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幕間:不器用な優しさ

 図書館での一件以来、西園寺麗奈の心は、静かな、しかし確かな変化を見せていた。


 相沢祐樹。

 あの平凡な用務員。


 それは、解くべき最も興味深く、そして、最も厄介な一つの「謎」へとその姿を変えていた。


 彼女は以前にも増して彼の姿を目で追うようになった。


 だが、彼が何か特別な行動をすることは決してなかった。

 ただ、黙々と、そして驚くほど丁寧に自らの仕事をこなしているだけ。

 その、あまりに完璧な「平凡」が、逆に彼女の心をざわめかせていた。


 その日の昼休みだった。


 麗奈が教室の窓から手入れの行き届いた中庭を眺めていると、生徒たちの間から小さな騒ぎが起こっているのが見て取れた。


 中庭の中心にそびえ立つ学園のシンボルツリーでもある大きな桜の古木。

 その、地上十メートルはあろうかという枝の上に、一匹の小さな子猫が取り残されていたのだ。

 降りられなくなり、恐怖に震え、か細い声で助けを求めて鳴いている。


 その声に多くの生徒たちが集まり、下から「頑張って!」「こっちだよ!」と、無責任な声援を送っていた。


「……やれやれ。馬鹿な猫もいたものですわ」


 麗奈は小さくため息をついた。

 だが、その瞳には僅かながら子猫への同情の色が浮かんでいる。


 やがて、騒ぎを聞きつけた学園の職員たちが数人集まってきた。

 体育教師である熱血漢の田中先生がジャージ姿で腕をまくる。


「よーし、俺に任せろ!」


 彼は木に駆け寄るとそのたくましい腕で登り始めようとした。

 だが、古木は大人の男が登るにはあまりに滑りやすい。

 彼は数メートル登っただけで、無様にずり落ちてしまった。


 次に、この庭園を長年手入れしている初老の庭師が、長い枝切りばさみを使って子猫を枝から降ろそうと試みる。

 だが、子猫はその巨大なハサミに怯えさらに枝の奥へと逃げ込んでしまった。


 生徒たちの間から落胆のため息が漏れる。

 もはや、打つ手なしか、と思われたその時だった。


 一人の男が、その輪の外から、静かにその光景を見ていた。

 相沢祐樹だった。


 彼は校舎の備品を修理するための工具箱と長い梯子を肩に担ぎ、たまたまそこを通りかかったのだ。


 麗奈は彼の存在にすぐに気づいた。

 彼女は固唾を呑んで彼を見守る。

 他の職員たちが無様に騒いでいるだけなのに対し、彼はただ静かにそこに立っているだけ。

 麗奈の心に奇妙な期待感が芽生える。

 あなたなら、どうするの?

 この誰も解決できない状況を、あなたならどうやって覆すのか、と。


 やがて、祐樹は、ふぅ、と一つ小さな息を吐いた。

 そして、担いでいた梯子を、ゆっくりと地面に降ろす。

 その瞳からそれまでの傍観者の色が消えていた。

 その場の誰よりも冷静で、そして、的確なプロフェッショナルの目。


 祐樹は担いでいた梯子をゆっくりと地面に降ろした。

 その瞳からそれまでの傍観者の色が消えていた。

 その場の誰よりも冷静で、そして的確なプロフェッショナルの目。


 彼はまず騒ぎの中心にいた体育教師の田中に、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。


「先生。皆さんを少しだけ後ろに下げさせてください。猫が興奮しています」


 その、あまりに落ち着き払った態度に田中は思わず気圧された。


「お、おう……。分かった!」


 教師たちの誘導で生徒たちが木から少し距離を取る。

 ざわめきが少しだけ静かになった。


 次に、祐樹は梯子を手に桜の古木へと歩み寄った。

 彼はむやみに梯子をかけない。

 木の幹にそっと手を触れ、その表面の湿り気、樹皮の硬さを確かめているようだった。


 そして風の流れを読み、子猫の恐怖心を最も煽らないであろう最適な角度と場所を探り当てると、そこに音もなく梯子を立てかけた。


 その一連の動きには一切の無駄がない。

 まるで長年、危険な高所での作業を専門にしてきた職人のような洗練された所作だった。

 麗奈はその光景を息を呑んで見守っていた。

 ただの用務員がこれほどまでに冷静な判断力と完璧な手順を実行できるものだろうか。


 祐樹は梯子を登り始めた。

 その登り方もまた異常だった。


 梯子をほとんど揺らさない。

 まるで体重がないかのように、彼は静かに高みへと昇っていく。


 やがて彼は子猫がいる枝のすぐ下の位置までたどり着いた。


 彼は子猫を脅かさないように決して目を合わせない。

 そして小さな声で何かを呟き始めた。


「……クルル……グルル……」


 それは人間の言葉ではなかった。

 猫が安心している時に、喉の奥で鳴らすあのグルーミングの音。

 その音を彼は完璧に模倣していたのだ。


 その不思議な音に、恐怖で固まっていた子猫の体が僅かに弛緩した。


 祐樹はその隙を見逃さない。

 彼はゆっくりと手を伸ばした。


 だが、その手は子猫を直接掴もうとはしない。


 彼は子猫がいる枝の、さらに一本上の枝を、トントン、と優しいリズムで叩き始めた。

 それは母猫が子猫を安心させるために、尻尾で体を叩くリズムと酷似していた。


「……にゃあ」


 子猫の口から、か細い、しかし明らかに先ほどとは違う甘えるような声が漏れた。

 警戒心が完全に解けている。


 祐樹はそこで初めて子猫の小さな首筋をそっと掴んだ。

 そして、まるで手慣れた獣医のように、優しく、しかし抵抗できない絶妙な力加減でその体を抱き寄せた。


 救出劇はあっという間に終わった。

 祐樹は腕の中に小さな子猫を抱いたまま、登ってきた時と同じように音もなく梯子を降りてきた。

 地上では生徒たちから割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。


「すごい!」

「やったー!」


 だが、祐樹はその称賛の声を浴びることもなく、人混みをかき分けると一人の保健室の先生の元へと歩み寄った。

 そして腕の中の子猫をそっと手渡しながら小さな声で言った。


「……少し興奮しています。暖かいミルクと毛布を。それと、念のため獣医に」


 その、あまりに的確な指示に保健室の先生もただ頷くことしかできない。


 祐樹は自分の役目は終わったとでも言うように、その場を静かに去ろうとした。

 梯子と工具箱を再びその肩に担いで。

 まるで最初から自分などこの場所にはいなかったとでも言うかのように。


 麗奈は、その、あまりにも不器用で、あまりにも謙虚な背中をただ呆然と見つめていた。


 ただの平凡な用務員の男が見せた、あの小さな、か弱い命に対する、あまりに不器用で、しかし、本物の優しさ。


 その、あまりにも大きなギャップ。

 彼女は、その時、不覚にも自らの胸が、トクン、と大きく高鳴ったのを確かに感じていた。


 それは恐怖でも好奇心でもない。

 もっと温かくて、もっと甘酸っぱい、彼女が生まれて初めて経験する感情の芽生えだった。

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