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落ちた空

 車は、高速道路を滑るように走っていた。

 窓の外を、夏の景色が猛烈な速さで流れていく。

 後部座席で、俺はひーちゃんにもらったお守りを強く握りしめていた。

 布の袋の中にある小さな石の感触。

 それが、なぜかひどく俺の心を落ち着かせた。


「ミナト、酔ってはいないかい?」


 母さんが、バックミラー越しに俺を見て優しく微笑んだ。


「……うん。大丈夫」

「そうかい。でも、もし気分が悪くなったらすぐに言うんだよ。父さんすぐに車を止めてくれるからね」

「ああ、任せておけ」


 ハンドルを握る、父さんが力強く頷いた。

 父さんの大きな背中。

 母さんの優しい声。

 車の中は、安心と幸福感だけで満たされていた。


 ラジオからは、古い洋楽が流れている。

 父さんと母さんが、若い頃によく聞いていた曲らしかった。

 二人は楽しそうに一緒に歌を口ずさんでいる。

 俺は、その二人の楽しそうな横顔を見ているのが好きだった。


 この時間がずっと続けばいいのに。

 心の底からそう思った。


 ♢


 高速道路を降りる。

 窓の外の景色が変わった。

 ビルがなくなり、緑の匂いが濃くなっていく。

 潮の香りがした。

 海はもうすぐそこだ。


 俺の心は期待に高鳴っていた。

 どんな綺麗な貝殻を拾おうか。

 ひーちゃんは、喜んでくれるだろうか。

 そんな、子供じみた考えだけが、俺の頭の中を占めていた。

 これから起きる悪夢のことなど何一つ知らずに。


 ♢


 カーブの多い山道に入った。

 父さんの運転は、いつも安全で丁寧だった。

 その日も、そうだった。


 対向車線から一台の巨大なトラックが、猛スピードで走ってくるのが見えた。

 よくある、光景。

 誰も何も気にしていなかった。


 そのトラックが。

 まるで、意思を持ったかのように、俺たちの車線へと突っ込んできたのは。


 本当に一瞬の出来事だった。


 キィィィィィィィィィッ!


 耳を劈くようなブレーキ音。

 父さんが何かを叫びながら、必死にハンドルを切る感触。

 俺の体をシートベルトが強く締め付ける。

 そして、母さんの短い悲鳴。


 ――ゴシャアアアアアアアッ!


 全てを無に帰す衝撃と轟音。

 世界がひっくり返った。

 青い空と、緑の木々と、黒いアスファルトがぐちゃぐちゃに混ざり合い回転する。

 ガラスが粉々に砕け散る音がした。

 体が宙に浮く。

 そして二度目の、さらに強烈な衝撃。

 鉄が歪み潰れる、おぞましい音。


 ……静寂。


 俺が次に目を覚ました時。

 世界は逆さまになっていた。

 甘いガソリンの匂いが鼻をつく。

 チリチリと、何かが燃える小さな音。

 俺は逆さまになった車の後部座席で、シートベルトに宙吊りになっていた。


 頭が痛い。

 体中が痛い。

 だが、不思議と声は出た。


「……父さん……? 母さん……?」


 返事はなかった。

 俺は必死に前の席を見た。


 そこには、赤い何かに染まった二つの動かない影があるだけだった。

 その意味を、俺の幼い頭は理解することを拒絶した。


 遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえる。

 助けが来る。

 俺は、そう思った。


 だが、そのサイレンの音よりも早く。

 別の足音が近づいてくるのを、俺は聞いた。

 ガラスの破片を踏みしめる、複数の足音。

 俺は、助けが来たのだと信じて、力の入らない腕を伸ばした。

 その時、聞こえてきたのは救助隊員の声ではなかった。


「……お宝だ。まだ、温かい」


 その、あまりに冷たい声。

 俺の希望が絶望へと変わるのに時間はかからなかった。


 バキン!という、金属の引き裂かれる音と共に、ひしゃげた車のドアがこじ開けられた。


 逆さまの視界に、二人の男の顔が現れる。

 汚れた衣服。

 そして、獲物を漁るような飢えた目。

 それは、決して人を助ける者の目ではなかった。


 彼らは、俺には目もくれなかった。

 まず、動かない父さんと母さんの元へと這い入っていく。


 そして、その亡骸から、腕時計や財布、結婚指輪といった金になりそうなものを手際良く剥ぎ取っていった。


 一人の男は、母さんが心を込めて作ってくれたお弁当箱を見つけると、その場で蓋を開け、まだ温かい卵焼きを汚れた手で掴み、貪るように食い始めた。


 やめろ。

 やめてくれ。

 俺は、叫びたかった。

 だが、喉からはひゅうという、か細い息が漏れるだけ。

 涙すら出なかった。

 あまりに非現実的なその光景を、俺の心はまだ理解することを拒絶していた。


 やがて、男たちはめぼしいものを全て奪い尽くすと、ようやく俺の存在に気づいた。


「……おい、ガキが、一人生きてるぞ」

「まだ、息がある。こいつは、高く売れるかもしれねえな」


 下卑た笑い声。

 一人の男が、俺のシートベルトをナイフで切り裂く。

 俺の体は重力に従い、砕けたガラスの破片が散らばる天井へと叩きつけられた。


「ぐっ……!」


 その衝撃で、俺の意識が僅かに覚醒する。

 男の手が、俺の体を探る。

 そして、俺が強く握りしめていた、小さなお守りの袋に気づいた。


「ん? なんだ、こりゃ」


 男が、そのお守りを俺の手から奪い取ろうとしたその瞬間。

 俺の奥底で何かがプツリと切れた。


 それは、ひーちゃんとの約束。

 俺のたった一つ残された宝物。

 俺は気づけば、男のその手に牙を突き立てていた。


「いってえ! この、クソガキ!」


 男の拳が俺の顔面に叩き込まれる。

 だが、俺は決して歯を離さなかった。


「離せ、この野郎!」


 もう一人の男が、俺の体を蹴り飛ばす。

 その衝撃で、俺の手からお守りがこぼれ落ちた。

 そして、俺の意識は再び闇の中へと沈んでいった。


 俺は引きずられていた。


 アスファルトの上を。

 そして、草むらの中を。

 木の枝が顔を引っ掻く。

 石が体を抉る。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 だが、それ以上に心の方が痛かった。


 ふと、視界が開けた。

 木々の隙間から、俺は見たのだ。

 遠くの道路の上。


 赤と青の光が点滅している。

 パトカーと救急車がようやく到着したのだ。


 助けが来た。

 あと、少し早ければ。

 俺はまだ光の世界にいられたのかもしれない。


 だが、もう遅い。

 俺の体は冷たい岩の隙間へと、引きずり込まれていく。

 それはアビスへと繋がる無数の蟻の穴の一つだった。


 サイレンの音が急速に遠ざかっていく。

 母さんの温もりも。

 父さんの大きな背中も。

 そして、ひーちゃんの向日葵のような笑顔も。

 全てが遠ざかっていく。

 俺の意識は、完全に途切れた。


 光はそこで完全に途絶えた。

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