闇の中の何か
旧体育館での一件は、聖マリアンヌ女学院を震撼させた。
翌日、学園には数台のパトカーが停まり、制服警官たちが慌ただしく行き交っていた。
旧体育館は完全に立ち入り禁止となり、物々しい雰囲気の中、現場検証が行われている。
だが、捜査は早々に暗礁に乗り上げた。
まず、物的証拠が何もなかったのだ。
指紋も、足跡も、争った形跡すらほとんどない。
まるで、幽霊にでも襲われたかのようだった。
そして何より奇妙だったのは、被害者である鬼塚たちの証言だった。
病院のベッドで、全身の関節に複雑骨折を負った鬼塚は、事情聴取に来た刑事の質問にただガタガタと震えるだけだった。
「……覚えて、ない」
「覚えていない? 君を含めて六人が、大怪我を負わされたんだぞ!」
「覚えてないんだ! 暗くなって……そしたら、化け物が……いや、何も……何も見えなかったんだ! うわああああ!」
錯乱状態に陥り、まともな証言は取れない。
他の仲間たちも同様で、「暗闇に何かがいた」と怯えるばかりだった。
結局、事件は不良グループ同士の凄惨な内輪揉めか、あるいは外部の組織による見せしめ的な襲撃という形で処理されることになった。
その真実に辿り着ける者は誰一人としていなかった。
学園内はその話題で持ちきりだった。
噂は、尾ひれがついて広まっていく。
「鬼塚っていう有名な不良、再起不能の大怪我ですって」
「一体誰が……」
「うちの学園に何かヤバいものがいるんじゃないかしら」
生徒たちは恐怖と好奇の入り混じった声で囁き合った。
そんな中、事件の当事者である西園寺麗奈と親友の小倉美咲は中庭のベンチに座っていた。
美咲は、まだ少し青い顔で、しかし、どこか興奮したように呟いた。
「……本当に怖かったですわ。でも、麗奈様。やっぱり、いるんですよ。私たちを守ってくれる、誰かが」
「……ええ」
麗奈は静かに頷いた。
もはや、その存在を疑う余地はない。
「まるで、守護天使様みたい……!」
「……天使、かしらね」
麗奈は、美咲のあまりに楽観的で少女趣味な言葉に小さく首を振った。
天使。
そんな、清らかで慈愛に満ちた存在では決してない。
麗奈があの暗闇の中で感じたのは、もっと別の、何か。
あの一方的な蹂躙。
それは、暴力というよりも害虫駆除に近い、一切の感情が介在しない冷徹で無慈悲な力の行使。
あれは、神聖なものではない。
もっと恐ろしく、そして、圧倒的な――“力”そのもの。
一体、誰が……。
何のために、私を……?
麗奈の心には感謝よりもむしろ、得体の知れない存在に対する、深い、深い、畏怖の念が刻み込まれていた。
自分は、人間の領域を遥かに超えた何かのゲーム盤の上にいるのではないか。
そんな、途方もない恐怖。
彼女は、ただ、自らの運命に言い知れぬ不安を覚えながら、静かに唇を噛み締めるしかなかった。
◇
その日の午後。
立ち入り禁止のテープが張られた旧体育館の入り口で、相沢祐樹は警察官に許可を取り、中を清掃していた。
彼の仕事は事件の後始末。
床に残った鑑識が使った薬品の跡や、僅かな土埃を、彼は手際良く、そして、丁寧に拭き取っていく。
その顔には何の感情も浮かんでいない。
まるで、他人事のように。
彼が、今、消しているのは、自分自身が作り出した惨劇の痕跡だというのに。
床の軋む場所。
光の届かない死角。
空気の淀む匂い。
この場所で、何が起きたのか。
それを、彼が一番良く知っている。
ただの真面目な用務員がそこにいるだけだった。
清掃を終え、祐樹が体育館から出ようとした時。
入り口の開け放たれた扉の向こうに、一つの人影が立っているのに気づいた。
西園寺麗奈だった。
彼女は、まるで何かに引き寄せられるように、この事件の現場へと再び足を運んでいたのだ。
「……お嬢様。ここは、まだ、立ち入り禁止ですよ」
祐樹は少し驚いたような完璧な表情を作って見せる。
麗奈は、彼の姿を認めると、一瞬だけ躊躇いを見せた。
だが、やがて、意を決したように、彼へと歩み寄ってくる。
そこにあるのは恐怖と、そして、同じ学園にいる一人の人間に対する純粋な心配の色だった。
「……あなたも、気をつけてくださいね」
麗奈は静かな声で言った。
「この学園には、何かよくないものがいるようですから」
その、あまりにも予想外の言葉。
祐樹は一瞬反応に窮した。
疑われることには慣れている。
尋問されることにも備えはあった。
だが、心配されるという経験は彼のこれまでの人生にはなかった。
「……は、はい。ありがとうございます、お嬢様。気をつけます」
彼は少しだけぎこちなく頭を下げた。
その、不器用な反応を見て、麗奈は僅かに口元を綻ばせた。
やはり、彼はただの人の良い用務員なのだ、と。
彼女はそれだけ言うと、踵を返し、夕暮れの校舎へと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、祐樹は静かに息を吐いた。
その夜。
西園寺家の豪奢な一室で、麗奈は祖父である西園寺剛三に電話をかけていた。
剛三は西園寺グループを一代で築き上げた財界の怪物と呼ばれる男だ。
「おお、麗奈か。どうした、こんな時間に」
電話の向こうから聞こえてくるのは、孫娘を溺愛する好々爺といった口調の声だ。
「お祖父様。単刀直入に申し上げます。私の周りで起きている、不可解な事件……。もし、お祖父様が、何か、ご存知なのでしたら、今すぐ、おやめください」
麗奈の、震える声。
それは、怒りというよりも悲痛な叫びだった。
「私は、誰かに、陰から守られるような、か弱い女では、ありませんわ……!」
その言葉に、剛三は電話の向こうで静かに目を細めた。
『……分かった。約束しよう』
彼は、先程とは打って変わって真剣な声で答えた。
麗奈は、「失礼します」とだけ言うと、一方的に電話を切った。
受話器を置いた剛三は、書斎の椅子に、深く身を沈めた。
その顔から、好々爺の笑みは消え、財界の怪物の冷徹な顔が覗いている。
彼は、机の上に置かれた一枚の報告書に目を落とした。
それは、情報屋『カラス』から、つい先ほど届いたものだった。
そこには、昨夜の事件の一部始終が可能な限り客観的な事実だけで記されていた。
――対象への脅威(鬼塚グループ六名)、約三十秒で、完全に無力化。
――主犯格の鬼塚は、両肩、両膝の関節を、的確に破壊され、戦闘能力および社会復帰能力を完全に喪失。
――介入者の姿、目撃者ゼロ。
剛三は、報告書を置くと、静かに呟いた。
「……見えざる、護衛、か」
その口元に、畏怖と、そして、歓喜の入り混じった笑みが浮かぶ。
「カラスめ……。ただの獣ではないわい。とんでもない亡霊を、この東京に解き放ったものだ」
相沢祐樹という名の、静かなる守護者。
彼の本当の力を、その底知れなさを、世界はまだ欠片も理解していなかった。
次から第二部開幕です