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ショータイムの裏幕

 翌日、聖マリアンヌ女学院の空気は目に見えて淀んでいた。

 正門や裏門の周辺に、昨日までいなかったガラの悪い連中がたむろしている。


 鬼塚の仲間たちだ。

 彼らは学園の生徒たちに威圧的な視線を送り、あからさまな敵意を振りまいていた。

 教師たちも迂闊に手出しはできず、警備員と言葉を交わしているが状況は変わらない。

 鬼塚の言った「ショー」とは、この学園全体を人質に取った劇場型の嫌がらせだった。


 西園寺麗奈は、そんな状況下でも決して表情を崩さなかった。


 内心でどれほど腸が煮えくり返っていても、恐怖を感じていても、彼女は女王として毅然と振る舞う。

 それが、彼女が自らに課したルールだった。


「麗奈様、大丈夫ですか……?」


 友人の一人、小倉美咲おぐらみさきが、心配そうに声をかけてくる。


「何が?」

「だって、あの人たち、明らかに麗奈様を……」

「だとしても、私が怯むとでも思ったの? 吠えることしかできない駄犬に、いちいち構う必要はありませんわ」


 麗奈はそう言って美咲を安心させようとしたが、その言葉が、最悪の引き金となることを彼女はまだ知らなかった。


 その日の昼休み。

 麗奈が教室で本を読んでいると、美咲が戻ってこないことに気づいた。

 少し前に、教師に呼ばれたと言って教室を出ていったきりだ。


 嫌な予感が麗奈の胸をよぎる。

 その時、彼女のスマートフォンの画面が光り、一件のメッセージが届いた。

 知らない番号からのメッセージ。

 開くと、そこには一枚の写真が添付されていた。


「……っ!」


 麗奈は息を呑んだ。


 写真には、口を塞がれ涙目で怯える美咲の姿が写っていた。

 背景は、見覚えのある場所――今は使われていない、旧体育館の用具室だ。


 続いて、テキストメッセージが送られてくる。


『姫様のお友達、お預かりしてるぜ。助けたかったら、テメエ一人で旧体育館まで来い。誰かに言ったら、この子の可愛い顔に一生消えねえ傷がつくと思え』


 卑劣な脅迫。


 麗奈は、怒りで唇が震えるのを感じた。

 鬼塚は、自分ではなく、最も弱い友人から狙ってきたのだ。


(私の……私のせいだわ)


 自分が毅然とした態度を取ったせいで、美咲が狙われた。

 麗奈の心は、後悔と自己嫌悪で締め付けられる。


 だが、感傷に浸っている時間はない。

 麗奈は誰にも告げず、一人で席を立った。


 罠だと分かっている。

 行けば何をされるか分からない。

 それでも、行かなければならない。

 友人が、自分のせいで危険に晒されているのだから。


 その全ての動きを、相沢祐樹は把握していた。

 彼は、午前中の清掃作業中、校舎の壁に取り付けられた換気口のダクトを点検するという名目で、屋根裏の配線ルートを歩いていた。

 そこからなら、校内の主要な場所の音は反響を通じて手に取るように分かる。


 鬼塚の仲間が、偽のメモで美咲を呼び出したこと。

 彼女を旧体育館へ連れ去ったこと。

 そして、麗奈が一人でそこへ向かっていること。


 全て、彼の描いたシナリオ通りだった。

 祐樹は、誰よりも早く旧体育館に到着すると、音もなく天井裏の点検口から内部に侵入し、梁の上で息を潜めた。

 これから始まる茶番劇を、特等席で鑑賞するために。


 ◇


 ギィ、と錆びついた蝶番の音がして、旧体育館の扉が開かれた。

 麗奈が、固い表情で一人足を踏み入れる。


 体育館の中央では、鬼塚がパイプ椅子にふんぞり返り、その周りを五人の仲間たちが取り囲んでいた。

 そして、その傍らには椅子に縛り付けられた美咲の姿があった。


「……よく来たな、姫様」


 鬼塚が満足げに笑う。


「美咲さんを、放しなさい」

「ああ、放してやるよ。お前が、俺の言うことを聞いたらな」

「何が望み?」

「簡単だ」


 鬼塚は椅子から立ち上がると、麗奈の目の前まで歩み寄った。


「俺の足元に跪いて、『私が愚かでした。鬼塚様、どうかお許しください』って泣いて土下座してみろよ。そしたら、考えてやる」

「……っ!」


 それは、西園寺麗奈という人間の誇りを、根こそぎへし折るための最も屈辱的な要求だった。


「どうした? できないのか? お前のつまらねえプライドのせいで、この友達がどうなってもいいのか?」


 鬼塚はそう言って、美咲の頬を汚れた指先でなぞった。

 美咲は恐怖に震え、涙をこぼす。

 その光景が、麗奈の決心を固めさせた。

 プライドなど、どうでもいい。友人の安全には代えられない。

 麗奈は、ゆっくりと、震える膝に力を込めた。


(……それでいい)


 梁の上。

 闇に溶け込んだ祐樹は、静かに頷いた。

 彼女が自分のためにではなく、他人のために頭を下げられる人間だと分かっただけで守る価値は十分にある。


 ――ショーは、もう終わりだ。


 麗奈の膝が、床につく寸前。

 バツンッ!

 突如、体育館内の全ての照明が一斉に消え、完全な暗闇が訪れた。


「な、なんだぁ!?」

「停電か!?」


 鬼塚たちが、混乱の声を上げる。

 祐樹が、天井裏から体育館全体のブレーカーを落としたのだ。


 ここは旧体育館。

 予備電源などない。

 月明かりすら差し込まない、絶対的な闇。

 それは、アビスの住人にとって最も慣れ親しんだ戦場だった。


「ひっ……!」


 美咲の短い悲鳴。


「落ち着け! 敵は一人だか……ごふっ!?」


 鬼塚の仲間の声が、肉の潰れる鈍い音と共に途切れた。

 静寂。

 闇の中で、何かが動いている。


「だ、誰だ! そこにいるのか!?」


 別の男が叫んだ、その直後。

 ゴッ、と硬いものが頭蓋にめり込む音がした。


 悲鳴は、ない。

 声を発する前に、意識を断ち切られたからだ。

 一人、また一人。

 闇の中で、音もなく狩られていく。

 祐樹の動きは、まるで幽霊だった。


 彼は人間の急所――首、みぞおち、こめかみ――を、寸分の狂いもなく的確に、しかし決して死なない絶妙な力加減で打ち抜き、無力化していく。


「く、来るな! こっちに来るなあああ!」


 パニックに陥った一人が、闇雲に鉄パイプを振り回す。

 だが、その腕は虚空を殴り、次の瞬間にはあり得ない方向に捻じ曲げられていた。


「があああああああ!!」


 ようやく上がった絶叫が、恐怖をさらに煽る。


「くそっ、くそったれが! 出てこい!」


 残るは鬼塚一人。

 彼は恐怖を振り払うように叫びながら、闇に向かって拳を突き出した。

 その拳は、いとも容易く受け止められる。


「なっ!?」


 そして、鬼塚の腕を掴んだ“何か”は、信じられない力で彼を床に叩きつけた。


「がはっ……!」


 肺から空気が全て搾り出される。


「て、てめえ……何者だ……?」

「……」


 返事はない。

 ただ、闇の中で、氷のように冷たい目が自分を見下ろしているのを感じた。

 それは、獲物を見る目ではなかった。

 道端の石ころを見るような、何の感情も宿さない絶対的な捕食者の目だった。

 鬼塚は、生まれて初めて、生物としての格の違いからくる本能的な恐怖に支配された。


「ひ……あ……」


 情けない声が漏れた、その瞬間。

 両肩、両膝に、杭を打ち込まれたかのような激痛が走った。

 関節が、的確に破壊されたのだ。


「―――――ッ!!」


 痛みと恐怖で、鬼塚の意識は闇に沈んだ。


 カチリ、と音がして、非常用の豆電球が一つだけ灯った。

 祐樹が、配電盤を操作して最低限の電力を復旧させたのだ。


 薄明かりの中に浮かび上がったのは、地獄のような光景だった。

 手足をあらぬ方向に曲げ、泡を吹いて気絶する鬼塚。

 その周りに、ゴミのように転がる仲間たち。


 そして、その惨状の中心に麗奈と美咲はただ立ち尽くしていた。

 何が起きたのか、全く理解できなかった。

 ただ、自分たち以外の“何か”が、この空間を支配し、一瞬で全てを終わらせたことだけは分かった。


「……助かった、の……?」


 美咲が、震える声で呟く。


 麗奈は、それに答えることができなかった。

 安堵よりも、得体の知れない恐怖が、彼女の心を支配していたからだ。


 天井裏の点検口の蓋が、音もなく閉まる。

 闇の中、静かに立ち去っていくその背中を知る者は誰もいなかった。

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