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癒えぬ傷

 先生が、深手を負ってから数ヶ月が過ぎた。

 彼の脇腹の傷は、ハナさんの懸命な看病のおかげでなんとか塞がった。


 だが、その傷は先生の体から多くのものを奪い去っていた。

 かつてのような神業じみた動きはもう見られない。

 咳き込むことも増え、その顔色も優れない日が続いた。

 俺たちの師であり絶対的な守護者であった人の明らかな衰え。

 それは、教会の子供たちの心に暗い影を落としていた。

 そして、その変化は俺とクロの関係にも微妙な影響を与え始めていた。



 クロは、自らが先生に代わってこの群れを率いる次なる「牙」にならなければならないという覚悟を固め始めていた。


 俺も同じだった。

 俺がこの家族を守るのだ。

 先生の代わりに。


 それに加えて教会の食料事情は常に逼迫していた。

 俺とクロを中心とした精鋭チームは以前よりも頻繁に「狩り」へと赴くようになった。

 それは生きるためのそして仲間たちを守るための血に濡れた日常だった。


 その日の午後。

 教会の地下訓練場では、子供たちの熱気が渦巻いていた。


 俺とクロが組手をしていた。

 俺たちの戦いはもはやただの訓練ではなかった。

 互いの全てをぶつけ合う真剣勝負。

 俺の拳がクロの頬を掠め、クロの蹴りが俺の脇腹を抉る。


 一進一退の攻防。

 その戦いを訓練場の隅の椅子に座り、先生が静かに見守っていた。

 だが、その表情は苦痛に歪んでいた。

 時折激しく咳き込みその口元を布で押さえる。

 その布が赤く染まっているのを俺は見てしまった。

 先生の体はもう限界に近かった。


 組手が終わり、俺とクロは先生の元へと駆け寄った。


「先生……」

「……見事だったぞ二人とも。もはや、俺が教えることは何もない」


 先生はそう言って弱々しく笑った。


「だがな。力だけではこのアビスでは生き残れん。それを忘れるな」


 その言葉は遺言のようにも聞こえた。


 ♢


 その日の夜。

 先生の、部屋に俺たち選抜された七人の仲間が集められた。

 今回の狩りの標的は中層地区の南側を縄張りとする比較的に新しい派閥。

 奴らが隠し持っている越冬用の食料を奪う。

 それが、今回の任務だった。


「……油断はするな」


 先生はベッドの上から弱々しく、しかし鋭い目で俺たちに告げた。

 作戦の指揮はクロが執った。

 それは、世代交代の始まりを意味していた。


「作戦はシンプルだ。俺たちが正面から突っ込み奴らの注意を引きつける。その隙にミナト、お前が裏から回り込み食料庫を叩く」


 クロの作戦は、あまりに直線的で荒々しかった。

 俺は僅かな違和感を覚えた。


「……クロ。偵察によれば奴らのアジトは古い工場だ。裏口があるとは限らない」

「なら壁をぶち破るだけだ。問題ねえ」

「……罠の可能性は考えたか? 情報があまりに綺麗すぎる」

「罠だと? あんな雑魚どもが俺たちに罠を仕掛けるってのか? 寝言は寝て言えミナト。お前は考えすぎなんだよ」


 クロは、俺の言葉を一笑に付した。

 これまでの成功が彼の心に僅かな、しかし致命的な油断を生んでいたのかもしれない。

 俺はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、嫌な予感が胸の中に渦巻いていた。


 作戦は決行された。

 俺たちは、夜の闇に紛れ敵のアジトである廃工場へと潜入した。

 クロたちが正面から派手な陽動を仕掛ける。

 俺らのチームはその隙に工場の裏手へと回り込んだ。


 だが、俺の予感は的中した。

 裏口など存在しない。

 あるのは分厚いコンクリートの壁だけ。

 俺は舌打ちをすると、壁をよじ登り屋根にある通気口から内部へと侵入した。


 中は静まり返っていた。

 静かすぎた。

 食料が保管されているはずの倉庫へと向かう。

 扉を開けた瞬間。

 俺の全身の肌が粟立った。


 アビスで生きるために磨き上げた野生の勘が、最大級の警鐘を鳴らしている。

 倉庫の中はもぬけの殻だった。

 そして、背後で扉が閉まり分厚い鉄のシャッターが下りる音が響いた。

 拡声器から下卑た笑い声が聞こえてくる。


「――かかったな、ドブネズミ!」


 罠だった。

 俺たちの動きは完全に読まれていたのだ。


「――伏せろ!」


 俺の絶叫。

 だがそれよりも早く。

 部屋の四方八方の闇の中から無数の銃口が火を吹いた。


 ダダダダダダダダダッ!


 凄まじい銃声と衝撃。

 俺は咄嗟に一番近くにいた仲間を突き飛ばし、鉄の棚の影へと転がり込んだ。


 耳鳴りがする。

 火薬の匂いが鼻をつく。

 銃弾が金属に当たって甲高い音を立てて跳ね返る。

 まさに地獄だった。


「クソがぁ! ハメられたか!」


 外で待機していた先生が、無線で悪態をつくのが聞こえる。

 だが、相手は俺たちよりも一枚上手だった。

 完全に包囲されている。

 このままでは蜂の巣だ。


「……撤退する!」


 先生が苦渋の決断を下した。

 クロが雄叫びを上げて闇の中へと突進していく。

 その圧倒的なパワーが敵の包囲網に僅かな亀裂を生んだ。

 俺たちはその僅かな隙間から、雪崩を打つように撤退を開始した。


 だが。

 敵の攻撃はあまりに激しかった。

 銃弾が雨のように降り注ぐ。

 その中の一発が仲間の背中を容赦なく貫いた。


「ぐあっ!」

「リョウ!」


 俺たちの仲間の一人、リョウだった。

 彼は俺たちよりも二つ年上で、いつも弟のように俺たちの面倒を見てくれていた。

 クロが彼を助けに戻ろうとする。

 だがそれよりも早く。

 リョウは最後の力を振り絞って叫んだ。


「来るな! 俺のことはいい! 行けぇ!」


 彼は、懐から手製の爆弾を取り出した。

 そして、自らの体を犠牲にして敵の群れの中へと転がり込んでいく。


「やめろ! リョウ!」


 俺の叫びも虚しく。

 閃光と轟音。

 リョウの命の光は俺たちの退路を確保するためだけに燃え尽きた。

 俺たちはただ歯を食いしばり涙をこらえ、闇の中を走り続けることしかできなかった。


 ♢


 教会にたどり着いた時、俺たちの仲間は一人減っていた。

 持ち帰った物資はなにもない。

 ただ仲間の死というあまりにも重い代償だけを抱えて。


 その夜、教会は静かな悲しみに包まれた。

 幼い子供たちのすすり泣く声が聞こえる。

 先生は自室にこもり一度も出てこなかった。

 クロは訓練場で一人壁を殴り続けていた。


 そして俺は、ただ一人闇の中で膝を抱えていた。

 俺のせいだ。

 俺がもっと強ければ。

 俺がもっと早く罠に気づいていれば。

 リョウは死なずに済んだのかもしれない。

 無力感、そしてどうしようもない自己嫌悪。

 その感情が俺の心を支配していた。


 守ると決めた。

 この家族を。

 なのに俺はまた失った。

 光の世界で父さんと母さんを失った時のように。

 もう二度と失いたくない。

 そのためには力が必要だ。

 誰にも負けない圧倒的な力が。

 たとえこの身がどうなろうとも。


 俺はその日静かに誓った。

 俺の心に刻まれたこの癒えぬ傷に。

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