楽園の住人
シズカという名の傷ついた少女が俺たちの家族の一員となり数日が過ぎた。
シズカの体の傷は少しずつ癒えていった。
だが、その心の傷は今もまだ生々しく膿んでいる。
彼女は一日中教会の隅で膝を抱え、ただ一点を見つめていた。
誰も信じられない。
この場所もここにいる人間も。
優しさは罠だ。
安らぎは次なる絶望への序曲でしかない。
アビスで生きるために、彼女がその身に刻み込んだ唯一の教えだった。
ハナさんが運んでくる温かいスープにも彼女はほとんど口をつけなかった。
彼女はただ戸惑い、怯え続けていた。
このあり得ないほどの優しさに満ちた空間で、どう生きていけばいいのか分からずに。
そんな彼女の氷を溶かし始めたのは、子供たちの無邪気さだった。
まだ9歳のノアが何の警戒心もなく、彼女の膝に頭を乗せて眠ってしまったり。
他の少年たちが彼女を遊びに誘おうと、拙い花の冠を作ってプレゼントしたり。
シズカは最初、その全てを拒絶していた。
だが、子供たちのあまりに純粋で裏表のない優しさに触れるうちに、彼女の固く閉ざされていた心の扉が僅かに軋み始めたのだ。
彼女は少しずつ食事を口にするようになり、そしてハナさんの手伝いを始めるようになった。
その手つきはひどくぎこちなかった。
スープの入った鍋を運ぼうとして、落としそうになったり。
子供たちにどう接していいか分からず、ただ困ったように立ち尽くしたり。
彼女はこれまで生きるために戦うことしか知らなかったのだ。
料理の仕方や、子供のあやし方など誰も彼女に教えてはくれなかった。
その不器用な姿を見て、クロはよく彼女を手伝っていた。
その時のクロはいつもの荒々しい獣ではなかった。
ただの不器用な少女を助ける、優しい兄の顔をしていた。
俺はそんな二人の姿を、ただ遠くから無言で見ているだけだった。
♢
その日の午後だった。
シズカが、一人で教会の片隅にある小さな畑の手入れをしていた。
先生が子供たちの心を育むために始めた小さな菜園だった。
彼女はそこで雑草を抜いていた。
その時彼女の指先が誤って毒を持つ植物の棘に触れてしまった。
「……っ!」
小さな悲鳴。
彼女の白い指先から血が滲む。
俺はその一部始終を見ていた。
俺は咄嗟に駆け寄ると、彼女のその手を掴んだ。
「……馬鹿野郎。それは触るなと言ったはずだ」
俺は、彼女の指先を自らの口に含み傷口から毒を吸い出した。
そして、懐から薬草を取り出しそれを噛み砕くと、彼女の傷口に塗り込む。
アビスでの基本的な応急処置だった。
シズカはただ驚いたように俺の顔を見つめている。
「……なぜ」
「何がだ」
「……なぜ助けるの? 私はあなたの仲間を危険に晒す疫病神かもしれないのに」
そのあまりに悲しい問い。
俺は何も答えなかった。
ただ、彼女の指にボロボロの布を巻き付けながら静かに言った。
「……ここにいる奴らはみんなそうだからだ」
「……え?」
「みんな何かを失って、傷だらけでここに流れ着いた。……俺もお前も同じだ」
俺は、それだけ言うとその場を立ち去った。
後に残されたシズカは、ただ呆然と自らの指に巻かれた布を見つめていた。
その瞳からは涙がこぼれ落ちていた。
だが、それはこれまでの絶望の涙とは違う温かい涙だった。
彼女は、生まれて初めて自分以外の誰かから無償の優しさを受け取ったのだ。
♢
その日を境に、シズカは少しずつ変わっていった。
彼女の瞳に宿っていた深い不信感の色が僅かに薄らいだ。
そして、彼女は初めて自らの意志で誰かと関わろうとし始めた。
最初はぎこちなかった。
だが、子供たちの無邪気な笑顔とハナさんの温かい言葉。
そして、クロの不器用な優しさに触れるうちに、彼女の心は急速に癒されていった。
彼女は初めて心の底から笑った。
その笑顔はまるで、固く閉ざされていた蕾がようやく花開いたかのように美しかった。
教会の子供たちは、皆その笑顔の虜になった。
クロもまた同じだった。
彼のシズカに対する感情は、もはやただの同情ではなかった。
それは、明らかに恋の色を帯びていた。
彼は、訓練以外の時間のほとんどを彼女と共に過ごすようになった。
そして、彼女にアビスで生きるための様々なことを教えた。
獲物の狩り方。
敵から身を隠す方法。
その全てを。
彼は、彼女を守りたいと心の底から願っていたのだ。
クロとシズカ。
太陽のような男と月のように美しい女。
二人はあまりにお似合いだった。
俺のような闇に囚われた亡霊が、彼女の隣に立つ資格などない。
俺は自ら一歩引いた。
それが彼女のためであり、そしてクロのためでもあると信じて。
だが、俺は気づいていなかった。
シズカの本当の心がどこにあるのかを。
彼女は、クロと共にいる時確かに笑っていた。
だが、その瞳が本当に輝くのは彼女が俺の姿を見つけた時だけだということに。
俺が一人で訓練に打ち込む背中。
俺が幼い子供たちに見せる不器用な優しさ。
そして、俺が時折見せる深い孤独の色。
彼女は自分と同じ匂いを俺に感じ取り、無意識のうちに俺を目で追うようになっていたのだ。
俺と彼女の間に流れる静かでそしてどこか切ない空気。
その変化に最初に気づいたのは、クロだったのかもしれない。
彼の俺に対する視線が、再び以前のような鋭い敵意を帯び始めた。
この教会は楽園ではなかった。
それは、ただ傷ついた獣たちが身を寄せ合うだけの仮初めの安息所。
そして、三匹の若き獣たちの心はあまりに複雑でそしてあまりに脆かった。
穏やかな日々の下で、新しい嵐が静かに生まれようとしていた。