魔女の漂着
老婆との遭遇。
その圧倒的な敗北から一年が過ぎた。
俺たちが持ち帰った一本の月光花。
それは奇跡を起こした。
死の淵を彷徨っていた先生の命を、この世に繋ぎ止めたのだ。
もちろん完全な治癒ではない。
彼の体の奥底に巣食う病魔を消し去ったわけではなかった。
束の間の奇跡。
先生は再び自らの足で立ち、俺たちに教えを授けてくれるようになった。
その事実が、教会に久しぶりの明るい光をもたらしていた。
♢
その日の午後。
教会の地下訓練場では、俺とクロが組手をしていた。
俺たちの戦いはもはやただの子供の喧嘩ではない。
互いの全てをぶつけ合う真剣勝負。
俺の拳がクロの頬を掠め、クロの蹴りが俺の脇腹を抉る。
その戦いを訓練場の隅の椅子に座り、先生が静かに見守っていた。
杖を傍らに置き、その表情は穏やかだった。
「クロ。力に頼りすぎだ。もっと流れを読め」
「ミナト。お前の動きは綺麗すぎる。もっと泥臭く牙を剥け」
先生の的確な指示が飛ぶ。
彼がこうして俺たちの訓練を見てくれる。
その当たり前だったはずの日常が、俺たちにとっては、かけがえのない宝物だった。
教会を守る二本の牙と呼ばれるようになって、心の奥にある僅かな傲りは、あの敗北で完全に粉砕された。
そしてその砕け散ったプライドの瓦礫の中から、新しい、そしてより強烈な強さへの渇望が生まれたのだ。
俺たちは以前にも増して、狂ったように自らを鍛え続けた。
だが、その道筋はあの日を境に明確に二つに分かれていた。
クロが求めたのは「剛」の強さだった。
彼は自らの肉体を極限までいじめ抜き、ただひたすらに純粋な破壊の力を追い求めた。
一方俺が求めたのは「柔」の強さだった。
ただ強くなるのではない。
誰にも捉えられない影になるのだ。
俺たちの向かう先は違えど、その目的は同じだった。
いつか必ず、あの届かぬはずの頂へと挑むために。
♢
その日の夜だった。
アビスを激しい嵐が襲った。
風が唸りを上げ、壁の隙間から悲鳴のような音を立てる。
そして叩きつけるような雨。
教会の子供たちは身を寄せ合い、不安な夜を過ごしていた。
その時、教会の古びた扉を誰かが激しく叩く音がした。
俺とクロが武器を手に、警戒しながら扉へと向かう。
こんな嵐の夜に訪れる者などろくな人間ではない。
俺たちはゆっくりと扉のかんぬきを外した。
そして、そこに倒れ込んできた人影に息を呑んだ。
それは一人の少女だった。
俺たちと同じくらいの歳だろうか。
ずぶ濡れのボロボロの服。
体には無数の切り傷。
だが、その泥にまみれた顔の中で瞳だけが狼のように鋭い光を放っていた。
少女は俺たちの姿を認めると、そこでぷつりと糸が切れたように意識を失った。
♢
俺とクロは、少女を教会の中へと運び込んだ。
ハナさんが、手際良く彼女の傷を手当てしていく。
幸い命に別状はなかった。
ただ、極度の疲労と栄養失調で気を失っているだけらしかった。
少女が目を覚ましたのはその翌日のことだった。
♢
彼女が最初に感じたのは、温もりだった。
硬く冷たいコンクリートではない柔らかいベッドの感触。
そして、清潔な毛布の温かさ。
彼女はゆっくりと目を開けた。
見慣れたアビスの闇ではない。
蝋燭の炎が優しく揺らめく、穏やかな部屋。
そして、自分の額に置かれた濡れた布の心地よさ。
彼女の瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖からではない。
生まれて初めて触れた、人の温かさに対する戸惑いの涙だった。
♢
彼女は自らをシズカと名乗った。
そしてぽつりぽつりと、自らの過去を語り始めた。
西地区の小さな派閥にいたこと。
そこは血に飢えた集団ではない。
ただ寄り集まって生きるだけの弱者たちの共同体だったこと。
だが、昨夜仲間内の裏切りにあって派閥は壊滅したこと。
目の前で家族同然だった仲間たちが、次々と殺されていく地獄。
たった一人で命からがら逃げてきたこと。
そして、アビスに古くから伝わる「隻腕の聖人が守る教会」の噂だけを頼りにここまでたどり着いたこと。
彼女の物語はあまりに悲劇的だった。
その言葉は途切れ途切れで、そしてその瞳は深い絶望の色を宿していた。
ハナさんや他の子供たちは、彼女の境遇に深く同情し涙を流した。
クロもまた同じだった。
彼は、彼女のその気丈な態度と瞳の奥に宿る強い光に、何か共感するものを見出しているようだった。
「先生。彼女をここに置いてやってくれ。こいつは俺たちと同じ生き残りだ」
クロが先生にそう懇願した。
俺だけが、何も言わなかった。
俺は、そのシズカという女から目を離せなかった。
俺が感じていた違和感の正体。
それは、彼女が嘘をついているからではなかった。
逆だ。
彼女が語る絶望はあまりにも本物すぎた。
その瞳。
それは、俺がこのアビスに来て、初めて自分と全く同じ目をしている人間に会った瞬間だった。
全てを失い、全てを憎み、そして心の奥底では救いを求めている獣の目。
俺は、彼女が危険だと感じていた。
だが、それは彼女が敵だからではない。
あまりにも自分と似すぎていたからだ。
いつかこの女は、自らも周りも焼き尽くすかもしれない。
そんな予感がした。
先生は全てを分かっているかのような穏やかな目で頷いた。
「……よかろう。傷が癒えるまでここにいるがいい」
こうしてシズカという名の傷ついた少女は俺たちの家族の一員となった。
♢
数日が過ぎた。
シズカの傷は少しずつ癒えていった。
だが、その心の傷は今もまだ生々しく膿んでいる。
彼女は一日中教会の隅で、膝を抱えただ一点を見つめていた。
誰も信じられない。
この場所も、ここにいる人間も。
優しさは罠だ。
安らぎは次なる絶望への序曲でしかない。
アビスで生きるために、彼女がその身に刻み込んだ唯一の教えだった。
ハナさんが運んでくる温かいスープにも、彼女はほとんど口をつけなかった。
彼女はただ戸惑い怯え続けていた。
この、あり得ないほどの優しさに満ちた空間で、どう生きていけばいいのか分からずに。
♢
その夜。
俺は偶然見てしまった。
一人月明かりの下で佇む彼女の姿を。
彼女は、ただ静かに闇に包まれたアビスの街を見下ろしていた。
その横顔は美しく、そしてあまりにも儚かった。
彼女の瞳に浮かんでいたのは深い深い哀しみと、そしてこの世界そのものへの拭いきれない不信感の色だった。
「……ここが楽園……?」
彼女の唇からそんな声なき声が聞こえた気がした。
俺は彼女に声をかけることができなかった。
俺もまた、同じ闇を抱えて生きていることを彼女に知られるのが怖かったのかもしれない。