二つの太陽
シズカが教会に来てから半年が過ぎた。
アビスの時間は、季節も曖昧に溶け合いながら流れていく。
彼女の心の傷は、まだ完全には癒えていない。
夜になれば、今も悪夢にうなされる日があった。
血と炎に包まれた故郷の光景。
仲間たちの断末魔の叫び。
その記憶が彼女を闇の中で苛む。
だが、教会の穏やかな日々は彼女の凍てついていた表情に、少しずつ柔らかな色を取り戻させていた。
彼女はもはや、ただ怯えるだけの少女ではなかった。
ハナさんの手伝いをし、幼い子供たちの面倒を見るその姿は、まるで本当の姉のようだった。
特にノアはシズカによく懐いていた。
アビスに来てからずっと心を閉ざしていた少女と、兄と慕うミナト以外の誰にも心を開かなかった少女。
似たもの同士の二人は、言葉を交わさずとも互いの孤独を理解できる特別な存在になっていた。
ある夜、シズカが悪夢にうなされていると、ノアがそっとそのベッドに潜り込んできた。
そして、何も言わずに彼女の冷たい手をその小さな両手でぎゅっと握りしめてくれた。
その温かさに、シズカは久しぶりに朝まで穏やかな眠りにつくことができた。
彼女は生まれて初めて「誰かのために」何かをする喜びを知った。
そして、誰かに無償の優しさを与えられる温かさを知った。
それは、彼女が生きるための新しい理由になりつつあった。
そして、彼女はよく訓練場に姿を現すようになった。
ただ、黙って俺とクロの戦いを見つめるために。
その日の訓練場は熱気と殺気で満ちていた。
片方ではクロが人間ほどもある巨大な丸太を相手に、荒々しい打撃の訓練をしている。
ゴッ!と鈍い音が響くたびに丸太が大きく揺れその表面が砕け散る。
その一撃一撃が、常人の骨など容易く粉砕するであろう圧倒的な破壊の力。
彼は燃え盛る炎のようだった。
全てを焼き尽くし、全てを破壊する荒々しい力そのもの。
その瞳に宿るのは純粋なまでの破壊衝動と、自らを最強へと押し上げるという揺ぎない渇望。
彼にとって力こそが正義であり、存在理由そのものだった。
汗が滝のように流れ落ちるのも構わず、彼はただひたすらに拳を叩きつけ続ける。
その姿は見る者を圧倒し、そして同時に恐怖させた。
シズカは思う。
クロの強さは太陽のようだ。
眩しくて力強くて、そして分かりやすい。
あの光の中にいれば、どんな闇も振り払えるかもしれない。
だが、その光はあまりに強すぎて、時に全てを焼き尽くしてしまう危うさを孕んでいることも彼女は感じ取っていた。
もう片方では俺が一人目を閉じ静かに型を繰り返していた。
それは、先生が教えてくれた古流の武術の型。
俺の動きには音がない。
まるで水が流れるように、あるいは風が吹き抜けるように滑らかでそして静かだった。
俺の強さは影。
敵に気づかれることなくその懐に忍び寄り、一撃でその命を断つ静かなる死。
クロが太陽なら俺は月だった。
決して交わることのない二つの絶対的な力。
俺の心にあるのは無。
感情を殺し、思考を殺し、ただひたすらに技の精度を高めていく。
それは強くなるためというよりは、生き残るための作業に近かった。
守るべきものを守るためなら俺は喜んで影になろう。
その覚悟が俺の動きをさらに洗練させていた。
俺のその姿を、シズカは見ていた。
彼女は、俺のその静かな動きの中にクロとは全く違う種類の強さを見ていた。
それは破壊の力ではない。
制御された力だ。
そして、その瞳の奥に宿る深い哀しみ。
彼女は自分と同じ匂いを、俺に感じ取っていた。
太陽の光は確かに温かい。
だが、同じ闇を知る者の静かな眼差しの方が、彼女の魂をより深く癒していたのかもしれない。
彼女は理解していた。
クロが守ろうとしているのは、この教会の「平穏」そのものだ。
だが、俺が守ろうとしているのはその平穏の下で息を潜める「命」そのものなのだと。
その違いは僅かで、しかし決定的だった。
彼女が本当に求めているのは破壊の力ではない。
その静かな優しさなのだと。
やがて訓練が終わる。
クロが滝のような汗を拭いながら、シズカの元へと得意げに歩み寄ってきた。
「どうだシズカ。今の見たか? あの丸太も、もう時間の問題だぜ」
「ええ。すごいわクロ。あなたは本当に強いのね」
シズカは穏やかに微笑んだ。
その言葉にクロは満足げに頷く。
だが、シズカはそのクロの背後を通り過ぎた。
そして、壁に寄りかかり一人呼吸を整えている俺の元へと向かう。
クロの顔が驚きに固まった。
シズカは俺の目の前に立つと、その真剣な瞳で俺を真っ直ぐに見つめて言った。
それは彼女が初めて俺に見せた本当の意志の光だった。
「……あなたのその戦い方を私に教えて」
シズカのそのあまりに意外な申し出。
俺は一瞬言葉に詰まった。
そして、そのやり取りを俺たちの背後で、クロが屈辱に顔を歪ませながら聞いている気配を感じていた。
教会最強の男である自分ではない。
彼女が選んだのは、常に自分の影に隠れていたはずのミナト。
その事実が、クロのプライドを深く傷つけていた。
俺はわざと素っ気なく答えた。
「クロに教われ。あいつの方が俺より強い」
「違うの」
シズカは静かに首を横に振った。
「私が欲しいのは破壊の力ではない。生き残るための技術よ。クロの強さはクロだけのもの。私には真似できない。でもあなたの強さは違う。あなたの強さは技術と知恵でできている。それなら私にも……」
彼女の瞳は真剣だった。
彼女は、ただ守られるだけの存在でいることに耐えられなかったのだ。
俺は、その瞳から目を逸らすことができなかった。
そして小さくため息をつくと頷いた。
「……分かった。だが俺の訓練は厳しいぞ」
「望むところよ」
そのやり取りを最後に、クロは何も言わず訓練場を出ていった。
その背中が燃えるような怒りと、嫉妬に震えているのを俺は見ないフリをした。
♢
その日から俺とシズカの奇妙な師弟関係が始まった。
俺は彼女に武術の型ではなく、先生が最初に俺に教えたあの訓練を課した。
訓練場の床に砕けたガラスの破片と、乾いた小枝をびっしりと敷き詰める。
「……ここを音もなく歩いてみろ」
「……!」
シズカは息を呑んだ。
だが、彼女は文句一つ言わなかった。
ただ、黙って裸足になるとそのガラスの海へと一歩足を踏み出した。
パキリと乾いた小枝の折れる音が響く。
「……違う」
俺は静かに言った。
「力で進むな。気配で読め。風の流れ、空気の振動、そしてお前の足の裏にある全ての神経で安全な道筋を感じ取るんだ」
俺は彼女の背後に立つと、その肩にそっと手を置いた。
「……力を抜け。体を軽くしろ。お前は人間じゃない。風に舞う一枚の葉だ」
俺の指先から伝わる僅かな感覚。
彼女の体の強張りが少しずつ解けていくのが分かった。
彼女の髪の匂いがした。
俺の心臓が少しだけ速く打った。
その光景を、クロが訓練場の隅から燃え盛るような嫉妬の目で見つめていることなど、俺は気づく余裕もなかった。
♢
シズカは驚くべき才能を持っていた。
彼女は、数日でガラスの海を音もなく渡りきる術を身につけた。
彼女は俺の教えをスポンジのように吸収していく。
俺と彼女の間には、師と弟子という新しい絆が生まれ始めていた。
そして、その絆がクロの心をさらに暗い孤独へと追いやっていく。
三匹の若き獣たちの危ういバランスは、この瞬間から少しずつそして確実に崩れ始めていたのだ。
俺は彼女にアビスで生きるための全てを教えた。
気配の消し方。
罠の外し方。
そして、敵の心理を読む方法。
彼女は俺の最高の弟子になった。
そして、俺たちはいつしか訓練以外の時間も共に過ごすようになっていた。
それは俺がアビスに来て初めて感じる穏やかな時間だった。
クロとの間には常に張り詰めた緊張があった。
だが、シズカと共にいる時間は違った。
俺たちは、互いの心の奥にある同じ闇を理解していた。
だからこそ、その闇に寄り添うことができたのだ。
俺の心の中で彼女の存在は日に日に大きくなっていった。