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野生の追跡

鬼塚事件から、一週間が過ぎた。


聖マリアンヌ女学院には、嘘のような平穏が戻っていた。

あれだけ学園周辺をうろついていた不良たちの姿は完全に消え、生徒たちは再び、優雅で他愛もない日常を謳歌している。


事件は、生徒たちの間ではすでに「学園の七不思議」の一つとして、面白おかしく語られる都市伝説へと変わりつつあった。


だが、西園寺麗奈だけは、その日常の裏側にある“真実”を忘れてはいなかった。


彼女は、以前にも増して周囲の人間を観察するようになった。

教師、警備員、他の生徒たち、そして、その家族。

自分の「守護者」は、一体誰なのか。


その観察リストの中に、用務員の相沢祐樹の名はなかった。


事件後、彼は以前と寸分違わぬ姿で、黙々と校舎を清掃している。

麗奈が一度疑いをかけたことなどまるでなかったかのように、会釈は常に控えめで、その存在感は空気のように希薄だった。

彼があの暗闇の支配者である可能性など、麗奈の中ではゼロに等しかった。


祐樹にとってもこの平穏は望ましいものだった。


麗奈を狙う脅威が消えたことで、彼は再び「平凡な用務員」と「平凡な大学生」という二重生活に集中できる。


アビスの子供たちへの送金も滞りなく済ませ、彼の計画は静かに、だが着実に進んでいるはずだった。


――その日までは。


大学の講義を終え健太と別れた祐樹は、駅前のカフェで時間を潰していた。

次のバイトまで少し時間があったからだ。


店内に設置された大型テレビが、ワイドショーを映し出している。

芸能人のゴシップや最新のグルメ情報。

祐樹はそんな平和なノイズに意識を向けることなく、窓の外を流れる人々を眺めていた。


その時、番組が中断され臨時ニュースの速報テロップが流れた。


『速報です。たった今、新宿・歌舞伎町の路上で、集団暴行事件が発生した模様です。現場の映像が入ってきました』


画面が切り替わり、スマートフォンのカメラで撮影されたと思われる荒い映像が流れる。


歌舞伎町の雑踏の真ん中。

数人のスカウトマン風の男たちが、一人の小柄な少女を取り囲んでいた。


『おい、ガキ、さっきからしつけーんだよ!』

『事務所通せって言ってんだろ!』


男たちが、少女に手をかけようとした、その瞬間だった。


映像が、一瞬ブレる。


次の瞬間、信じられない光景が映し出された。

屈強な男たちが、まるで竜巻に巻き込まれた木の葉のように、一斉に吹き飛んだのだ。


ある者は壁に叩きつけられ、ある者はゴミ箱に突っ込み、一人はコマのように回転しながら地面に倒れた。


その間、わずか一秒。


映像の中央には、フードを目深に被った少女が何事もなかったかのようにポツンと立っている。


周囲の通行人たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。


少女は、その喧騒に驚いたように一度だけ顔を上げたが、監視カメラの位置を正確に把握しているかのように、すぐに顔を伏せ、人混みの中へと消えていった。


スタジオのアナウンサーやコメンテーターが、騒然となっている。


「な、何が起きたんでしょうか!?」

「これは……ワイヤーアクションか何かですか!? 映画の撮影では!?」


誰も、目の前で起きたことを正しく理解できていない。


だが、祐樹だけは違った。


彼の目はテレビ画面に釘付けになっていた。


あの動き。

あの体捌き。

重心を一切ぶらさず、最小の動作で最大の威力を生み出す、獣のような戦闘術。


間違いない。

あれは、アビスの戦闘技術そのものだ。


そして、あの小柄なシルエットと、一瞬だけ見えたフードの下の髪の色。


祐樹の表情から、完璧に保たれていた穏やかな仮面が、初めて剥がれ落ちた。


「……ノア」


彼の唇から、ほとんど音にならない声が漏れる。


「なぜ……あの子が、表に……?」


彼の守るべき日常に、最大の脅威が紛れ込んだ瞬間だった。


祐樹は、勘定をテーブルに置くと足早にカフェを出た。

バイトなどどうでもいい。


一刻も早く、彼女を確保しなければならない。


ノアは、アビスで祐樹が弟妹のように面倒を見ていた孤児の一人だ。

戦闘の才能はずば抜けていたが、性格は奔放で好奇心旺盛。

そして、何より表社会の常識を知らない。

彼女をこのまま野放しにしておけば、何をしでかすか分からなかった。

最悪の場合、警察や対アビス部隊にその存在を捕捉されかねない。


祐樹は、新宿へと向かう電車の中で思考を巡らせる。


東京という、人の海の中からたった一人の少女をどうやって探し出すか。

警察のように、ローラー作戦を展開する時間も人員もない。


だが、祐樹には祐樹のやり方があった。


彼は、ノアの思考をトレースする。


(アビスから初めて出たノアが、まずどこへ向かうか?)


食べ物か。

いや、それよりも先に、安全な寝床を探すはずだ。

アビスの住人は、まず縄張りを確保する。


(どんな場所を好む?)


人混みは嫌う。

だが、完全に孤立した場所も警戒する。

敵(警察)の気配がなく、それでいてすぐに隠れられる場所。

都会の隙間。

ビルの裏側、放棄された地下道、複雑に入り組んだ路地裏。


そして何より、祐樹はノアの“癖”を知っていた。

彼女は、高い場所から街を眺めるのが好きだった。


新宿駅に降り立った祐樹は、情報屋ではなく獣の感覚で追跡を開始した。


監視カメラのネットワークをハッキングするのではない。

街に張り巡らされた無数の監視カメラの“死角”を読み、彼女が通ったであろうルートを予測していく。


アスファルトに残された、僅かな匂いを嗅ぎ分ける。アビスの土と、埃の混じった、独特の匂い。


通行人たちの視線の流れの、ほんの僅かな乱れを読む。

人々が無意識に避けた、見えない“何か”の痕跡を追う。


それは、もはや警察の捜査などという生易しいものではない。

獲物の痕跡を追う、一匹の狼の追跡だった。


日が暮れ、街がネオンの光に包まれ始めた頃。

祐樹は、歌舞伎町の最も奥まった、再開発から取り残された一角にいた。


そこは、新しいビルの谷間に、古い木造の家屋が密集する、迷路のような場所だった。


祐樹は、一つの薄汚れた路地裏の前で、足を止めた。


ここだ。


奥から、猫の鳴き声と、そして、獣が息を潜める気配がする。


祐樹は、音もなく、その闇の中へと足を踏み入れた。


路地裏の突き当たり。

ゴミ袋の山の上に、小さな影がうずくまっていた。


フードを被った少女。

ノアだ。


彼女は、祐樹の気配に気づき、野良猫のように全身の毛を逆立て唸り声を上げた。

その手には、どこで拾ったのか錆びた鉄パイプが握られている。


祐樹は、ゆっくりと両手を上げて敵意がないことを示した。


そして、静かに、優しく、その名を呼んだ。

ずっと昔、アビスで呼んでいた、懐かしい名前を。


「――ノア」


少女の動きが、ピタリと止まる。


彼女は、恐る恐る、フードの下から顔を上げた。

薄汚れてはいるが、整った顔立ち。

そして、大きな瞳。


その瞳が、祐樹の姿を捉えた瞬間、驚きに見開かれ、次の瞬間には、堰を切ったように涙で溢れ出した。


「……ミナ」


少女の唇から、震える声で、祐樹の本当の名が紡がれた。


それは、この世界の誰も知らない、アビスの亡霊だけが持つ、失われた名前だった。

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