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幕間:用務員の叡智

 鬼塚事件が学園を震撼させてから、一週間が過ぎた。


 公式には「不良グループ同士の抗争」と処理されたその事件の真相を知る者はなく、ただ生徒たちの間では、自分たちを影から守る“守護天使”がいるのではないかという、甘美で非科学的な噂だけが囁かれていた。


「天使? 馬鹿げているわ」


 西園寺麗奈は、そんな噂を心の底から一笑に付していた。


 だが、彼女もまた、常に一つの問いに苛まれていたのだ。


 一体、誰が。


 チンピラを退散させた不可解な偶然。

 そして鬼塚たちを一夜にして壊滅させた、暗闇の中の“何か”。


 それは神聖なものではない。


 もっと冷徹で、合理的で、そして圧倒的な力。


 彼女はその正体不明の存在を“守護者”と仮に名付け、その存在に畏怖と、そしておとぎ話の騎士に対するようなほんの僅かな憧憬を抱き始めていた。


 その日、麗奈は学園の広大な図書館のその一番奥にある閲覧室にいた。


 床から天井まで続く壮麗な本棚。


 ステンドグラスから差し込む柔らかな光が、空気中を舞う埃をキラキラと照らし出している。


 古い紙と、革の匂いが静寂の中に満ちていた。


 彼女は、分厚い古典文学全集を前に、深く、深く、ため息をついた。


 週末に提出が迫ったレポート。


 テーマは『シェイクスピアの四大悲劇における、運命論と自由意志の相克』。


 あまりに難解すぎた。


 いくつもの論文を読み漁り、自分なりの解釈を組み立てようとするもその思考は常に袋小路に行き当たってしまう。


 完璧主義者の彼女にとって平凡なレポートを提出することなど屈辱以外の何物でもない。


 焦りと、苛立ち。


 彼女は自分の思考を整理するかのように、小さな声で、自らに問いかけた。


「……運命という、あまりに巨大な城壁を、彼らは、どうして、乗り越えられなかったのかしら……」


 それは誰に聞かせるでもないただの心の声の発露だった。


 その時だった。


「……どんなに、強固な城も」


 すぐ側から、不意に静かな声がした。


 麗奈は、ハッとして顔を上げた。


 そこに立っていたのは、一人の用務員の男だった。


 相沢祐樹。


 彼は麗奈の存在にはまるで気づいていないかのように、高い場所にある本棚の一番上の段を濡れた雑巾で黙々と拭いている。


 背の高いキャスター付きの移動式脚立の上からその声は聞こえてきた。


 彼の口から漏れたのは、独り言。

 あるいは、ただの鼻歌のようなものだったのかもしれない。


 だが、その言葉は不思議なほどクリアに麗奈の耳に届いていた。


 祐樹は雑巾をバケツの水でゆすぐと、再び静かに呟いた。


 その視線は目の前の古びた革表紙の本に向けられたままだ。


「……正面から攻めるだけが、能じゃない」


 その言葉に麗奈のペンを持つ手が、ぴたり、と止まった。


 彼女はゆっくりと脚立の上にいるその平凡なはずの用務員を見上げた。


 彼はまだこちらを見ていない。


 ただ、静かに作業を続けているだけ。


 だが、彼の口から紡がれる言葉だけが、まるで最初から自分に語りかけるためにそこにあったかのように静かな閲覧室に響き渡っていく。


 祐樹は脚立の上で濡れた雑巾を絞りながら、独り言のように言葉を続けた。


 その視線は目の前の古びた革表紙の本に向けられたままだ。


「……一つの見過ごされた小さな綻びから崩れることもある」


 その言葉が麗奈の袋小路に迷い込んでいた思考にまるで稲妻のような閃きを与えた。


 綻び……?

 小さな……?

 そうだ。


 四大悲劇の主人公たちは、皆、国家や神、あるいは抗いがたい運命といった巨大な敵と正面から戦いそして敗れ去っていく。


 だが、その敗北の本当の引き金は、いつももっと些細なことではなかったか?


 ハムレットのほんの僅かな行動の遅れ。

 オセロの嫉妬という小さな感情の芽生え。

 リア王の娘の愛を見誤った些細な判断ミス。


 マクベスの魔女の曖昧な予言を信じてしまった心の弱さ。


 そうよ。

 城を崩したのは巨大な敵ではない。


 彼ら自身の、その内側にあった小さな小さな綻び……!


 視界が一気に開けていく。


 これまで点と点だった思考が、一つの美しい線となって結ばれていく感覚。


 麗奈は我を忘れてペンを走らせ始めた。


 もう、迷いはない。


 彼女だけの、誰も思いつかなかったであろう完璧な結論がそこにはあった。


 彼女が夢中になってレポートの骨子を書き殴っている間も、祐樹は黙々と作業を続けていた。


 やがて、本棚の一番上まで完璧に磨き上げると、彼は音もなく脚立から降り、バケツと雑巾を手にその場を去ろうとした。


 その時だった。


「……待ちなさい」


 麗奈が顔を上げ彼を呼び止めた。


 祐樹は驚いたように振り返った。


 その表情は完璧なまでに、「突然お嬢様に話しかけられて戸惑っている、ただの用務員」のものだった。


「……お嬢様。何か御用でしょうか」

「あなた、今、何と言ったの?」

「……え?」

「城が、どうとか……」


 麗奈の真っ直ぐな視線に、祐樹は少しだけ狼狽えたように目を泳がせた。


「あ、いえ……! 申し訳ありません! 独り言が大きすぎたようで……。その、昔、父が好きだった古い戦記物を思い出しまして……。お邪魔でしたよね。すみません。」


 彼はそう言って深々と頭を下げた。


 その、あまりにも普通であまりにも平凡な反応。

 だが、麗奈の心には一つの強い確信が芽生えていた。

 この男は何かを隠している。


「……いいえ」


 麗奈は静かに首を横に振った。


「邪魔だなんて、そんなことはないわ。むしろ……」


 彼女は立ち上がると、祐樹の前に歩み寄った。

 そして、その顔をじっと覗き込むように見つめる。


「……あなたのおかげで、とても良い論文が書けそうよ」


 その、あまりにも意外な言葉に今度は祐樹の方が戸惑う番だった。


「……はあ」

「感謝するわ、相沢さん」


 彼女はそう言うと女王のように優雅に微笑んでみせた。

 それは、彼がこの学園に来てから初めて見る彼女の心の底からの笑顔だった。

 その笑顔に祐樹の完璧なはずのポーカーフェイスが、ほんの僅かに揺らいだのを麗奈は見逃さなかった。


 麗奈は満足げに踵を返すと自席へと戻っていった。

 後に残された祐樹はしばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。

 やがて我に返ると彼は誰にも見られないように小さくため息をついた。


 少し喋りすぎたか。

 アビスでの師との会話。

 そこで先生がよく口にしていた言葉が無意識のうちに口をついて出てしまったのだ。


 彼は自らの僅かな油断を深く反省した。

 だが、彼はまだ気づいていなかった。

 その、ほんの僅かな油断が、氷のように閉ざされていた麗奈の心を溶かす、最初の一滴になったということを。


 彼女は自らのノートの隅に、小さな文字で一つの名前を書き記した。


 ――相沢祐樹。


 それは、不思議で少しだけ気になる人の名前だった。

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