鋼の作り方
その日から俺の新しい日常が始まった。
それは光の世界とは似ても似つかない歪な日常だった。
朝は子供たちの泣き声で目を覚ます。
食事は一日二回のスープと硬いパンだけ。
だが、そこには不思議な安らぎがあった。
飢えはあっても餓死する恐怖はない。
暴力はあっても理不尽な殺戮はない。
そして、何よりそこには「仲間」がいた。
俺と同じように全てを失いこの地の底へと堕ちてきた子供たち。
俺たちは言葉を交わさずとも互いの心の傷を理解していた。
だが、その穏やかな時間は毎日決まった時間に終わりを告げる。
先生による「授業」の始まりだ。
その授業は俺が知っているどんなものよりも過酷でそして実践的だった。
教会の地下には、広い訓練場があった。
先生はそこで俺たち年長の子供たちに生きるための術を叩き込んだ。
それは、ただの武術ではなかった。
例えば「歩法」の授業。
訓練場の床には砕けたガラスの破片と乾いた小枝がびっしりと敷き詰められている。
課題はただ一つ。
このガラスの海を端から端まで一切の音を立てずに渡りきること。
クロが最初に挑戦した。
彼は、その自慢の身体能力で獣のように低い姿勢を保ちゆっくりと進んでいく。
だが、彼の体重と荒々しい気配が災いした。
パキリと乾いた小枝の折れる音が響く。
その瞬間先生の竹刀が、クロの背中を容赦なく打ち据えた。
「……ぐっ!」
「クロ。お前の歩みはあまりにうるさい。それでは闇の中では生き残れん」
次に、俺の番だった。
俺は目を閉じた。
そして足の裏の感覚だけに全ての神経を集中させる。
風の流れを読む。
空気の振動を感じる。
そして、ガラスと小枝が作る僅かな隙間。
その一本の安全な道を頭の中に描き出す。
俺は、まるで水の上を歩くように音もなくそのガラスの海を渡りきった。
先生は何も言わなかった。
ただ満足げに一度だけ頷いた。
またある時は「武器術」の授業があった。
課題はただ一つ。
足元に転がっているありふれた瓦礫を拾い、それを武器としてみせること。
クロは迷わず一番大きく鋭い破片を手に取った。
そして、それを即席の斧のように構え力強く叫んだ。
「こいつで敵の頭を叩き割る!」
それはあまりにクロらしい答えだった。
先生は俺に尋ねた。
「ミナト。お前ならどうする?」
俺は、一番小さな石ころを一つだけ拾い上げた。
そしてそれを敵の目に見立てた壁のシミに向かって投げつけた。
石は寸分の狂いもなくシミの中心を撃ち抜く。
「まず目を潰しその隙に逃げる。あるいは喉を掻き切る」
俺の答えにクロは「卑怯者」と悪態をついた。
だが、先生は静かに言った。
「クロ。アビスの戦場に卑怯もクソもない。生き残った者が勝者だ。そしてミナト。お前の判断は正しい。だが覚えておけ。逃げるだけでは守りたいものは守れんぞ」
♢
先生の授業は戦闘技術だけではなかった。
俺たちの日常そのものが、一つの巨大な訓練だったのだ。
例えば食事。
俺たち年長の子供たちに課せられていたのは「沈黙の食事」という掟だった。
音を立ててはならない。
食器が触れ合う音もスープをすする音も許されない。
もし、僅かでも音を立てればその日の食事は没収される。
それは常に気配を殺し自らの存在を消すための訓練だった。
そして、肉体を鍛えるための日課も常軌を逸していた。
腕立てや腹筋などという生ぬるいものではない。
一つ目に先生が俺たちに課したのは「石の抱擁」と呼ばれる訓練だった。
それは、自分の体重と同じくらいの重さの岩をただひたすらに抱え続けるというもの。
最初は十分も持たない。
腕がちぎれそうになり、足が笑い全身の筋肉が悲鳴を上げる。
だが、先生は許さない。
「落とせば、夕食はなしだ」
その非情な一言。
俺たちは生きるために耐え続けた。
クロは、その圧倒的な負けん気で歯を食いしばり耐えた。
俺は、心を無にし自らの意識を肉体から切り離すことで、その地獄の時間を耐え抜いた。
その地獄のような訓練が俺たちの体に鋼の筋肉と決して折れない精神力を刻み込んでいったのだ。
二つ目に先生が俺たちに課したのは「散歩」と呼ぶ、地獄の長距離走。
それは、スタミナ訓練だった。
だが、そのコースは常軌を逸していた。
平坦な道などない。
俺たちが走るのは、崩れかけたビルの瓦礫の山。
錆びつきいつ崩落してもおかしくない鉄骨の橋。
そして、僅かな光も届かない地下の下水道。
先生は常に俺たちの先頭を、驚くべき速さで走り続ける。
その隻腕の背中に遅れれば、待っているのは容赦ない竹刀の一撃だった。
「息を、整えろ! 獣になったつもりで、四肢を使え!」
先生の怒号が飛ぶ。
「このアビスそのものがお前たちの訓練場だ! 道がなければ作れ! 壁があれば登れ! 谷があれば跳べ!」
俺たちは必死だった。
空腹と疲労で意識が遠のいていく。
だが、足を止めれば死ぬ。
アビスの獣たちに喰われるか。
あるいは先生に見捨てられるか。
どちらも同じ死を意味した。
クロはその圧倒的な負けん気と体力で、常に先生のすぐ後ろに食らいついていた。
彼の走りは荒々しくそして暴力的だった。
障害物は全てそのパワーで粉砕していく。
一方俺は違った。
俺は常に最後尾を走っていた。
だが、それは体力がないからではない。
俺は観察していたのだ。
先生の走り方を。
彼の足の運び、重心の移動、そして呼吸のリズム。
その全てをこの目に焼き付け、そして模倣する。
俺は力ではなく技術でこの地獄を乗り越えようとしていた。
最も効率的に、そして最も静かに。
数時間の地獄の散歩が終わる頃。
俺たちの体は鉛のように重かった。
だが、俺たちに休息は与えられない。
教会の地下訓練場。
そこには、俺たちの身長ほどもある巨大な麻袋がいくつも吊るされている。
中身は砂とそして鉄屑だった。
先生はそれを指差し、ただ一言こう言うのだ。
「――日が、暮れるまで殴り続けろ」
三つ目に先生が俺たちに課したのは、武術の訓練だった。
先生が教える武術。
それは特定の流派ではない。
あらゆる殺人術のエッセンスを抽出し、先生自身が作り上げたアビスで生きるためだけの実戦武術。
型などない。
そこにあるのは、ただいかにして効率的に敵の命を奪うかという機能美だけだった。
俺たちは来る日も来る日も、拳が潰れ血が滲むまでその麻袋を殴り、蹴り続けた。
そして、俺たちの拳と脛はいつしか石のように硬くなっていた。
日が暮れるまで殴り続けた後。
俺たちの拳は感覚を失い血で真っ赤に染まっていた。
だが日課の訓練はまだ終わらない。
そこからが本当の地獄の始まりだった。
四つ目に先生が俺たちに課したのは、実践を意識した組手だった。
俺たち子供同士による実戦形式の戦闘訓練だ。
ルールは一つだけ。
死ぬな。
そしてその日の最後の組手は、いつも俺とクロと決められていた。
他の子供たちが固唾を呑んで見守る中、俺たちは訓練場の中央へと進み出る。
憎悪とそして奇妙な信頼。
俺たちの視線が交錯する。
「始め」
先生のその一言が合図だった。
クロが、獣のような雄叫びを上げて突進してくる。
その拳は岩をも砕くほどの破壊力を持っていた。
俺はそれを受け止めない。
ただ、紙一重で避けるだけ。
そして、彼の力の流れを読みその勢いを利用して体勢を崩す。
俺のカウンターが、クロの脇腹を浅く抉る。
だが、クロは怯まない。
彼は痛みすらも怒りの燃料へと変える男だった。
戦いは常に泥仕合となった。
俺たちは互いの全てをぶつけ合った。
殴り蹴り投げ飛ばしそして関節を極める。
どちらかが血反吐を吐いて倒れるまで、その戦いは終わらない。
勝敗はいつも五分だった。
俺の技術が勝るか。
クロのパワーが勝るか。
その日のコンディションだけで決まるような危うい均衡。
その均衡が、俺たちの成長を異常な速度で加速させていた。
その日も俺たちは互いに深手を負い倒れ込んだ。
そして、二人とも立ち上がれなくなった時点で、ようやく先生の「やめ」の声がかかった。
俺は床に倒れたまま荒い息を繰り返す。
隣で同じように倒れているクロの憎しみに満ちた視線を感じながら。
♢
夜。
過酷な訓練を終え疲弊しきった俺たちを待っていたのは、もう一つの「教室」だった。
教会の地下。
蝋燭の灯火が揺らめくその場所で、先生は俺たちに勉学を教えたのだ。
先生がどこからか手に入れた古びた教科書を使い、歴史科学そして哲学を。
「……いいか小僧ども」
先生はよく言った。
「牙を持つだけでは獣と同じだ。獣はいずれより大きな獣に喰われる。だが、知恵は牙よりも強くそして鋭い武器となる。お前たちはただの獣になるな。思考する人間であれ」
その教えは、子供たちのほとんどには理解できなかった。
クロもその一人だった。
彼は、座学の時間になるといつもつまらなそうに欠伸をしていた。
戦いの役には立たないと本気で思っているようだった。
だが、俺は違った。
俺は飢えた獣のようにその知識を吸収した。
父さんと母さんが教えてくれた学ぶ喜び。
その光の世界の記憶が、俺の中にまだ残っていたからだ。
そして俺は理解していた。
いつかこの地獄から抜け出すために必要なのは、暴力だけではないということを。
戦闘訓練ではクロが常に俺の一歩先を行っていた。
だがこの知恵の世界では俺が彼を圧倒した。
その事実が俺たちの歪でそして奇妙なライバル関係をより強固なものへと変えていった。
殺しの技術。
生きるための知恵。
俺たちはそれを日々骨の髄まで叩き込まれた。
クロはその全てを己の牙を研ぎ澄ますために吸収した。
俺はその全てを守るべき仲間たちのための盾とするために吸収した。
同じ教えを受けながら、俺たちが見ていた景色は全く違っていた。
だが、その歪な関係性が俺たち二人をアビスの子供たちの中では突出した存在へと成長させていったのだ。




