ハイエナの食卓
俺たちが鋼へと作り変えられていくその一方で。
教会の状況は日に日に悪化していた。
子供の数は増え続けている。
先生が俺のように他の派閥から買い取ったり、あるいは親を失いアビスを彷徨っていた孤児を保護したり。
三十人を超える家族を食わせていくには、俺たちの備蓄はあまりにも心許なかった。
ハナさんが先生に告げているのを俺は聞いた。
「……先生。食料がもう三日分もありません」
その声は絶望に満ちていた。
飢え。
それは、アビスにおける最も静かで、そして最も残酷な死神だった。
その日の夜。
先生は俺とクロ、そして他の年長の子供たち五人を集めた。
俺たちの精鋭チーム。
先生は一枚の古い地図を広げた。
「――今夜、狩りへ行く。お前たちに本当の戦いを教えてやる」
その一言で、俺たちの間に緊張が走った。
先生の指が指し示したのは中層地区の東側。
食料を溜め込んでいる中規模派閥「ハイエナ」の縄張りだった。
「奴らは昨日小さな派閥を一つ潰した。そして、その食料を根こそぎ奪い取っている。今頃は勝利の宴に酔いしれているはずだ」
先生の目は獲物を見据える狩人の目をしていた。
「奴らは弱者から食料を奪うことしか能のない本物のクズだ。そしてそういう連中ほど油断も多い。我々が牙を剥くには格好の相手だ」
そうだ。
この教会は楽園ではない。
ただ、生きるために戦う者たちの砦なのだ。
先生は俺たちに略奪の仕方を教えるつもりだった。
それもまたアビスで生きるための重要な授業の一つだった。
俺は覚悟を決めた。
ひーちゃんとの約束はもう守れない。
だが、俺には今守るべき新しい家族がいる。
そのために、この手を汚すことを俺は選んだのだ。
先生の言葉は常に冷静で合理的だった。
「作戦は隠密行動を基本とする。三つのチームに分かれ同時に侵入し目標を確保した後、速やかに離脱する。クロ。お前は第一班を率いて正面の陽動を担当しろ」
「……おう」
クロは獰猛な笑みを浮かべた。
血の匂いを待ち望む獣の笑みだ。
「ミナト。お前は第二班だ。俺と共に裏口から侵入し目標を確保する。いいな?」
「……はい」
俺は静かに頷いた。
残りの者たちは第三班として、周囲の警戒と退路の確保に当たる。
あまりに完璧で無駄のない作戦。
俺は改めて先生という男の底知れなさを感じていた。
彼はただの武術家ではない。
卓越した戦術家でもあった。
俺たちは、闇に紛れて教会を出た。
アビスの夜は漆黒の闇だった。
俺たちは先生の教え通り、音を立てず気配を殺し獣のように静かに移動していく。
東地区は俺たちの縄張りではない。
一歩間違えれば、他の派閥との無用な争いに巻き込まれる。
緊張が肌を刺した。
隣を歩くクロの息遣いが荒くなっているのが分かった。
彼は恐怖しているのではない。
武者震いしているのだ。
これから始まる戦いに。
血の匂いに。
そのあまりの戦闘への渇望に、俺は僅かな寒気を覚えた。
こいつは俺とは違う。
俺は守るために戦う。
だがこいつは戦うことそのもののために生きている。
♢
数時間後、俺たちは目標である廃工場へとたどり着いた。
中から聞こえてくるのは、男たちの下品な笑い声と酒の匂い。
先生の読み通りだった。
先生が無言で合図を送る。
作戦開始だ。
次の瞬間。
ドゴオオオオオオオン!
クロたちが工場の正面ゲートで手製の爆弾を炸裂させた。
凄まじい轟音と爆炎が夜の闇を切り裂く。
陽動だ。
「て、敵襲! 敵襲だ!」
工場の中から慌てふためいたハイエナの兵隊たちが、次々と飛び出してくる。
その混乱の真っ只中を。
俺と先生はまるで影のように工場の裏手へと回り込んでいた。
クロたちが派手な音を立てて扉を破壊する。
倉庫の見張りが一斉にそちらへと向かっていく。
その隙に俺と先生は倉庫の裏手にある小さな通気口から内部へと侵入した。
中は薄暗く埃っぽかった。
そして獲物の匂いがした。
俺たちは食料が保管されているはずの奥の部屋へと向かう。
だが、その部屋の前には二人の見張りが立っていた。
陽動に気づかなかったのか。
あるいは、ここに残されたのか。
先生が俺に目配せをした。
二人同時に仕留める、という合図。
俺は頷いた。
俺は先生の背後から音もなく駆け出した。
そして、見張りの一人の背後へと回り込むと、気道と頸動脈を同時に圧迫し、その意識を一瞬で刈り取った。
先生もまた、残りの一人を隻腕一本で完璧に制圧していた。
俺たちは部屋に侵入し、目的の食料が詰められた麻袋を見つけ出した。
作戦は成功だった。
あとは離脱するだけ。
そう思った瞬間だった。
ガシャアアアアアン!
凄まじい轟音と共に、俺たちが入ってきた通気口と、そして唯一の扉に分厚い鉄のシャッターが下りた。
罠だ。
「ハハハハハ! かかったな、ドブネズミどもが!」
下卑た笑い声。
部屋の奥の闇から、屈強な男たちが姿を現す。
その中心にいたのは、一際巨大な体躯を持つ傷だらけの男。
こいつが「ハイエナ」のリーダーか。
奴は俺たちが裏口から侵入してくることを読んでいたのだ。
陽動部隊を率いているクロたちが危ない。
俺の背筋を冷たい汗が伝った。
だが、先生は全く動じていなかった。
その表情は凪いだ湖面のように静かだった。
「……ミナト。お前は袋を」
「先生?」
「ここは俺がやる。お前は子供たちを飢えさせるな。それがお前の仕事だ」
先生はそう言うと、俺に背を向けた。
その隻腕の背中は、俺が今まで見たどんなものよりも大きく見えた。
ハイエナのリーダーが雄叫びを上げて襲いかかってくる。
その手には巨大な鉄の斧が握られていた。
先生は動かない。
斧がその頭上へと振り下ろされる、まさにその寸前。
先生の体が霞のように消えた。
リーダーの死角へと回り込むとその首筋に的確な手刀を叩き込んだ。
巨体が呻き声と共に崩れ落ちる。
残りの部下たちが恐怖に顔を引きつらせた。
だが、彼らもまたアビスの修羅場をくぐり抜けてきた者たちだ。
恐怖を怒りに変え、一斉に先生へと襲いかかった。
俺は食料の麻袋を背負いながら、その光景を見ていた。
それは、まるで一匹の孤高の狼と、飢えたハイエナの群れの戦いのようだった。
戦いは数分で終わった。
先生は俺に顎をしゃくった。
「行くぞ」
俺たちは隠し通路から脱出し、クロたちと合流した。
クロの部隊もまた、何人かが傷を負っていた。
だが、彼らの目には確かな達成感が宿っている。
俺たちは誰にも見つかることなく教会へと帰還した。
♢
その夜。
教会の食卓には温かいシチューと、焼きたてのパンが並んだ。
それは、俺たちが血を流して奪い取ってきた「糧」だった。
幼い子供たちが夢中になってそれを頬張っている。
その幸せそうな笑顔。
俺は自らの腕に残る生々しい傷跡を見つめた。
そして、初めて先生の言葉の本当の意味を理解した。
アビスで誰かを生かすことは、別、誰かの死の上に成り立っている。
この温かい食事は、俺たちが流した血の味がする。
俺はその事実から目を逸らさなかった。
守るためには戦わなければならない。
戦うためには獣にならなければならない。
俺は静かにパンを口へと運んだ。
それは、今まで食べたどんなものよりも重い味がした。




