届かぬ頂
その日俺たちは狩りに出ていた。
標的は中層地区の西側を縄張りとする派閥「鉄鼠」。
奴らが溜め込んでいる食料と、そして武器を奪う。
それが今回の任務だった。
作戦の指揮を執るのはクロ。
そして、俺は彼の副官として部隊を率いていた。
リョウが死んだあの夜から三年。
俺たちはもう子供ではなかった。
師である先生の衰えとは対照的に、俺たちの力は日に日に増していった。
教会を守る二本の牙。
俺たちはいつしかそう呼ばれるようになっていた。
戦いは一瞬で終わった。
クロが正面から敵のアジトの壁を粉砕する。
その轟音と破壊を陽動とし、俺が率いる別動隊が影の中から敵を狩っていく。
俺たちの動きはもはや子供の喧嘩ではない。
洗練され無駄がなく、そして容赦がない。
敵は、抵抗すらできずに次々と沈黙していった。
戦いが終わった後、俺たちは戦利品を回収していた。
仲間の一人がぽつりと呟いた。
「……リョウが死んでからもう三年か」
その言葉にその場の空気が少しだけ重くなる。
クロは黙って瓦礫の山を見つめていた。
そして静かに言った。
「……ああ。あの日以来、俺たちは誰一人死なせていない」
そうだ。
あの日俺たちは誓ったのだ。
もう二度と仲間を失わないと。
その誓いが俺たちをここまで強くした。
その時だった。
教会の年少組の一人が、血相を変えて俺たちの元へと駆け込んできた。
「大変だ! 先生の容態が……!」
教会に戻った俺たちが見たのはベッドの上で苦しげに息をする先生の姿だった。
その体は枯れ木のように痩せ細り、顔には死相が浮かんでいた。
ハナさんが涙ながらに言った。
「……もう長くないかもしれない。あの時の傷が今になって……」
蛇の巣で負ったあの癒えぬ傷。
それが先生の命を確実に蝕んでいたのだ。
クロが絶望に顔を歪ませる。
だが、先生は弱々しく首を横に振った。
そしてかすれた声で俺たちに告げたのだ。
「……情けない顔をするな。……俺はまだ死なんよ」
「……一つだけ可能性がある。……月光花。アビスの最奥に咲くという幻の薬草だ……」
それは、ただの伝説だと思っていた。
アビスの住人たちの間で囁かれるおとぎ話。
先生は震える手で一枚の古い地図を俺に差し出した。
「……わしが若い頃一度だけその場所を見たことがある。だが、あそこは禁忌の庭だ。あの場所にはとてつもない強者がいると聞いたことがある。まだお前たちが挑むには早すぎる……」
俺とクロはその言葉に力強く頷いた。
「行くぞミナト」
「……ああ」
俺は力強く頷いた。
たとえ禁忌であろうと俺たちは行く。
先生を救うためなら。
♢
数日後。
俺たちはついに目的の場所にたどり着いた。
そこはアビスとは思えないほど静かで、そして美しい場所だった。
地下深くにぽっかりと空いた巨大な空洞。
天井の僅かな亀裂から奇跡のように陽の光が差し込み、苔むした岩肌をきらきらと照らし出している。
そしてその光の中心にあった。
青白い光を放つ神秘的な薬草の群生地が。
「……あった。月光花だ」
クロが歓喜の声を上げる。
俺もまた安堵に息を吐いた。
俺たちは薬草へと駆け寄った。
だがその時だった。
「――おや。珍しいねえ。わっちの庭に客人が来るなんぞ何十年ぶりかねえ」
「お主らは隻腕の小僧の、雛か。……まだ翼も生え揃わぬうちに、空の高さを知ろうとは百年早いわ」
その声はどこまでも穏やかだった。
俺たちは声がした方角を見た。
そして言葉を失った。
そこに立っていたのは一人の老婆だった。
腰が曲がり、その手には一本の杖。
皺だらけの顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
とても戦士とは思えない。
ただの、か弱い老婆。
だが、その老婆の姿を見た瞬間。
俺の全身の細胞が最大級の警鐘を鳴らしていた。
逃げろと。
今すぐここから逃げ出せと。
だが、クロは違った。
彼の目にはただ獲物しか見えていなかった。
「……てめえがこの庭の主か。薬草は俺たちがもらう。文句があるなら殺す」
クロの言葉に老婆は楽しそうに笑った。
「元気の良い雛じゃのう」
「誰が雛だクソババア!」
クロが雄叫びを上げ、老婆へと襲いかかった。
その岩をも砕く渾身の拳が、老婆の顔面に叩き込まれるまさにその寸前。
老婆の姿が消えた。
俺とクロの視界から。
完全に。
クロの拳が虚しく空を切る。
その体勢が崩れきった無防備な背後。
そこに老婆は音もなく立っていた。
いつの間に。
いや違う。
彼女はまるで最初からそこにいたかのようにただ静かにそこに立っていた。
「……しまっ……!」
クロが気づいた時には全てが終わっていた。
老婆の白く細い指先が、まるで羽が触れるように優しくクロの背中に触れただけ。
だが次の瞬間。
クロの巨体が、まるで巨大な鉄槌で殴りつけられたかのように、くの字に折れ曲がり前方へと吹き飛んだ。
「があっ……! はっ……!」
クロは地面に叩きつけられ、蛙が潰れたような声を上げ激しく咳き込む。
肋骨が数本砕ける音がした。
たった一撃。
教会最強の男が赤子のように無力化されたのだ。
俺はそのあまりに非現実的な光景に思考が停止した。
だが、体だけは先生の教え通りに動いていた。
俺は、即座にその場から後方へと跳躍し距離を取る。
そして、闇に紛れ彼女の死角から次の一手を狙おうとした。
だが、
「――無駄だ小僧」
冷たい声が響いた。
老婆はクロには一瞥もくれることなく、ただ俺だけを見ていた。
その色のない瞳が、俺の全てを見透かしている。
俺の動きも思考も、そして心の奥底にある恐怖さえも。
俺は動けなくなった。
息ができない。
思考が止まる。
これが本物の強者。
俺たちはここで死ぬ。
俺は生まれて初めて絶対的な死を覚悟した。
老婆は俺たちに興味を失ったかのように薬草の方へと歩み寄った。
そして、その中から一本だけを抜き取るとそれを俺の足元へと放り投げた。
「……これはくれてやる。わっちの庭を荒らした手付けだ」
それは勝利ではなかった。
圧倒的な強者の気まぐれな情けによって与えられた屈辱的な施し。
老婆は俺たちに背を向け闇の中へと姿を消していった。
「……隻腕に伝えな。もう二度とわっちの庭に近づくなと」
♢
俺たちが教会にたどり着いた時。
俺もクロもボロボロだった。
手にした一本の薬草がひどく重かった。
俺たちの心にあった僅かな傲りは完全に粉砕された。
強さとはなんだ?
ただ敵を倒すことか?
違う。
仲間を生きて家に連れて帰ること。
それができなければどんな力も無価値だ。
この数年間で何を鍛えてきたのだ。
何を学んできたんだ。
本物の強者にはまだまだほど遠い。
俺はそのあまりに重い事実に、ただ打ちのめされることしかできなかった。
♢
数日後。
奇跡が起こった。
あれほど衰弱しきっていた先生の顔色に血の気が戻り、彼は自らの足でベッドから起き上がれるまでに回復したのだ。
それは完全な治癒ではない。
ただ、彼の命の蝋燭が燃え尽きるその最後の瞬間に、もう一度だけ力強い炎を灯してくれた束の間の奇跡。
教会は久しぶりに子供たちの本当の笑顔と歓声に包まれた。
俺とクロはその光景を見て、初めて自らの冒険が無駄ではなかったことを知った。
俺たちはこの束の間の平穏を自らの手で勝ち取った。
その確かな事実が、二人の胸に新しい自信と誇りを与えた。