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獣の檻

 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。


 俺が再び目を覚ました時。

 最初に感じたのは、匂いだった。


 黴と汚物とそして得体の知れない何かが腐った匂い。

 息をするだけで肺が汚れていくような、濃密な悪臭だった。


 次に感じたのは音。


 どこか遠くで水が滴る音。

 壁の向こう側で誰かが低く呻く声。

 そしてすぐ近くでたくさんの小さな生き物が走り回る気配。


 最後に感じたのは寒さ。

 硬く冷たいコンクリートの感触が背中から体温を奪っていく。


 俺はゆっくりと目を開けた。


 そこはほとんど光のない闇の中だった。

 目が慣れてくるにつれて、ぼんやりと周囲の状況が見えてくる。


 鉄格子だ。


 俺は錆びついた鉄格子で囲まれた、狭い檻の中にいた。

 そして、檻の中には俺以外にも何人もの子供たちがいた。


 俺よりも小さい子もいれば、少しだけ年上に見える子もいる。

 その数はおよそ十人ほど。

 誰もが一様に痩せこけて、その瞳からは光が消えていた。

 まるで、魂を抜き取られた後の抜け殻のようだった。


 彼らは、新しい仲間である俺を一瞥すると、すぐに興味を失ったようにまた闇の中へと視線を戻した。

 そこには仲間意識などという温かいものは、一切存在しない。

 ただ、同じ檻に詰め込まれただけの無関係な獣たち。

 そんな絶望的な空気がそこには満ちていた。


 その時だった。

 檻の外から男たちの声が聞こえてきた。

 俺をここに連れてきたスカベンジャーたちだ。


 ガチャンと重い音がして、檻の扉が開け放たれる。

 そして、一つの黒い塊が檻の中へと無造作に投げ込まれた。


 パンだった。

 黒く焦げて、石のように硬くなったパンの塊。

 それは、食料というよりは家畜に与える餌のようだった。


 だが、そのパンが床に転がった瞬間。


 それまで、死んだように動かなかった子供たちの目が一斉に変わった。

 飢えた獣の目に。


 一人の少年が誰よりも早くそのパンへと飛びかかった。

 だがm別の少年がその背中に乗りかかり髪を掴んで引き倒す。


「どけよ!」

「俺んだ!」


 殴り合い蹴り合い噛みつき合い。

 さっきまで抜け殻のようだった子供たちが、生存というただ一つの目的のために、本能を剥き出しにして争っている。

 それは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


 やがて、その争いを制したのは、檻の中で一番体の大きかった少年だった。

 彼は、他の子供たちを力でねじ伏せると、パンの塊を奪い取りそれを貪るように食い始めた。


 他の子供たちは、そのおこぼれを求めて彼にすがりつく。

 だが、少年は誰にも分け与えることなく一人で全てを食い尽くしてしまった。


 食いっぱぐれた子供たちは、また檻の隅へと戻り死んだように動かなくなる。

 勝者と敗者。

 ただそれだけの結果が、そこに横たわっていた。


 俺は、その光景をただ呆然と見ていた。


 これが俺がこれから生活する場所のルール。

 これがこの世界のルール。


 弱者は奪われる。

 強者だけが生きる。

 あまりにもシンプルで、そしてあまりにも残酷な掟。

 俺の心の中で、光の世界で育まれた何かが、音を立てて死んでいくのが分かった。


 ♢


 夜が来た。

 俺は檻の隅で膝を抱えた。


 寒くてひもじくて、そして何よりも寂しかった。

 父さんと母さんの顔を思い出そうとする。

 だが、その顔はもう靄がかかったようにぼんやりとしていた。

 ひーちゃんの笑顔だけが、なぜか鮮明に思い出せた。


 俺はポケットを探った。

 だが、そこにあるはずのお守りはなかった。

 あの時、スカベンジャーに奪われたのだ。

 俺と光の世界を繋ぐ最後の糸はもうどこにもなかった。


 俺は声を殺して泣いた。

 誰にも気づかれないように。

 弱さを見せれば食われるだけだと俺はもう学んでいたからだ。


 ♢


 数日が過ぎた。

 俺はただ死んだように檻の隅でうずくまっていた。


 スカベンジャーたちが、再び檻の前にやってきた。

 扉が開き、一人の男が中へと入ってくる。


 そして、子供たちを値踏みするように見回した。

 やがて、その指が檻の隅で震えていた一人の老人を指差した。

 あの交通事故の時、俺と一緒に捕まった男だ。


「おいジジイ。てめえだ」


 老人は、恐怖に震えながら首を横に振る。

 だが、男は容赦なくその髪を掴み引きずり出した。

 そして、次におもむろに俺を指差した。


「それとそこの新しいガキ。お前もだ」


 俺の心臓が大きく跳ねた。

 売られるのか。

 それとも殺されるのか。


 分からない。


 ただ、男に逆らえばどうなるか。

 そのことだけは痛いほど分かっていた。

 俺は、黙って立ち上がると檻の外へと歩き出した。

 冷たい鉄格子の扉が閉まる音が背後で重く響いた。


 俺は、スカベンジャーたちに引きずられるようにして檻の外へと出された。

 向かう先は分からない。

 ただ、この薄暗い地下通路のさらに奥へと連れていかれる。

 俺とそしてあの老人だけが。


 やがて俺たちは一つの広い空間へとたどり着いた。

 そこは、古い地下鉄のホーム跡のようだった。

 壁には数本の松明が燃え盛り、不気味な影を踊らせている。


 そこには檻の外にいたスカベンジャーたちが全員集まっていた。

 まるで、これから始まる見世物を心待ちにしているかのように。

 俺と老人は、その輪の中心へと無造作に突き飛ばされた。


「さあガキ」


 リーダー格の男が言った。

 その顔にはサディスティックな笑みが浮かんでいる。


「てめえの価値を、俺たちに見せてみろ」


 男はそう言うと、一本の錆びついたナイフを俺の足元へと放り投げた。

 カランと乾いた音が響く。


「そいつを殺せ」


 男の指が、震える老人を指差した。

 その言葉の意味を、俺の脳はすぐには理解できなかった。


 殺せ?

 この人を?

 なぜ?


 老人は、その場にへたり込むと涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で命乞いを始めた。


「た、助けてくれ……! わしには孫が……!」

「うるせえぞジジイ」


 男は老人の腹を容赦なく蹴り上げた。

 老人は呻き声を上げて体を丸める。

 俺は、ただその光景を震えながら見ていることしかできなかった。


 俺の頭の中に父さんと母さんの顔が浮かぶ。

 そして、ひーちゃんの笑顔が。

 俺は、ひーちゃんに約束したのだ。

 人を守る人になるって。


 なのに。

 なのにどうして俺が人を殺さなきゃならないんだ。

 俺は、首を横に振った。


 できない。

 できるはずがない。


「……どうしたガキ」


 リーダーの男が、俺の前に屈みこむ。

 その息はひどく臭かった。


「できねえのか? 人殺しは初めてか? まあ無理もねえな」


 男は、せせら笑った。


「だがなガキ。この世界じゃ殺す側と殺される側の二種類しかいねえんだよ。てめえが殺せねえってんなら、てめえは肉だ。俺たちのな」


 男は立ち上がると、仲間たちに命令した。


「こいつら二人とも殺せ。ただし、ゆっくりだ。指の一本一本から切り落としてやれ。こいつらの悲鳴で酒が美味くなる」


 その言葉に嘘はなかった。

 男たちの目が本物の狂気に輝いている。


 俺は理解した。

 これは選択ではない。

 ただの宣告だ。

 俺がここで何もしなければ、俺とこの老人はただ嬲り殺しにされる。

 だが、もし俺がこの老人を殺せば、俺だけは生き残れるかもしれない。

 地獄の天秤が俺の目の前に差し出されていた。


 俺は、震える手でナイフを拾い上げた。

 その重さが鉛のように感じられた。

 老人は全てを悟ったように泣きじゃくるのをやめた。

 そしてただ静かな声で言った。


「……すまねえな坊主……」


 その言葉が俺の最後の理性を断ち切った。


 俺は叫んだ。

 獣のような意味のない叫び声を上げながら、老人へと向かって駆け出した。


 そして。

 温かい血の感触が俺の手に広がった。


 俺は、ただ立ち尽くしていた。

 手には血に濡れたナイフ。

 足元には、もう動かなくなった老人。

 スカベンジャーたちの満足げな笑い声が遠くに聞こえる。


 俺は、自分の手を見た。

 それは、もう俺の手ではなかった。

 人を殺した獣の手だ。


 ひーちゃんに約束したあの日の俺は、もうどこにもいなかった。

 ミナトという名前の少年はあの瞬間完全に死んだのだ。

 そして代わりに生まれたのは、名もなき亡霊だった。


 光はそこで完全に途絶えた。

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