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二匹の獣

 老人は俺の手を引くと、その場を後にした。

 長い長い沈黙の道行きだった。

 俺は、ただ黙って老人の大きな背中を追い続けた。


 この男は何者なのか。

 これから自分はどうなるのか。

 何も分からなかった。


 だが不思議と恐怖はなかった。

 ただ、その隻腕の背中がなぜかひどく温かく感じられた。

 俺は、生まれて初めて他人の背中を追いながら歩いた。

 それは不思議な感覚だった。


 ♢


 どれほどの時間を歩いただろうか。

 俺たちは、一つの巨大な建物の前にたどり着いた。


 廃墟と化した教会だった。

 壁は崩れ落ち窓ガラスは全て割れている。

 この世界にある無数の廃墟の一つ。

 ただ、それだけに見えた。


 老人はその地下へと続く隠し扉を開ける。


 その瞬間。

 俺の鼻腔をこれまで嗅いだことのない匂いがくすぐった。


 それは悪臭ではない。

 野菜スープの温かい匂いだった。

 そして、薪の燃える匂い。

 地下の空間は驚くほど広く、そして清潔だった。

 何本もの蝋燭の炎が、壁を優しく照らし出している。


 そして、そこには何十人もの子供たちがいた。

 彼らは檻には入っていない。

 身を寄せ合い、静かに本を読んだり古い玩具で遊んだりしていた。


 その光景は、俺が数週間前に失ったばかりの光の世界の日常そのものだった。


 俺は、そのあまりに非現実的な光景にただ呆然と立ち尽くす。

 その時一人の老婆が俺に気づき、温かいスープの入った木の器を差し出してくれた。

 その老婆はハナという名前だった。


「さあお食べ。お腹が空いているだろう」


 そのあまりに優しい声。

 温かいスープの湯気。

 俺の心の中で固く閉ざされていた何かが、音を立てて壊れた。

 俺の目から、彼自身も気づかぬうちに涙がこぼれ落ちた。


 しょっぱい涙がスープに落ちて混ざっていく。

 俺は夢中でそのスープを啜った。

 それは、今まで食べたどんなものよりも温かくて優しい味がした。


「――ここが今日からお前の家だ」


 老人が静かに言った。


「ここでは我々は家族だ。奪い合わない。殺し合わない。ただ互いを守り合う。それがここの唯一の掟だ」


 その時、子供たちの輪の中から一人の少年がこちらへ歩いてきた。

 俺と同じくらいの歳だろうか。

 だが、その体つきも目つきも俺とは比べ物にならないほど鋭く、そして荒々しかった。


 少年は俺を値踏みするように見下ろすと、老人に吐き捨てるように言った。


「……先生。また拾ってきたのか。こんな半殺しのひょろいガキを」


 その声に俺は顔を上げた。

 そして二人の視線が初めて交錯する。

 老人は楽しそうに笑った。


「こいつの目は死んではおらんよクロ。お前と同じ獣の目だ」

「……紹介しようミナト。こいつはクロ。今日からお前の兄になる男だ」


 未来の亡霊と未来の王者。

 二人の運命が交わったその瞬間だった。


 クロと呼ばれた少年の目は全く笑っていなかった。

 その瞳に宿っているのは新参者である俺に対するあからさまな敵意と、そして値踏みするような侮蔑の色だった。


 ♢


 その夜、俺たちは一つの大きなテーブルを囲んで夕食をとっていた。

 メニューは、ハナさんが作ってくれた温かい野菜スープと少しだけ硬くなった黒パン。


 俺にとっては事故以来初めて口にするまともな食事だった。

 俺は夢中でスープを啜った。

 温かい液体が凍えた体の芯まで染み渡っていく。


 生きている。

 その実感が涙になりそうになるのを必死でこらえた。


 その時だった。

 俺の目の前に置かれていた黒パンが、すっと横から奪い取られた。


 クロだった。

 彼は俺のパンを奪うと、それをさも当然のように自分の口へと運んだ。


 俺は驚いて彼の顔を見た。

 だが、彼は俺のことなどまるで存在しないかのように、黙々とパンを咀嚼している。

 周りの子供たちはその光景を見て見ぬふりをしていた。


 これがこの場所のルールなのだ。

 新入りはまず古参の者に全てを差し出す。

 これは洗礼だった。


 俺の心の中で何かが燃え上がった。

 怒りではない。

 もっと冷たい何か。

 ここで引けば俺は一生こいつの奴隷になる。


 俺は無言で立ち上がると、クロの目の前に立った。

 そして彼が手にしていたスープの器に手を伸ばした。

 クロはせせら笑った。


「……なんだぁ? やる気か? てめえみてえなモヤシが」


 俺は答えない。

 ただその器を睨みつける。

 その俺の態度がクロの逆鱗に触れた。


 彼はスープの器をテーブルに叩きつけると、俺の胸ぐらを掴んで引き寄せた。


「いいぜ。死にてえなら殺してやるよ」


 その拳が俺の顔面に叩き込まれようとした瞬間。


 俺の体は勝手に動いていた。

 俺は、クロの腕を避けるのではなく逆にその懐へと潜り込んだ。

 そして、全体重を乗せて彼の軸足にタックルした。


 それは技術などではない。

 ただ生き残るための獣の動きだった。

 完全に意表を突かれたクロの体がぐらりと傾く。


「この……!」


 体勢を立て直したクロが、俺を蹴り飛ばそうとする。

 だが、俺は床を転がると彼の死角へと回り込んでいた。

 そして近くにあった木の椅子を掴むと、それで思い切り彼の背中を殴りつけた。


 バキッ!という鈍い音。

 椅子が砕け散る。

 クロが呻き声を上げて前のめりに倒れた。


 だが、彼はすぐに立ち上がった。

 その目はもはや怒りではない。

 本物の殺意に燃えていた。


「……てめえは俺が殺す」


 その殺伐とした空気を断ち切ったのは、先生の静かな声だった。


「――そこまでだ」


 いつの間にか先生が俺たちのすぐ側に立っていた。

 彼は俺たちを叱らなかった。

 ただ、その底の知れない瞳でじっと俺たちを見つめている。

 その視線だけでクロの殺気は嘘のように消え失せた。

 先生は俺とクロを交互に見ると満足げに頷いた。


「良い目をするな..ミナト。」


 そして彼はクロに向かって言った。


「クロ。こいつはお前のオモチャじゃない。お前の片腕になる男だ。……あるいは、お前を超えるかもしれんな」


 その言葉にクロの顔が屈辱に歪む。

 彼は、俺を強く睨みつけると舌打ちをしてその場を去っていった。


 後に残されたのは俺と先生だけだった。

 先生は俺の前に屈むと、その大きな手で俺の頭を撫でた。


「よくやった。だがなミナト。本当の戦いはここからだぞ」


 俺はその言葉の意味をまだ理解できなかった。

 だが一つだけ分かったことがある。

 この教会は安息の地ではない。

 獣を育てるための新しい檻なのだと。

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