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幕間 : ノアの誓い

 その日、ノアは学校を休んだ。

 祐樹には「少し、熱があるみたい」と、嘘をついた。

 祐樹は、心配そうな顔で彼女の額に手を当てると、「無理はするな。何かあったら、すぐに連絡しろ」と言い残して、学園の仕事へと向かった。

 一人アパートに残されたノア。

 彼女は祐樹のその優しさが、今は何よりも痛かった。


 数日前に起きた毒の薔薇事件。

 祐樹は彼女にその詳細を語ってはいない。

 だがノアはその本能で全てを理解していた。

 あの夜、祐樹がアパートに持ち帰った微かな、しかし忘れようもない死の匂い。

 そして、その日から祐樹の纏う空気が一段と張り詰めたものへと変わったこと。


 シズカ。

 あの忌まわしき魔女が再び動き出したのだ。

 そして、自分はその時何もできなかった。

 祐樹がたった一人でこの日常を守っている間、自分は学校でのうのうと平和な時間を過ごしていた。


 (……あたしは、弱い)


 彼女は自らの拳を強く握りしめた。

 祐樹は自分を「相棒」だと言ってくれた。


 だが、今の自分はなんだ?

 彼に守られているだけのお荷物。

 彼の足手纏い。


 黒瀬との戦いの時。

 自分は確かに役に立った。

 だが、あの戦いはアビスの流儀が通用する戦いだったからだ。


 シズカのやり方は違う。

 もっと、狡猾でもっと陰湿で、そしてもっと静かだ。

 そんな影の戦争の中で、自分は祐樹の盾になれるのか?

 彼の牙になれるのか?

 答えは、否、だった。


 (……このままじゃ、ダメだ)


 彼女は立ち上がった。

 そして、祐樹の机の引き出しから一枚の地図を取り出す。

 それは、カラスが祐樹に提供した東京の裏社会のマップだった。

 彼女の指先がその地図の一点を指し示す。


 そこは、湾岸地区にある巨大な廃工場地帯。

 かつて、アビスの無法者たちが表社会に潜伏する際に、アジトとしていたと言われる曰く付きの場所。


 今の自分に足りないもの。

 それは、アビスの野生ではない。

 この表社会のルールの中で、戦い抜くための新しい力。


 彼女は、祐樹がバイトで稼いだ金の中から数枚の紙幣を抜き取ると、小さなメモを残した。


「――少し、借りる。必ず返す」


 ノアは、アパートを飛び出した。

 彼女が向かう先は学校ではない。

 彼女だけの新しい狩り場。

 そして、彼女だけの新しい修練場。

 祐樹を守るための力を手に入れる、そのただ一つの目的のために。


 彼女の大きな瞳にはもはや涙はなかった。

 そこにあるのは、獲物を見据えるアビスの戦士の、冷たい決意の光だけだった。


 ノアがたどり着いた湾岸地区の廃工場地帯。

 そこは、まるで、アビスの残響がそのままこびりついたかのような場所だった。


 錆びついた鉄骨の骨格。

 割れた窓ガラスが、風に揺れて甲高い悲鳴のような音を立てる。

 潮風に混じって、忘れ去られた機械油の匂いがした。

 彼女はその退廃的な静寂の中で、自らの新しい修練を開始した。


 それは、ただ肉体を鍛えるだけのものではなかった。

 彼女が磨き上げようとしていたのは、自らのアビスで培った野生の“感覚”を、この表社会の戦場で通用する鋭利な“技術”へと昇華させることだった。


 彼女は、まずこの広大な廃工場を自らの縄張りへと変えていった。

 何日もかけてその隅々までを歩き回り、全ての構造をその脳裏に叩き込む。

 どこに身を隠せる死角があるのか。

 どこが最も音を立てずに移動できるルートなのか。

 そして、どこが敵を誘い込み葬り去るための最高の罠場となるのか。


 そして、彼女は自らの特異な能力を使い始めた。


 彼女は祐樹から借りた金で、大量の安いドッグフードや猫缶を買い込んでいた。

 それを廃工場の各所に毎日同じ時間に置いていく。

 やがて、この縄張りに住む野良犬や野良猫、そしてネズミやカラスたちが彼女を敵ではない「餌をくれる存在」として認識し始めた。


 彼女は彼らの王になったわけではない。

 ただ、この縄張りの生態系の一部として受け入れられたのだ。

 そして、彼女は彼らの声なき言葉を聞く。


 カラスの普段とは違う警告の鳴き声。

 野良猫たちの僅かな警戒心の高まり。

 ネズミたちが一斉に静まり返る気配。

 それら全てが、彼女にとってこの縄張りの異常を知らせる、完璧な生体センサーネットワークとなったのだ。


 彼女はもはや一人ではない。

 この都会の闇に生きる全ての獣たちを、その目と耳としていた。


 その日の夕暮れ。

 ノアは廃工場の最も高い錆びついた鉄塔の上で、一人眼下に広がる東京の街並みを見下ろしていた。

 夕陽が高層ビル群を茜色に染め上げている。

 それは、アビスでは決して見ることのできなかった、あまりにも美しい光景だった。


 (……ミナは、この光を守ろうとしている)


 そのために、彼はたった一人で戦っている。

 自分は本当に、彼の相棒でいられるのだろうか。

 ただ、彼の後ろに隠れて、その牙の一つとして使われるだけの存在でいいのだろうか。


 (……違う)


 彼女は、静かに首を横に振った。


 (あたしは、ミナの牙じゃない)

 (あたしは、ミナを守る“盾”になるんだ)


 どんな毒の薔薇も、その美しい花弁を散らす嵐になる。

 どんな監視の目も、そのレンズを曇らせる霧になる。


 彼が安心して戦えるように。

 彼がいつか本当に、心から笑えるその日が来るように。

 そのために、自分はもう一度獣になる。

 ただの獣ではない。

 この表社会のルールを知り尽くし、その裏をかく知恵を持った新しい獣に。

 ノアはその小さな胸の中で、固くそして熱く誓った。


 ♢


 その、同じ夕暮れ。

 聖マリアンヌ女学院で清掃を終えた祐樹が、ふと空を見上げた。

 彼はなぜか胸騒ぎがして、湾岸地区の方角をじっと見つめていた。

 まるで、そこに新しい、そして恐ろしくも頼もしい何かが生まれたのを、その魂で感じ取ったかのように。

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