのかよ? わかんないよ」


「……お金、ありません」


「ないって、メガネ買う金くらい、親に言ってさ」


「家、貧乏です……買ってほしいとはいつも思ってます……でも、仕方ありません」


「仕方ないって……でも、それが理由で、ノートとってないんだろ? 黒板の字が見えなくて。本だってあんな近づけて。そうなんだろ?」


 私は、頷きました。


「……ならよ、メガネ……ああ、まあ、せめてさ、黒板の真ん前にしてもらったらいいんじゃねぇの?」


 私は黙っていました。どう伝えたらいいか、その言葉が上手く浮かんでこなくて。


「なんだよ? ダメなのかよ?」


「……席は……」


「なに?」


「……席は、公平にくじ引きにしようって、そう決まったことでしたから……一人が自分の都合を言ってしまうことで、公平じゃなくなります……いろいろ問題が出てきてしまいますから」


「だからって……」


「それに、先生の目の前だと、先生の方が嫌がるんじゃ……私に睨まれてるって……」


 しばらく、私たちは黙っていました。土手に吹く風はとても冷たくて。でも、吉沢くんがそばにいることで、少しそれが和らいで感じられていました。けれど、それは、吉沢くんに面している部分についてだけ。特に私の内側は、とても寒々としたものでした。


「……ああ、あのさ布施……あっと、その……俺な、お前の隣になるまで、クラスにお前がいたなんて少しも知らなくってさ……ごめんな。もう、三学期だってのにな」


「それは、吉沢くんが、私に関心がなかったからじゃないですか?」


「……そういうことなんだろうな……なんか不思議だな。ってか、ごめん」


「いえ、不思議なことではないです。それでいいんです」


「どうして?」


「私、人から関心を持たれないようにしてるんです。小さくして身を隠してるというか、目立つようなことしないようにしてるというか。クラスの人とあまりかかわらないようにしているので……」


「……誤解されるからか?」


「……そうです」


「だからって……嫌われてると、目立っちゃいけないのか?」


「そ、そうですよ。目立ったら、余計、言われますから」


「……なんて?」


「……ブ、ブスとか、汚いとか、臭いとか……もっと、その、いろいろです」


「ブスなのか? そうは見えないけどな。汚いって、思ったことなかったし……」


 吉沢くんはそう言いながら、くんくんやって、私の肩あたりに鼻を近づけてきました。彼の鼻が触れたわけでも、鼻息が私をくすぐったわけでもなかったのですが、妙にかゆくなってしまって。だから、私は、激しく肩をすぼめました。


「あの、吉沢くん、ちょっと」


「全然、臭くないぞ……考えすぎかもな」


「でも、小学生のとき、よく言われてました……変とか、いっぱい……」


「変? そりゃあ、そいつらが変なんだよ。まったく、何言ってんだろうな。つかさ、そんなこと真に受けんなよ」


「だって……」


「ま、いいや……そだ、これから毎日、俺がお前の分もノートとってやるよ」


「いえ、そんなことしてくれなくていいです」


「どうして? いいじゃんかよ。そんなんじゃ、テストでいい点とれないし、高校にだって行けないだろ」


「高校には行きませんから」


「どうして?」


「お金がないからです」


「お前は、お金がないばっかだな」


「……私が生まれて、物心ついたとき、すでにお父さんはいませんでした。死んでしまったのか、いなくなったのか、どこで何をしてるのか、そんなこともまったく知りません。知ろうとも思ってません。知ってもどうにもならないし、仕方のないことなんです。現実のことなんです……お母さん、毎日毎日、朝から晩まで、私のために働いてくれてます。メガネ、やっぱりほしいですけど、自分からは言えません。高校だって……それに、高校に行ったとしても、またいじめられるかもしれないし……仕方ないんです。家が貧しいというだけで、幸せの大部分を手にできないんです。私の人生は、そういうことなんです。そういうことになってるんです。お金がないからメガネを買ってもらえない。お金がないから高校に行けない。お金がないから嫌われて、友だちができなくって……貧乏だから、きっと恋愛なんてできないし、結婚もできないんです」


「おい、布施。そういう言い方やめろ」


「でも事実です。吉沢くんのように、恵まれた家の人にはわからないことです……吉沢くんのお父さん、どこだかの会社の社長さんなんですよね? 家も大きくて立派だって……この前、クラスでそういった噂、ちょっと聞こえたことあって……羨ましいです」


「俺の家じゃない。おやじの持ちもんだ。俺は、ただ住まわせてもらってるだけだ。会社にしたって、俺のおやじが社長ってだけで、俺はなんでもない。ただの中学生だ」


「でも、将来は約束されてるじゃないですか」


「俺は、おやじの跡を継ぐと決めてるわけじゃない」


「それでも、やっぱり私なんかに比べたら、将来の保証はあると思います」


 これ以上話をすると自分が惨めな気持ちになってしまうと、ううん、もう十分に惨めな気持ちになっていました。それで、強引に吉沢くんとの話を打ち切ろうと、ベンチを立って鉄橋に向かって走っていきました。


 背中の方で、


「おい、布施」


 と、何度か聞こえてきました。その声は、聞こえてくるたび小さくなっていって。五、六回目くらいだったでしょうか、それを最後に声は聞こえなくなりました。


  ◇


 それから何日か経って。


「吉沢くん……どうしたんですか? こんなところで」


 学校からの帰り、吉沢くんが土手の道にあるあのベンチに一人座っていました。


「あ、ああ……ちょっとな……その……」


「……待ちぶせですか?」


「バカ、ちげーよ。そんなんじゃねーよ」


 吉沢くんは、制服のポケットから何かを出してきて、


「ま、これでもさ」


「……なんですか?」


 私は、吉沢くんの隣に座りながらそう言いました。


「その、なんだ……あれからさ、お前、元気ないみたいだから……チョコ。お前、チョコ嫌いか?」


「いえ、嫌いではないですが……チョコですか。あまり食べたことないですね……」


「食べてみろよ」


「心配してくれてありがとうございます。でも、もう大丈夫ですから」


「いや、だから、心配とかじゃねぇから……いいから、食べてみろって」


「はい……甘い……美味しいですね……そういえば、今日、バレンタインですね」


「え、あ、そう、だったっけか。あれ、忘れてたな……いや、もらえたらな、とか、そういうんじゃなくて。そういうこと狙ってとか、思い出してもらおうと思ってとか、そういうのでやったんじゃないからな」


「はい、わかってます。それに、あげようにも、私、お金ないから……」


「……あ、そうだったな……」


 吉沢くんは、黙って下を向いてしまいました。ちょっぴり残念そうな表情をしていました。


「あのさ、布施……」


 吉沢くんは、下を向いたままでした。


「はい。なんですか?」


「あ、なんてかな……だからさ……あ、やっぱ、いいや」


「言いかけてやめるのはよくないです。マナー違反ですよ」


 私が言うと、吉沢くんは顔を上げ、


「そ、そうだよな。あっと、その……だから……そのさ……」


「……じゃあ、先に私の方から」


「え?」


 私は膝の上に置いていた鞄を開け、


「実は用意してあるんです……吉沢くん。これ、どうぞ」


 吉沢くんに差し出しました。


「え? なに?」


 明らかに戸惑っている吉沢くんの表情が、とても可愛かったです。


「バレンタインですから」


「ウソ? でも、お前……」


「学校で、とも思ったんですけど、やっぱりちょっと……どうしようかと思ってたんですけど、待ちぶせしててくれてよかったです」


「だから、待ちぶせじゃねえって。わかれよ、そこんとこ」


「はい、そうでしたね。すみません」


「なあ、開けていいか?」


「はい。どうぞ」


「……おお、たまご焼きじゃんか」


「はい。前に、とても美味しいと言ってくれたので、青海苔が入ったの……やっぱりチョコを買うお金は……すみません」


「いや、正直言うと、チョコよりこっちの方がいい。なんか布施って、俺のことよく理解してんな」


「そんなことは……喜んでくれて、よかったです。ちょっと心配だったので」


「なんっか、毎日がバレンタインだったらいいかなぁ、なんて」


「それはそれで困ります」


「なんで? いいじゃんかよ。毎日、お前のたまご焼き食べれんのサイコーじゃん、って俺だけか。そうだよな。お前、作るばっかになっちゃうもんな……なに? ……ごめん、マジな話?」


「マジというか……思うのですが……望んでいるとか、いないとか、そういうこととは関係なしに、時が経っていって。来てほしいと思っているとか、いないとか、そういうこととも関係なしに、月が沈んで、太陽が昇って……いつもの道を通って、いつものように学校へ行って。先生が私たちに話をして、それが将来なんの役に立つのかよくわかっていない私たちは、でも、とりあえずノートをとって。そうやっていながらも、ときどき窓の外を眺めたり、早く終わってくれって、チャイムが鳴るのを待ってたり……そういうものなんです。私にとって、ううん、私だけじゃなくって、みんなもなんですけど……実につまらないことです。でも、得てしてそういうものなんです……それに、やらなければならないこと、たくさんありますから……勉強とか、就職とか……」


「なあ、布施。そのことなんだけどさ。あのあと、俺、いろいろ考えてさ……その、もしさ、もし、働くとこ、あてがないんだったらさ、俺からおやじに言ってさ」


「それはダメです」


「なんで?」


「そういうの、よくありません」


「どうして? コネってのに引っかかりとか、遠慮があるのか? なら、気にすんな。世の中、そういうことだらけなんだ」


「いえ、コネといったものを否定はしません。そういうのもあっていいと思います。コネが世の中の流れを円滑にすることだってあるわけですから。それに、いまのところあてがあるわけでもないので、そうやって言ってもらったの、とてもうれしいです。働かせてもらえるなら、そうしたい気持ちも確かにあります」


「ならよ……」


「吉沢くん、社長さんになるんですよね?」


「それは……まだ、わからないな」


「私、思うんです。上に立つ人間は、私情を挟んじゃダメなときがあるって。一時の情に流されず、厳しくいかないとならないときがあるって……とは言っても、私、人の上に立ったことないですし、この先、経営者になる予定もないのですけど……なんだか、いまさっき言ったことと矛盾してるかもしれませんね……でも、そう思うんです。だから、仮に将来、吉沢くんが社長さんになったとして、そのとき私がそこで働かせてもらっているとして、そのことが、吉沢くんに対して不利に働くことがあるかもしれないって。それは私の望むことではありませんから」


「……よくわかんないけど、俺」


「私も、よくわかりませんけど……でも、とにかく、ダメなんです」


「……そうか、わかったよ……俺ができること、なんもなしか……なんもしてやれない……」


 吉沢くんは、深くうなだれてしまいました。


「いえ、もう、たくさんしてもらいました」


「……何したよ?」


「たくさん声をかけてもらいました。いまだって、こうやってお話できてるの、とてもうれしいです。私、クラスの人から話しかけられたなんて、なかったですから。それに、掃除だってたくさん手伝ってもらったし、一緒に帰ってもくれたし、ノートだって貸してくれて……今日だって、チョコ、くれたじゃないですか」


「そんなこと……」


「いえ、そんなこと、ってことはないです。とても感謝してます」


「……なんか、あべこべだな。お前が元気になってもらえたらと思ってたんだけど……逆になっちゃってる……なんか情けないな、俺」


「そういうこと、言わないでください」


「……そうだけど……」


「吉沢くんは、将来、何になりたいんですか?」


「なんだよ、急に……」


「いいじゃないですか。何になりたいんですか?」


「え……なんだろな……」


「作家さん? 小説の」


「あー、そうな。それはあるな……ま、小説じゃなくても、なんでもいいんだけど。とにかく書くことで

食べていけたら、ってのはあるよな……でもなあ……」


「でも?」


「……親がなあ……俺んとこ一人っ子だし」


「そうですか……さびしいですけど……仕方ないですね」


「……ごめん」


「じゃあ、社長さんになるんですね?」


「んー、まあ、そういうことになるのかなあ……結局は……」


「大変ですよ。と言っても、私は、その苦労をよくわかりませんけど……でも、いままでお父さんが築き上げてきたものが、吉沢くんの代で壊れてしまわないようにしないと」


「そう。そうなんだよ。その不安がさ……きついよな……」


「……でも、吉沢くんには……」


「……なに?」


「お話を書き続けててほしいです……社長さんになったとしても」


「……ああ、そうだな……わかった、そうするよ……ん? どうした?」


「あ、すみません。ちょっと……」


 泣きそうになっていました。顔を見られないように必死で隠したのでしたが、たぶん、吉沢くんにはわかってしまったと思いました。


「……で、布施は? お前は、どうすんだよ?」


「私は……そうですね、私は、どうにかして暮らしていきます」


「どうにかって……まあ、お前らしいっていうか……いいけど」


「どうにか生活して……それで、吉沢くんの書いたお話ができるのを、ずっと待っています……だから、いろいろ書いてください」


「ああ、いろいろこの頭で想像してな。書いていくよ」


「楽しみにしてます、私」


  ◇


 四月。三年生になって、私と吉沢くんは、クラスが別々になってしまいました。


 ときどき廊下を歩いていると、吉沢くんのあとをくっついている高木さんの姿があって、同じ教室に入っていくのを見ると、なんだかとても彼女が羨ましくなります。


 吉沢くんが想像した通りだったのか、高木さんと別のクラスになったことで、一人で掃除をすることはなくなりました。とは言っても、高木さんのせいだと断定することはできないですし、そうするつもりもないのですけど。


 新しいクラスになって、最初、私は、クラスの人たちからいらぬ誤解を受けないようにと、やっぱり縮こまっていました。この身を隠していました。でも、そうしてばかりもいられないと思って、隣の生徒(女子)に声をかけてみました。とても勇気が必要でした。


 やはり、誤解を生んでしまいました。けれど、真剣に、誠意をもって事情を話したところ、相手の女子は理解してくれ、いまでは、ときどき、ノートを貸してくれたりもします。そして彼女のつながりから、だんだんと友だちも増えてきました。登下校を一緒にしてくれたりもしますし、一緒にお弁当を食べたりも。こんなことなら、もっと早くにそうやっていればよかった、とも思いましたが、仕方のないことと強く考えることはしないようにしています。


 新学期当初、吉沢くんの姿のない教室は、とてもさびしく感じられていたのでしたが、友だちができたこと、また、私の中のちょっとした気持ちの変化が、そういった思いを徐々に薄めていきました。


 吉沢くんと一緒に帰ることはなくなり、彼が土手のベンチで待ちぶせじみたことをするのも、いまではありません。


 でも、彼との関係はいまもあります。ときどきですが、私の下駄箱に入っているのです。ノートの切れ端が。


  ◇


 陽子は片頭痛持ちだから、朝起きて天気がいいとそれだけでうれしくなってしまう。彼女のそれは、天気が悪いとき、特に雨のときに起きやすいのだ。同時に肩がこることもあって。体のどこかがバランスをおかしくしているのかと人に相談したこともあった。もともと姿勢がよくなくて、子どものころは母親からよく注意されていた。そのときはうるさく感じていたのだけれど、素直に聞いていたらこういうことにはなっていなかったのかも、と思うこともある。けれども、深く考え込んだところで頭痛が消えてどこかへ行ってしまうわけではない。

 同居人の男も同じように頭痛持ちだ。こちらは天気ではなく、虫歯との関係でそれが起こるらしい。それが最近、歯医者に通い、虫歯の治療が進むにつれて頭痛の発生回数が急激に減ってきている。いまではそんなことはまったくないと涼しい顔で口にするそれが、陽子には気に食わないようだ。

 しかし、頭痛がなくなったからといって、その男の悩みがすべてさっぱりと消え去ったわけではない。気持ちよく睡眠がとれているのは、男の寝顔を見れば誰にでも容易に想像がつく。だが、起きているとき、この男は激しくもがき、苦しんでいるのだ。


  ◇


 今日も吉沢くんは、受験勉強の合間に物語を書いているようです。悩んでもいるようです。それは、数学の問題を解く手立てが上手く見つからないからなのか、それとも、物語の展開に行き詰まりを感じているからなのか。


 今日のお話も、前の話の続きではなく、また別の話でした。そして、やっぱり尻切れトンボで。


 でも、そうやって途中になっていることが、なんだか、最近、おもしろく、また、うれしく感じられるようになってきました。それもいいんじゃないのかな、って。


「おい、布施。この続き、一緒に考えていこうぜ」


 と、吉沢くんが私に向かって言っているようで―









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